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第五章 アイリスと禄朗と幸夢
第五章 1 メモリー
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いつも通り一緒に教室を出ようとしたら、禄朗が少し待っててというから、仕方なくあたしは校門のところで彼が出てくるのを待っていた。
十分が経ち、十五分が経ち、それでも禄朗は出てこない。
クラブのない生徒の下校がだいたい終わって、校門を出ていく人がいなくなった頃、校舎から出てきたのは、女の子だった。
近づいてきてそれが同じクラスの曽我さんであることに気づく。
あたしの前まで来て、何でか睨んでくる曽我さん。
彼女の目は赤く充血していて、たぶんいまさっきまで泣いてたんだと思う。
「あの……」
どうしたのかと思って声をかけようとしたけど、曽我さんはあたしが何か言い始める前に視線を逸らして、早足に学校を出て行ってしまった。
「お待たせ」
遠ざかっていく曽我さんの背中を見ているときに、そう言って禄朗が声をかけてきた。
振り向いて見てみると、いつもと変わらぬ笑みを浮かべてるはずの禄朗が、でも何となくいつもと違うような気がした。
どこが違うのかはっきりとはわからないけど、歩き始めた彼の手に、あたしは手を伸ばす。
何となく、本当に何となくだけど、不安になっていたから。
そしてたぶん、禄朗も何か不安に感じることがあったように思えたから。
握り返してくれる手が暖かくて、でも少し恥ずかしい。
いつもは学校からある程度離れてからか、ふたりでいるときにしかつながない手。
こんなに学校の近くで手をつなぐのは初めてだったから、もう学校の人が近くにいないのはわかってるけど、ちょっと頬に熱を持つのを感じていた。
いつもと変わらない他愛のない話をしながら、家へと向かって歩く。
それだけのことで幸せで、それだけのことであたしはいま満たされていて、でもこんな時間がもうあんまり長く続かないことはわかっていた。
二年になって早速出された進路希望のアンケート。
それにあたしはまだ何も書き込むことができないでいた。
でもたぶん、禄朗はすでに書いて提出も終わってる。
禄朗は何かやりたいことがあって、それに向かって勉強を始めてるらしいことに、あたしは気づいていたから。
それでもいまはいまを楽しもう。いまの幸せを噛みしめよう。
明日からゴールデンウィーク。
春休みの終わりに幼馴染みを卒業して、恋人同士になったあたしたちにとって、初めての長いお休み。
いろんなところに行こうと相談していて、でもまだ決まってなくって、今日この後は禄朗の家に行って、明日行く場所を決める予定だった。
学校にほど近い駅前のロータリーを通って、交通量の多い道路に面した商店街を手をつないだまま歩いて行く。
注目されてることなんてないけど、ちょっと恥ずかしい。でもちょっとうれしい。
人通りの邪魔にならないように気をつけながら、充分余裕のある歩道を禄朗と肩を並べて歩くだけで、あたしは幸せを感じていた。
「イーリス!」
突然鋭く禄朗が叫んで、つないだままの手を強く引っ張った。
振り回すように引っ張られて、そのまま離される。勢いが良すぎて、あたしは禄朗から少し離れたところで尻餅をついてしまう。
「何よっ、禄朗!」
文句を言ってお尻をさすりながら立ち上がろうとする。腰を浮かせつつ禄朗の方を見ると、あたしを振り回したときに転けてしまった彼は、何故か悲しそうに笑っていた。
「あ――」
次の声をかけようとした瞬間、あたしの視界から禄朗が消えた。
その代わりに何かがすごい勢いで通り過ぎていって、遅れて風があたしの頬を叩いた。
ブレーキの音。
ガラスが割れる音。
おっきなものが何かにぶつかる音。
何が起こったのかわからなくて、あたしはまたぺたんと座り込んでしまう。
「禄朗?」
声をかけながら辺りを見回すと、ずいぶん離れたところに禄朗が倒れていた。
脚にも腰にも力が入らなくて、あたしは這いずって彼のところに近づいていく。
起き上がる様子のない禄朗の頭を、アスファルトに座り込んで膝の上に乗せる。
どこからなのかわかんなかったけど、身体の下に回した右手を濡らしてるのが禄朗の血であることはわかった。
左手で彼の手を握りしめるけど、弱々しくしか握り返してくれなかった。
「禄朗?」
声をかけると、目だけを動かして、彼があたしのことを見た。
その視線はでも、もうあたしのことをちゃんと見ているようには見えなかった。
「ねぇ禄朗。嘘だよね。こんなの本当じゃないよね」
そんな風に声をかけてみても、禄朗には聞こえてないみたいだった。
「やめてよ! こんな冗談大嫌いっ! ねぇ禄朗、大丈夫だって言ってよ!! 起き上がってよ! あたしのことを見てよ!!」
大声を出して禄朗に声をかけるけど、どんどん流れ出してくる血が、彼の身体から力を失わせる。熱を奪い去っていく。
「やだよ、禄朗! これからはずっと一緒だって約束したじゃないっ! 死ぬまで一緒にいるって約束したじゃない! こんなの全部嘘だって言ってよ!!」
信じたくなかった。
禄朗から流れ出す血とともに、彼が急速に死んでいく。
もう辺りは血の海みたいになってて、お尻まで彼の血で濡れて気持ち悪かった。
――こんなの、嘘だ。
禄朗が死ぬなんてこと、嘘じゃないとおかしかった。
――こんなこと、なくなってしまえばいい。
禄朗が死ぬなんてこと、なくなってしまえばよかった。
「ねぇ禄朗!!」
そう呼びかけたとき、禄朗の口が微かに動いた。
「ゴメン、僕はもうダメだ。さよなら、イーリス。――あぁ、嘘だ。こんなのイヤだ。死にたくない。イーリスを残して死ねないよ。僕はもっと、もっとイーリスと一緒に生きていたかったよ」
ほんの微かな、耳にかろうじて聞こえるくらいの言葉。
――でもこれ違う。
あのとき、あたしは禄朗の言葉を聞き取れなかった。
聞こえていたはずなのに、頭に残ってくれなかった。
でもいまは彼の言葉が、小さい声だったのに、はっきり聞くことができた。
くたりと、禄朗の手の力がなくなる。
禄朗が、あたしの側からいなくなってしまった。
禄朗は、死んでしまった。
あたしのことを、ひとりにして。
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