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第二章 カエデ

第二章 カエデ 1

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          * 1 *


 ――さすがに舗装されてたりはしないな。
 トールに身体を寄せられて、柔らかい身体と甘酸っぱい香りに包まれ、緊張であんまり眠れない夜を過ごした。日が昇り始めたまだかなり早い時間、俺はトールとともに洞窟を出発した。
 トールの言葉だと「そんなに遠くない」だったが、低かった太陽が天頂に近づいてるのがわかるくらいの時間がかかってたどり着くことができた、人間が使っているという街道。
 森や草原に隣接して続いている街道は、ガードレールがあったりアスファルトで舗装されていたりはしなかった。
 けっこう大きな石なんかも転がってるのが見えるけど、踏み固められ馬車のものだろう轍が残ってる。二車線の道路より広いくらいの道は、人間の文明を感じるのに充分なものだった。
「こちらです」
 そろそろ秋の足音が聞こえてきそうなほど晴れ渡った空の下、俺はトールの指し示した方向に彼女と肩を並べて歩き出す。
「反対側は?」
「あちらにも人間の街が、この辺りでは一番大きなものがあります。……ですが、春の頃に魔人スイミー率いる魔王軍が攻め込み占拠されています。タクトを追いかけていたオークたちもその街から来たのだと思います」
「魔王軍か。物騒だな」
 占拠されている街ってのがいまどうなっているのかはわからないが、魔王に征服されてる場所になんて近づきたくはない。
 俺は後方に気をつけつつ、トールの指さす方向に歩いていく。
 そこからさらに休憩を挟みつつ二時間だか二時間半くらい経った頃、遠くに人工の壁と思われるものが見えてきた。町だ。
「分かれ道があるね」
「はい。おそらく町の外に人間の集落か何かあるのでしょう。行き来は頻繁なようなので、それなりの大きさなのではないかと思います」
 遠かった町がはっきり見えてくるようになった頃合い、分かれ道があった。
 いまのところまだ人通りがない街道から路地に入るような細さのその道は、しゃがんだトールが地面を調べてみた限り、往来がけっこう多いようだ。
 ――さて、どうしよう。
 立ち止まって俺の判断を待ってるらしいトールのことを眺める。
 腰と胸がどうにか隠れてるだけという、町に入るにはどう考えても問題のある彼女の格好。
 巨人族ならそんなものかも知れないが、やっぱりもう少しマシな服装にした方がいいと思う。
 良さそうなものがあるかどうかはわからないが、せめて人の注目を集めないような、旅装束に見える服でもほしいところだった。
「まずはこっちに行ってみて、町に入るための準備でも整えよう」
「わかりました。行きましょう」
 同意してくれたトールとともに、まばらに木が生えた林を分断するように伸びてる分かれ道に入っていく。
 ――なんか、けっこう大きいな。
 小さな集落でもあるのかと思ったら違った。
 町の外だというのに別荘か何かのような、二階建ての大きな家が見えてくる。赤い煉瓦と木で造られたその家は、お城とか要塞というほど大きくも堅牢そうでもなかったが、ヘタすれば現代でもありそうな、がっちりした造りに見えた。
 さすがに電線とかはないから、電気が通っていたりはしない。コンクリートっぽい建材が土台に使われてるところから見ると、現代ではないけれど、産業革命前後とか、それくらいの文明はありそうな予感がした。
「どうされますか?」
「裏に回ろう」
 この世界の基準がわからないけれど、部屋数は軽く一〇を超えそうなお屋敷だ。外からは見えないけど無人でないなら、魔王軍に占拠された街もそう遠くない場所にあるんだ、警備の兵士とかがいてもおかしくはない。
 お屋敷の前の人影のない広場には出ず、木の陰から様子を窺っていた僕は、トールの問いにそう返事をし、林の中を通って裏側に回ることにする。
 かなりの大回りになりつつ林の中を通って、ガラスの窓にカーテンが掛かっているから人は住んでいると思われる、ずいぶんひっそりと静まり返ってるお屋敷の裏庭っぽいところに回る。
 井戸や倉庫らしい建物がある裏の広場には、ちょうど物干し台に洗濯物が干してあるのが見えた。
「ここで待っていてくれ、トール」
「わかりました、タクト」
 大柄で、デカい棍棒も持ってるトールは目立ちすぎる。
 見える範囲の窓には人影は見えないが、遠くからでも人の気配は微かに感じてる。トールが出て行くには発見されやすさが半端無いので、俺ひとりで足音を忍ばせ、周囲の人影を確認しつつ、洗濯物へと近づいていく。
 ――これは仕方のないことなんだ。
 たぶん一〇人か、それ以上の人が生活してると思われる量の洗濯物。
 トールに良さそうなものを物色しながら、俺はそんなことを自分に言い聞かせている。
 元の世界のように通報されたらすぐに警察が飛んできて捕まるってこともないだろう。でも俺がこれからやろうとしていることは、窃盗だ。盗みだ。
 トールのためとは言え、俺はこれから罪を犯そうとしている。
 ――いや、そんなこと言ってる余裕はないか。
 突然こんな世界に生まれ変わって、まだ右も左もわからない状態なんだ、生き延びるためにできることをできる限りやって、生きていくしかない。
 いまは窃盗も止む無し。
「何か返せるものがあったら、後でもいいから返しておこう」
 当てもないけど盗んだ分はそのうち返そうと思いつつ、俺は男物と思われるシャツとズボン、それからカーテンかシーツらしい大きな布を物色して脇に抱える。
 いったんトールの元に戻った俺は、今後のことを考えて最低限の調理器具とか、それを入れる袋とか、残っているなら食事にでもありつこうと、もう一度屋敷に向かった。
「たぶん構造的にはこの辺が食堂か厨房の裏だと思うけど……」
 井戸の位置や石炭を入れてるらしい箱の場所からそれを想像して、俺は勝手口と思われる小さな扉のノブを回し、忍び込む。
 思った通りそこは厨房で、幸い人影はなかったがすぐに食べられそうなものは見える場所には発見できなかった。
 そのときだった。
 絹を引き裂くような女性の悲鳴。
 屋敷全体に響き渡るようなそれに、俺は身体を硬直させる。
「タクトッ」
「トール?」
 彼女にも聞こえたのだろう。
 胸が突っ張ってたりお尻が窮屈そうでいろいろ足りてなさそうな服を身につけ、マントのようにシーツを羽織ったトールは、棍棒を手に厨房のドアを開けて入ってきた。
「どうされましたか?」
 険しく眉根にシワを寄せ、彼女はそう問うてくる。
 悲鳴に続き、澄ませた耳には、争う男たちの声と、金属と金属がぶつかり合う音がしてる。ゲームとは少し違うが、たぶん戦闘音。
 何が起こっているのかはわからない。けれど、誰かが屋敷の中で戦っていることだけは確かだった。
「少し、様子を見に行こう」
「……わかりました」
 不快そうに、心配そうに目を細めたトールはでも、俺の提案に頷いてくれる。
 すぐ近くには人の気配がないことを確認しながら、俺はトールとともに厨房から廊下へと出る扉を開けた。


            *


 物音を頼りに足音を忍ばせて廊下を歩きたどり着いたのは、玄関ホール。
 剣道の試合くらい楽にできそうなそこには、たくさんの人影があった。
 板金と革を合わせた複合鎧を身につけ、腰に剣を佩き手に槍を持つ人間の兵士は、八人。対するオークが一二匹。
 ――人間、いたんだな。
 トールとオーク以外にまだ出会ったことがなかった俺は、そんなことにちょっと感動を覚えつつ、牽制しあって戦闘が止まってる状態のホールをじっくりと眺める。
 俺を追いかけてきてた奴よりマシな鎧と武器を持つオークたちの他に、見たことのない、たぶん妖魔と思われる奴がいた。
 開きっぱなしの大きな玄関扉の近くに陣取り、左右にはメイド服っぽい服装の女の子を両脇に抱えたオークを従えているのは、黄土色に近い肌をした、人間にも見える禿げ頭。
 武器も鎧も兵士と同じくらいしっかりしたものを身につけてるそいつが、たぶんオークたちのリーダーだ。
 そいつらよりも存在感も威圧感もとんでもない奴が、ホールの真ん中に居座っていた。
 真っ黒な犬。いや、オオカミだろうか。
 ただの犬ならたいしたことはないが、口から黒い吐息を漏らすそいつは、馬どころかゾウと比べた方が良いほどの巨体だ。サイズが圧倒的すぎて、槍を持ってる兵士も手を出し切れていない様子がある。
「奥にいるのはゴブリンで、真ん中にいるのはハウリングウルフですね」
「あいつらも妖魔?」
「はい。ゴブリンは人間か猿の妖魔と言われていますが、かなり古い種族で、繁殖能力もあります。頭も良く力もそれなりです。ハウリングウルフは見ての通り巨大で、強力です。その叫び声は心の弱い人間では心臓が止まるほどの恐怖を与えます」
 俺の頭越しにホールを覗き込むトールが、潜めた声でそう教えてくれる。
「わたしを追いかけてきていた戦力よりもかなり強大です。あの人間たちの戦力では倒しきれるかどうか。とばっちりを食う前にこの場は去った方が良いかと」
「ん……」
 トールの声は余裕を感じるが、それでもわずかに緊張してるのがわかる。彼女の力でも手こずる戦力なんだろう。
 ――でも……。
 妖魔たちや兵士の他に、ホールの隅にはふたりの女性がいた。
 ひとりはオークに抱えられてる女性たちと同じ、メイドのような黒のワンピースにエプロンを着けた女性。
 威嚇してくるハウリングウルフを警戒して足並みが揃わない兵士と違い、短剣を手にもうひとりの女性を守って立ち、セミロングの黒髪のメイドさんは、揺るぎない視線を周囲に配っている。
 もうひとりは女の子だ。
 たぶん俺と同じくらいの年頃のメイドさんより何歳か年下で、苦渋の色を瞳に浮かべながらも、ゴブリンを睨みつけている。
 薄茶色の長い髪をし、他の女性たちとは違い高級そうな、ドレスというほどじゃないけど飾り立てられた可愛らしい、でもちょっと喪服にも見える黒い服を着ているその子は、姫様とかそういう、この屋敷でも最上位の地位を持つ人物のようだった。
 ――どうすればいいだろう。
 俺を転生させた美少女神とは違う、整った顔立ちをし、強い意志と決意を感じさせる美少女。
 兵士もひとりは腕を怪我して戦えなくなってる状況で、逃げ出さないのは凄いと思うけれど、戦力的には厳しい。屋敷の女を掠おうことが目的らしい妖魔部隊なのだから、この場は逃げ出すのが正解なんじゃないかと思える。
 ――どうすればいい?
 もし俺がこの場に飛び出したら、確実に殺される。
 奴らが兵士たちを倒し、女の子たちを捕まえ終えたら、次は俺とトールの番だ。トールが他の妖魔を相手にしてる間に、数の多い妖魔たちの手が空いてる奴が俺を殺しにくるだろう。
 命の瀬戸際に、俺は立っていた。
 ――でも……。
 身体が竦んで動けなくなりそうなのに、逃げ出すことができない。見過ごすことができない。
 俺は、彼女たちを助けたい。
 彼女たちの命は、いまにも失われようとしているのだから。
「あの者たちを助けたいのですか? タクト」
「……トール?」
 声をかけられて顔を上げると、彼女は俺に微笑みかけてきていた。
 うん、と答えたかったけど、ためらう。
 俺と一緒にいてくれる彼女もまた、俺にとっては大切な人だ。彼女を危険に曝したくはない。
「大丈夫です、タクト。わたしは負けません」
「でも、トール――」
「大丈夫なのです、タクト。自分では死ぬことしか考えられなかったわたしは、貴方に救われました。わたしは無能者でした。命よりも大切な誇りを救ってもらった大恩は、貴方の望みを叶えることで返したいと思います。それに、本来トロールは戦いに生きる巨人。怪我をする程度のことは勲章です」
 言ってトールは、ニッコリと笑いかけてきてくれる。
「もう一度問います。彼の者たちを、救いたいと望みますか?」
 真っ直ぐな赤い瞳が、俺に問うてくる。
 穏やかで、静かな瞳は、俺の思いに寄り添ってくれている。そんな気がした。
 それでもまだ迷っているとき、トールが俺のことを抱き締めた。
「いけないっ」
 頭を抱えるようにして大きな胸に押しつけられたとき、身体が震えるような雄叫びが響いた。
 ハウリングウルフの叫び。
 ガラス窓を激しく揺らすほどの叫び声は、ほんの数秒ほどのこと。その声の大きさも凄かったけど、脳を揺らすような恐ろしさに、トールに抱き締められ耳を塞いでもらっていた俺でも、全身の力が抜けそうになっていた。
 悲鳴。
 脱力しそうな身体に力を入れて振り返ると、戦況は一変していた。
 身体を震わせた兵士たちはみんな尻餅を着き、踏ん張って立ち短剣を振るってオークを退けているメイドさんはどうにか無事。
 しかし気を失ったらしい姫様は、横合いから走ってきたオークにかっ攫われていた。
 ゴブリンがひとつ声を上げ、オークたちを見回す。撤退するらしい。
 ただ撤退するだけじゃなく、ヨダレを垂らすハウリングウルフが、腰の抜けた兵士に向かって大きく口を開けていた。
「トール、みんなを助けてくれ!」
「わかりました。タクト!」
 ニッと嬉しそうに笑い、棍棒を手にしたトールが廊下の影から風のように飛び出した。
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