人喰い狼の血

大窟凱人

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変身

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 今夜、彼は満月の光を浴びて狼男になった。
 体のいたるところから伸びた硬い体毛が全身を覆いつくし、元々175㎝程しかなかった骨格がバキバキと音を立てて形を変え、2m近い巨躯へと変貌する。筋肉は異様なまでに発達し、ヘヴィ級ボクサーのような成長を遂げた。着ていた服はボロボロにちぎれ、ゆったりめのジーンズがパンパンのショートパンツになってしまった。顔の形も、まさに狼の如く変わっており、笑うと獲物を狩るための鋭い牙がずらっとむき出しになった。ハァ、ハァと獣の荒い息が狭い洗面所にこだました。
 
「落ち着け。準備は出来ているはずだろ」

 彼は自身に語りかけ、あくまで平静を保ち、鎮静剤をポケットから取り出す。
 これは彼が狼男になってしまった時、興奮を抑えるためと言って故郷の両親が渡してくれたもの。彼の一族は代々狼人間に変貌してしまう家系で、一族は迫害を逃れるためにこのことは秘密にしてきた。彼は子供の頃から念入りに狼男について教育を受けたが、いつ、だれが狼人間になってしまうのかは神のみぞ知るところだった。
 そして今、彼はその問題に直面していた。会社からの帰り道、ふと夜空に浮かぶ満月を見上げてしまったのだ。上京してからすでに数年が経過しており、自分が狼人間の血族だということはすっかり頭の片隅に追いやられていた。ここには、こんな時に頼れる家族や親戚はいない。自分でなんとかしなければ。
 彼は鎮静剤を腕に打ち込んだ。興奮状態が抑えられ、その場に座り込んだ。
 狼人間には、特徴が三つある。

 1.満月の光を浴びると狼人間に変身する。

 2.満月の光を浴び続けると、狂暴化する。

 3.朝陽が昇れば、元の姿に戻る。

 2番が危険だった。両親から聞いた話だと、長く浴びれば浴びるほど理性が失われ、血肉を求めるようになってしまう。だからこそ、両親は彼が上京するのを頑なに拒んだ。万が一暴走すれば、大事件になりかねない。捕まれば根掘り葉掘り調べれられ、一族に危険が及ぶ。だが、彼は窮屈な田舎暮らしに嫌気がさし、飛び出してきてしまったのだ。
 朝までだ。それまで家の中でじっとしときゃいい。朝陽が昇るのはだいたい六時か七時頃。今が二十二時だからあと長くて十時間くらい。鎮静剤も打ったし大丈夫だ。

 ピンポーン。

 チャイムが鳴った。彼の住んでいるワンルームのアパートに、こんな時間に来る人間はひとりしかいなかった。
 彼は急いで風呂場から飛び出すと、押入れの中に隠れた。かなりギリギリだが、狼人間の巨躯はなんとか収まった。
 チャイムは再び鳴り、少し間があってから、ガチャリと鍵が開いた。
 入ってきたのは、伊藤美香。彼の彼女だ。二十八歳でカフェの副店長をしている。仕事帰りにふらっとこのアパートにやってきて、ご飯を作ったり夜の情事に精を出したりするのが、ふたりの日常だった。彼は、美香に自分の出自のことは話していなかった。

「ねえー! 寝てるの?」

 ドサッと買い物袋をキッチンに置いたような音が聞こえ、彼女の足音が押入れのある部屋まで近づいてくる。
 頼む。気づかないでくれ……
 彼は祈った。

「いない……電気もつけっぱなしでどこ行ったんだろ」

 そうだ。俺はいない。だから今日は帰ってくれ美香……。
 しばしの沈黙があった。何をしているんだいったい?
 そう彼が疑問に思った時、肉厚でパンパンになったポケットからブー、ブーとスマホが振動する音が響いた。   

「押入れから? 変なの」

 美香は俺のスマホに電話をかけたようだ。彼女の足が押し入れ方へ向く音が聞こえる。
 ちくしょう! スマホ取り忘れていた! ダメだ。来るな。こんな姿、見られたくないんだ。
 そんな彼の想いとは裏腹に、美香の足音は一歩一歩、確実に近づいてくる。
 ──くそ、くそ!
 彼は押入れのふすまを蹴破り、一気に外に出た。砕かれたふすまが飛び散る。美香は驚きのあまり声を失っているのか、悲鳴は聞こえない。姿を見られたかどうかもわからない。そしてそのまま、窓を破ってアパートの外に飛び出た。わずか数秒足らずの出来事である。

 外は、満月が光り輝き、雲の輪郭がはっきりとしていた。町も月明かりでかなり明るく、彼は満月の光を全身に浴びてしまう。
 ──ドクッ。
 心臓が激しく脈打ち、血が滾る。全身がカァっと、燃えるように熱くなる。

「ぐっ……これが満月による狂暴化か」

 彼は満月の力をひしひしと感じながら、この場を立ち去るために駆け出した。

「マジかよ」

 狼人間の脚力は、彼の想像を遥かに超えていた。一歩の初動で数メートルは移動でき、飛び上がれば二階建ての家を軽くまたげるほどの跳躍力だった。彼は今まで感じたことのないほどの肉体的自由を手にし、家から家へとまるで空を飛ぶように移動し続けた。

 廃ビルへたどり着くと、地上から15階にあるフロアへと飛び移り、満月の光が当たらない奥へと雪崩れ込んだ。窓ガラスが派手に割れ、むき出しのコンクリートに散らばる。

 息が荒い、動機も激しい。

 彼はこの場所を見つけるのに時間がかかり、満月の光を浴びすぎてしまったようだ。狼男になってからわかったことだが、満月の光の影響は、蓄積するらしい。月陰に入れば収まるだろうと思っていた激しい動悸は、今も一向に鳴りやまない。今、彼は血に飢えていた。

 ──肉。肉を喰らいたい。

 内から湧き出る衝動、衝動、衝動。気が狂いそうだ。かといって、ここから出ればまた満月の光を浴び、それこそ理性を失ってしまう。ここで、あと何時間も耐えなくてはならない。
 
 どのくらいたった?
 彼はポケットからスマホを取り出し、時間を見る。
 深夜2時半。この廃ビルに来てから、まだ一時間しか経過していない。苦しい時間は長く感じるものだが、これはまたそれとは違い、餓死寸前の空腹をひたすら我慢し続ける拷問のようだった。彼は歯を食いしばり、ギザギザの犬歯がむき出しになった。
 肉肉肉肉肉肉肉肉肉。肉を噛みたい。噛み切りたい。むさぼりたい。やわらかい内臓をぶちまけて味わいたい。
 脳内はどんどん侵食されていった。

「チチッ」

 ネズミがフロアの隅に現れた。
 その鳴き声が彼の耳に入った瞬間、理性は一気に消し飛んだ。
 目をカッと見開き、全身のバネを捩じってタメを作り、銃弾のようにネズミに飛びつく。小さくやわかな命は、狼男の手に潰され、一瞬で消え去った。
 彼は手の中のネズミの死体をすすり、さらにその血をベロベロと舐めまわした。

 ──足りない。

 彼は満月の光が当たる場所まで歩いた。月光を浴びれば浴びるほど、血が滾る。気分がアガる。さあ、狩りの時間だ。誰もかれも、喰らい尽くせ。
 彼は狼以上に発達した嗅覚で、一番近く、安全な獲物を居場所をクンクンと探り当て、廃ビルを飛び出す。
 もはや、止めるものは何もなかった。

 
 彼は住宅地へ繰り出すと、さっそく獲物を見つけた。ふらふらしながら歩いている中年男性。酒の匂いが鼻をつんざくが、あまりに人気のある場所だと騒ぎになるということは理性のない今の状態でも無意識にわかっていたため、あの酔っ払いが現状の最適解、と判断した。
 相手は隙だらけ。彼は恐ろしい形相で風のように走り、獲物との距離を一気に縮めた。
 途中、酔っ払いは彼の足音に気づいたようで、振り返った。すると、だらしない赤ら顔が驚愕に変わり、よたよたと走り出した。だが、数歩走ったところで酔っ払いは転んだ。
 彼は暗い住宅地の道の真ん中で、酔いどれた獲物をじっと見降ろした。
 獲物は、恐れながらも、大声を上げようとした。

「だ、だれかガッ──」

 声を上げる刹那、酔っ払いの首は彼の口の中に収まり、グシャグシャと咀嚼されてしまった。
 うまい、うまい。人間の脳みその味。もっと。もっとだ。
 彼は獲物の首から下を見た。そして欲望のまま、獲物の体をむさぼりつくす。内臓が飛び散り、あたり一面、真っ赤な血で染まった。彼の顔にも血がかかり、体毛から真っ赤な血が滴っている。
 すると、すぐ隣の家の窓が開いた。人影が動き、何やらしゃべっているのが聞こえる。

「化物だ! 警察に!」

 肉を喰ったおかげで、幾分か理性が戻ってきた彼は、これはまずいと思った。巨大な狼の姿をした生物が、深夜に人を喰い散らかしている姿。それを見られてしまった。
 ──逃げなくては。
 彼は踵を返し、獲物の残りを抱えてその場から立ち去った。



 翌朝、彼のやったことはニュースになっていた。
 深夜の閑静な住宅街で起こった残忍な殺人事件。目撃者によると、狼男のような姿をしていた。警察は事件の詳細を調べいるなど、様々なことがネットで語られている。
 彼は朝焼けに染まる廃ビルで、スマホをぽちぽちと眺めていた。

 朝になったら、両親に教えてもらった通り、狼化は解除され、元の人間の姿に戻った。彼は今、短パンになったジーンズ以外は裸の状態である。しかも、体中血だらけ。
 あの酔っ払いを喰ったあと、彼は最初に駆け込んだ廃ビルにまた戻り、酔っ払いの体をしゃぶりながら滾る食欲を抑え、朝までなんとか乗り切ることができたのだった。

「しかし、どうやって家に帰ろう。今日も仕事だってのに。それに……」

 スマホには、彼女から鬼のように連絡が入っていた。

「はぁ……どうすりゃいんだ。美香、お前の彼氏は狼男で、人殺しだぞ」

 その時、電話がかかって来る。見ると、彼の父親からだった。彼は家を飛び出してきた身ではあったが、縁までは切っていなかった。
 親父なら、教えてくれるかも。
 彼は電話に出た。

「もしもし」
「息子よ! 元気か?」
「あ、ああ。ところで、何の用?」

 一応彼は、とぼけてみせた。

「わかってるだろ? ニュースを見たんだよ。狼男現るってニュース。お前、狼人間になっただろ?」
「……うん」
「やっぱりな。どうだ? うまかっただろう。人間は」

 ……は?
 
「わかるぞ。最初はつらいよなあ。人を喰ったんだ」

 な……何を言っているんだ、こいつは。

「でもな、それが俺たち一族の性だ。仕方のないことさ。お前もそのうち理解するだろう」
「つまりあれか。親父も、喰ったことがあるのか? 人間を」

 父親のおかしな質問に困惑しながら彼は言った。

「もちろんだ。お前には大人になってから話すつもりだったが、家出してしまったからな。電話も全然でないし」
「人を喰って大丈夫なのかよ? 俺だって今、事件になってて、もしかすると捕まるかもしれないんだぜ」
「狼化したお前ならわかるだろ。あの状態なら、軍の一個小隊くらい難なく壊滅できるほどの力がある。逃げ足も尋常じゃないし、捕まる事はまずない。だから、お前が家出した後で狼化して、万が一大騒ぎになったとしても、実はそこまで心配はしていなかったよ。それに、一晩で元に戻るしな。現に俺たちの一族は何百年も人間社会で生き続けている」

 流暢にしゃべる父親の知られざる一面を知り、彼は言葉を失っていた。
 
「で、うまかったのか?」

 彼の父親は、再度問いかけた。

「認めるしかない。お前はもう、あの味を忘れられない。狼化するたびに人間の血肉を求めて彷徨う。そのたびに事件を起こしてニュースになるのか? さすがにそれは庇いきれん。面倒なことになる前に、長老たちで話し合ってお前を殺しに行くかもな」

 彼は、父親が何を言っているのか、だんだんわかってきた。

「戻ってこい。俺たちと一緒にやれば、苦労なく人を喰える」

 沈黙が流れた。この質問は、彼の一生を左右する質問だった。

「聞いているのか?」
「親父」
「なんだ?」

 彼は、ごくりと唾を飲み込んで言った。

「うまかった」

「そうか! やはり俺の息子だ! 戻ったらもっといろいろ、教えてやる。今もどこかに隠れているんだろう。場所を教えろ。迎えに行く」
「……わかったよ。ありがとう」

 電話が切れた。
 彼は大きく息を吸い込んでから、人間の肉の香ばしい匂いが混じった息を吐いた。
 今日、彼は人間ではなくなった。
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