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第三幕 7場 カルール村の長い夜

第42話 カルール村

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 カルール村は草原を農地に開拓した農村だ。
 広大な農地に家が点々と建てられている。
 
 村の中心部には教会の他、商売を営む家もある。
 それらのほとんどは村人の生活を支える程度の小さな店である。
 幼馴染みのマーレイの実家の薬屋もその一つた。

 俺は2階の窓を見上げながら馬車を進めていく。
 よく学校帰りに立ち寄ったマーレイの部屋にはもう誰も住んではいない。
 赤いトタン屋根の薬屋。
 これが見納めだと思うと……
 なんだか感傷的な気分になってきた。

『ユーマ、昔の女に未練たらたらー』

「う、うるさい! 未練なんかないぞ!」

 ハリィは俺の首にぶら下がっている間は俺の感情を共有している。

「ん!? なあにユーマ? 未練って……なあに?」

 隣のアリシアが不思議そうに訊いてきた。
 俺はさっき、うっかり声に出していたのか?
 アリシアにどう説明しようかと悩んでいると――

「あれ? ユーマじゃないか!?」
「あっ、本当だ! あいつ馬車になんか乗りやがって」
「おーい、ユーマー!」

 3人連れの男達に声をかけられてしまった。
 奴らは学校の同級生。
 俺のことを何かと理由をつけて馬鹿にしてきた連中だ。

「ねえユーマ……あの人間たち、あなたの知り合いじゃないの?」

「ああ、そうだ」

「じゃあ……なんで馬のスピードを上げているのかしら?」

「これが人間社会の礼儀なんだよ!」

 俺はそんな珍回答をアリシアに返したのだが――

「おい、馬を止めろ!」
「おまえ村を出てどこをほっつき歩いていたんだよ!」
「その隣にいる美人な女は誰なんだー!? くそったれーッ」

 3人が全力で追いかけてきた。
 お前ら随分暇なんだな。
 俺のことはほっといてくれよ。
 俺はもう魔族の一員になったんだから!

「ハーッ!」

 馬に渇を入れ、全力で奴らを振り切った。
 でこぼこ道で御者台がガタガタと揺れる。
 アリシアは俺の隣で、すこぶる機嫌が良さそうに跳ねていた。


  
「あれが俺の家だ。小さいだろう?」

 畑と果樹園の中にぽつんと建つ木造の家。
 父さんと母さんが若い頃に、この地に辿り着き、二人で建てた小さな家。
 20年経った今では傷みが激しくすき間だらけになっている。

「何と言うか……趣のある住み家でござるな……」
「あの小屋に皆で泊まるのですか?」
「や、野営みたいでフォクスは……嫌ではないですよ?」

 後ろの連中は微妙に失礼な感じで騒いでいる。
 一方、アリシアは何だか緊張した表情になっている。
 ごくりと生唾を飲み込んでいる。

「アリシア、俺の母さんはただの人間だから、緊張しなくても大丈夫だぞ?」
「あっ……アタシが緊張しているように見えた?」
「見えた」
「そ、そう……おっかしいわねー、あはははは……」

 何かを誤魔化すように髪の毛を整え始めた。
 すかさずフォクスがブラシを手渡した。
 アリシアの左胸には木製のブローチが揺れている。
 
 家のそばの立木に馬を留め、久しぶりの我が家の扉を開く。

「母さん、ただいま!」

 台所で薬の調合作業をしていた母さんが振り向く。
 驚きのあまり、すり鉢とすり棒が床に落下した。

「ユーマ……!!」

 母さんは駆け寄り、俺を抱きしめた。
 俺は仲間達の視線を気にして、ちょっと照れくさく思った。

「良く帰ってきたね。今までどこに――」

 その瞬間、母さんは俺の体を離して首元に手の平を向けた。

「そのまま、そのままじっとしているんだよッ!」

 母さんは強い口調で俺に向かって言った。
 そんなに険しい表情を初めて見た。

「ユーマに何をしているの!? 出て行きなさい!」

 母さんの手の平から緑色の光が放たれる。
 俺の首元――ハリィに向かって。

「うわー、びっくりしたー」

 ハリィは擬態を解いて、テーブルの上に飛び降りた。

「ユーマは私の息子よ! あんたたちには指一本触れさせないんだからッ!」

 そう言って俺を庇うように前に立ちはだかり、母さんは両手を広げた。
 緑色の髪はゆらりと空中に広がる。
 ナベや調理器具がカタカタと音を立てて振動し始める。
 
 何がどうなっているんだぁぁぁ?
 状況が何一つ掴めない俺は混乱していた。 
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