命、在るものになりたくて

柴田彼女

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おいしそうだね

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 十二時になっても当たり前のように自分の番はこなかった。私は受付の女性に一言断って、病院の外にあるベンチに向かう。いつも私はここで一人、弁当を食べる。ベンチは三つあるが、なぜか誰も使っているところを見たことがない。そもそもなぜベンチがあるのかもわからない。それでもこれがあるから私は病院のたびに外食をしなければならない羽目に陥ることを避けられているので、私にとっては感謝すべき存在だった。
 ベンチに腰掛け、リュックサックとトートバッグを傍らに置き、両手を上げ、伸びをする。すし詰めの待合室では小さく丸まり続けているから、身体も心も握り潰されたアルミホイルのように小さくなってしまう。膝の上に手を置き、ふう、と息を吐く。暑い。夏の手前、というよりもう初夏だ。次からは予約時間をギリギリまで遅くしてもらって、お昼を挟まないようにしてもらわなければならないかもしれないな。入れてきた冷たいコーヒーを飲みながらそんなことを思う。

 あらかじめ入れてあった使い捨ての手拭きで掌を拭い、サンドイッチを取り出す。ラップを外し、一口齧ろうとした瞬間、
「おいしそうだね」
 と、声がした。思わず口を開けたまま声の方向を見ると、隣のベンチに一人の女が座っていた。気づかなかった。
 女は全身黒づくめで、けれど決してそれは悪趣味に感じず、むしろ質や品のよさを覚えさせた。おしゃれな人だな、と私に印象づける。肩下の髪には緩いウェーブがかかっていて、黒々と光っている。黒い目の一匹の烏のような美しい女は、改めて、
「サンドイッチ。おいしそうだね。どこのお店? ここいらへん?」
 と訊ねてくる。私が小さい声で「自分で作ってきました」と答えると、
「え、すごいね、本当? お店のみたい。すごい。映えじゃん」
 そう言って私のほうに少しだけ身体を寄せた。ベンチとベンチは一メートル半ほどの距離がある。私は「まだ私のスペースは安全だ」と心で確認しながら、
「ありがとうございます」
 と短く返す。
「あ、ごめん、食べていいよ。気にしないで。ごめんね、わたしつい人に話しかけちゃうの」
 答えは返さず、パンにかぶりつく。きょうもほどほどの味がする。
 こういうおしゃれな人もメンタルクリニックに通うんだな、と思い、いやそれは理不尽な偏見か、とすぐに自分に修正の赤字を入れる。女は暑さで水滴の滴るペットボトルのスポーツドリンクを、喉を鳴らして飲んでいる。たったそれだけのことが画になる人間もいるんだな、と思う。私とは違う、と。
「ここさ、すっごい待つよね。まあ話聞いてくれる先生だから人気もあるし仕方ないんだけど、さすがに二時間、三時間って待たされてると、こっちメンタル病んでるんだけど、って腹立ってくるんだよね。実際診察するとそういうのも治まるんだけど。コントロールされてるなー、っていっつも思っちゃう」
 女は一人で喋り続けている。私は相槌を打とうとするが、うまい言葉が出てこない。それでも女は喋り続ける。
「最近は夏も近くて暑くて本当ヤになるよね。待合室は涼しいけど、死んだ目の人間で埋め尽くされてるからこっちまで同じ顔になっちゃいそうだし。てか実際あそこに座ってると自分の今後とか今の病状とか考えて鬱っぽくなってこない? スマホいじってるのも限界あるしさ。病気の関係なのか、自分以外の人間のことは汚物みたいな目で見てくる奴もいるし、逆にじろじろ好機の目で見てくる奴もいるし。一人でブツブツ喋ってる奴もいれば、こうして一人でずっとだらだらべらべら返事ももらえないのに喋り続けてるような、イカれた女もいる」
 女を見る。待合室の人間共と似たような目をして、しかしその目はこちらを見ておらず、付け足したように笑っている。ああ、やはりこの人もそうなのだ。思う。
「ごめんね、うるさいよね、ご飯中なのに話しかけられて、ウザいよね。ごめんね、わかってるんだけど」
 女が立ち上がろうとするので、
「大、丈夫です。気には、なりません」
 この人にも何かがあるのだ。この人も過去や現在に何かがあって、それで心を砕いた人なのだ。私と一緒だ。線は引いても、区別してはいけない。隣のベンチで喋っているだけなら、それだけなら。私はサンドイッチを強く握る。具材が少し飛び出て、慌てて力を弱める。
「……そういうところで、病んじゃったタイプなんだね」
 女がぬけぬけと言う。ぬけぬけと言ったが、思ったより不快ではなかった。サンドイッチを齧る。コーヒーを飲む。女は隣でスマートフォンをいじって、
「芸能人の××、不倫したんだってね。言い訳がダサすぎてウケる」
 とか、
「あしたちょっと気温下がるみたいだよ。ラッキーだね」
 とか、
「あ、作家の××先生ツイートしてる。いいな、お友達とアフタヌーンティーしてきたんだ」
 とか、取り留めない話を延々と続けている。
 私はそれをB.G.M.に食事を摂っている。きょうはいつもと違う病院の形をしていて、それは少し不思議で、しかしあまり不快ではなかった。
 それは彼女がとても美しい人だったからかもしれないし、彼女のような美しい人間も私と似たように狂うことがわかって嬉しかったからかもしれない。とにかく、彼女の言葉は私にとって邪魔ではなく、ただ流れる衣擦れのような、些細なメロディでしかなかった。
 時々彼女の横顔を盗み見る。スマートフォンを見ることを止めた彼女は、私のほうなんて見ず、真っ直ぐ、一点を見てずっと一人きりで喋っている。彼女のウェーブのかかった髪が風に揺れる。同時、私のショートカットも揺れる。
「ああ、いい風だ」
 彼女が言う。そうだね。私も心の中で返事をする。いい風だ。肺の中に風の匂いをたくさん取り入れられるよう、深呼吸をする。少しだけ肩の力が抜ける。

 クリニックに通う者としての心得がしっかりとしている女だな、と思っていた。どうでもいい話を一方的にしたいという自身の欲求は果たしたいが、相手を消耗させたいわけでもないという意思を感じた。
 彼女から出る言葉は本当にどうでもいいことばかりで、病名だとか、病状だとか、そういう、こちらのパーソナルスペースに石を投げ込むような乱暴な話題が口から飛び出ることはない。私の知らないミュージシャンだかバンドだか、誰かの発した言葉を「やっぱ×××は格好いいなあ」なんて一人でぼやいて、やっぱりどこか遠く一点を見ている。
 彼女が私の中のほうを見たのはさっきの「そういうところで病んじゃったタイプなんだね」のたった一度だけで、そして私はそれを不快に思わなかった。他人との会話を求めていただけかもしれないけれど、女の話を一方的に聞き続けることは疲れを伴わない。むしろ主治医と話すほうが疲れるかもしれないな、なんて考えていると、
「犬塚さーん、次の番なので戻ってきてくださーい」
 と、看護師が玄関のほうから顔を出して女を呼んだ。
 犬塚さん、と呼ばれた女は、
「はあーい。今行きまーす」
 と返事をし、
「長々ありがとう。あなたはどうかわからないけれど、私は楽しかった」
 ペットボトルを鞄にしまい、やはり私とは目を合わせずにそう言って、建物の中へと帰っていった。

 サンドイッチは食べ終わり、コーヒーももうほとんど空っぽだったけれど、私はもう少しだけここに座っていよう、と決める。先ほどの、犬塚さんの話ではなく、声だけを思い出している。彼女の見た目によく似合う、遠くまで届く、濁りと揺れがほとんど存在しない、彼女の目線くらい真っ直ぐな声。心地いい声だった。
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