婚約破棄ありがとうございます! お礼いたしますわ!

黒猫かの

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深夜のド・ヴァニラ公爵邸。

重厚な正門を叩き割りそうな勢いで、キャメルを乗せた馬車が滑り込んだ。

彼女は馬車が止まるやいなや、ドレスの裾を豪快にまくり上げて飛び降りる。

「ただいま戻りましたわ! お父様! お父様はいらっしゃって!?」

夜会から帰った令嬢とは思えない怒声に、屋敷の執事であるセバスチャンが、音もなく影から現れた。

「……お帰りなさいませ、お嬢様。本日の夜会は、ずいぶんと『刺激的』だったようですね。既に王宮からの早馬が届いております」

「あら、仕事が早いですわね。それで? お父様はどちら?」

「旦那様は書斎で、お嬢様を処刑するための……失礼、お嬢様をお迎えするための準備を整えておいでです」

「処刑って言おうとしたわね? 今、はっきりと処刑って言おうとしたわね?」

キャメルはセバスチャンをジロリと睨んだが、彼は全く動じずに「さあ、こちらへ」と書斎を指し示した。

(さて、ここからが本番よ。勘当されるか、修道院送りか。まあ、どちらにせよあの窮屈な王宮生活よりはマシですわ!)

キャメルはバァン! と勢いよく書斎の扉を開け放った。

部屋の奥、大きな机に座っていたのは、キャメルと同じく鋭い目つきをした初老の紳士。

ド・ヴァニラ公爵その人である。

彼は娘の顔を見るなり、手元の書類をバサリと置いた。

「……キャメル。お前、王太子の口にキムチを突っ込もうとしたそうだな」

「語弊がありますわ、お父様。正確には『差し出そうとした』のです。彼が勝手に震えて逃げ出しただけでございますわ」

「しかも、そのキムチは家宝の黄金箸で掴んでいたと聞いたぞ」

「あら、よくご存知で。やはり美味しいものは、良い道具で食べてこそ価値が出るというものです」

キャメルは胸を張って答えた。

公爵は深いため息をつき、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

そして、娘の目の前まで歩いてくると、その肩にガシリと手を置いた。

「……よくやった」

「……はい?」

キャメルの思考が停止した。

公爵の顔を見ると、そこには冷徹な表情ではなく、今にも泣き出しそうな「親馬鹿丸出し」の笑みが浮かんでいた。

「よくやったぞ、キャメル! あんな石頭の王子など、こちらから願い下げだ! そもそもキムチの良さが分からん男など、ド・ヴァニラ家の婿には相応しくない!」

「お、お父様……?」

「お前が毎日、夜会のために無理をして着飾り、死んだ魚のような目でマナーの練習をしていたのを、私はずっと見ていたのだ。今日から自由だ! 好きなだけキムチを漬け、好きなだけニンニクを食うがいい!」

「……! お父様……大好きですわ!」

二人は熱い抱擁を交わした。

公爵家の重苦しい雰囲気は一瞬で霧散し、なぜか「自由バンザイ」の空気が満ち溢れる。

「さて、そうとなれば話は早い。キャメル、お前にプレゼントがある」

「プレゼント? 修道院の入学願書ではなくて?」

「バカを言うな。これを見ろ」

公爵が机の上に広げたのは、広大な土地の図面だった。

「これは我が領地の中でも、特に日当たりが良く、土壌が豊かな一等地だ。お前のために買い取っておいた」

「これは……まさか」

「そうだ。お前の『理想の菜園』を作るがいい。思う存分、唐辛子と白菜を育て、世界一のキムチ工場を作るのだ!」

キャメルの瞳が、かつてないほどキラキラと輝き始めた。

(自由……! 土地……! そして、無限の唐辛子!)

「素敵ですわ! 最高の退職金ですわ! 私、今日からクワを持って土と語り合います!」

「うむ。だが、一つだけ問題がある」

公爵が少しだけ顔を曇らせた。

「なんですの? 私の握力が強すぎて、クワが折れることくらいなら想定内ですわよ?」

「そうではない。……実は、お前の『キムチ断罪』の噂を聞きつけて、この屋敷に向かっている者がいるのだ」

「アルフレッド殿下の追っ手かしら? それとも、リリアン様の嫌がらせ?」

「いや。隣国のレオナード・ハデス王子だ」

キャメルの動きが止まった。

レオナード・ハデス。

漆黒の髪に氷のような美貌を持ち、戦場では『死神』と恐れられる最強の魔導師。

「……その死神様が、どうして私のような(キムチ臭い)令嬢に御用があるのかしら」

「分からん。だが、彼は『あのキムチの香りに、運命を感じた』と言い残して、国境を越えたそうだ」

「運命……? キムチに……?」

キャメルは首を傾げた。

彼女の直感は「これは面倒なことになる」と告げていた。

しかし、自由を手に入れた今のキャメルに、恐れるものなど何もない。

「まあ、いいですわ。誰が来ようと、私の菜園計画を邪魔させません。もし邪魔をするなら……」

「……もし、邪魔をするなら?」

「鼻の穴に、最高級の粉唐辛子を詰め込んで差し上げますわ!」

キャメルは高笑いしながら、夜空に向かって拳を突き上げた。

その翌朝。

公爵邸の庭では、豪華なドレスを脱ぎ捨て、動きやすい作業着(という名のボロ布)に身を包んだキャメルが、勇ましく大地を耕し始める姿があった。

「いくわよ、土壌改良魔法(物理)!!」

ドォォォォォン!!

クワを振り下ろすたびに地面が爆発し、まるで工事現場のような騒音が響き渡る。

そんな彼女を、門の向こうから静かに見守る、一台の漆黒の馬車。

中から漏れたのは、低く甘い、そして少しだけ危うい男の声だった。

「……素晴らしい。土煙にまみれて笑う彼女こそ、私が探し求めていた『毒』だ」

キャメルのセカンドライフは、のんびりどころか、激動の幕開けを迎えようとしていた。
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