塩対応の悪役令嬢は砕けない!

猫宮かろん

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「……いったぁ~」

派手なガラスの破砕音と共に現れたアーモンド公爵は、着地のポーズを決めたまま、小さく呻いた。

「おい、カシュー。この窓ガラス、意外と厚みがあったな。肩が少し切れたかもしれない」

「自業自得です。なんでドアから入ってこないんですか」

私は呆れて言った。

「ヒーローは遅れて、かつ派手に登場するものだという美学がある」

「その美学のせいで請求額が増えましたよ。ガラス代と清掃代、追加しておきますね」

「……愛しの君に会えた感動の再会なのに、第一声が金の話か?」

アーモンドは苦笑しながら立ち上がり、肩についたガラス片を払った。

そして、私の前に立ちはだかっていたマシュ・マロへと向き直る。

「さて。……そこにいるのは、我が領の恥さらし、『ピンク・スパイダー』だったか?」

「ひっ……!」

マシュが悲鳴を上げて後ずさる。

彼女はナイフを握りしめているが、その手は小刻みに震えていた。

「あ、アーモンド様……いえ、ロースト公爵閣下……」

「私の顔を知っているな? 当然か。私はお前の国の筆頭公爵だ」

アーモンドの声は低い。

いつものふざけた調子ではなく、領主としての威厳に満ちている。

「諜報部から報告は受けている。『コードネーム・ピンクスパイダー。潜入先で男にうつつを抜かし、定期連絡を三ヶ月怠っている馬鹿がいる』とな」

「うぐっ……!」

「まさか、その馬鹿がここにいるとはな。しかも、私の大切な『おつまみ』に刃を向けるとは……いい度胸だ」

アーモンドが一歩踏み出す。

マシュはガタガタと震え、ナイフを取り落とした。

カラン、と乾いた音が響く。

「ち、違うんですぅ! これは任務で! その、ナッツ家を潰せば国益になると……!」

「黙れ」

一喝。

空気がビリビリと振動した気がした。

「国益? 笑わせるな。ナッツ家の作る『熟成生ハム』と『燻製チーズ』がこの世から消えることが、どれほどの損失か分かっているのか?」

「へ?」

「それは我が国だけでなく、全人類の食文化に対するテロ行為だ! 貴様は国益どころか、私の『晩酌の楽しみ』を奪おうとした大罪人だ!」

「そっちですかぁ!?」

マシュがツッコミを入れるが、アーモンドは大真面目だ。

「塩を止めるだと? 食材を腐らせるだと? ……料理への冒涜も甚だしい! 貴様のような味の分からない人間に、スパイを名乗る資格はない!」

「ひぃぃぃ! ごめんなさいぃぃ!」

マシュはその場に土下座した。

自国のトップ貴族、しかも完全にブチ切れている(食べ物の恨みで)相手には、逆立ちしても勝てないと悟ったのだろう。

「カシュー様ぁ! 助けてくださいぃ! この人、目が本気ですぅ! 私を燻製にする気ですぅ!」

「自業自得よ。……でもまあ、燻製にされる前に、まずは法の裁きを受けなさい」

私は冷ややかに見下ろした。

そこで、今まで空気になっていたピーナン殿下が、ようやく再起動した。

「ま、待て! 話が見えん!」

殿下はふらふらと立ち上がり、マシュとアーモンドを交互に見た。

「マシュがスパイ? ロースト公国の? ……ということは、最初から私を騙していたのか?」

「あら殿下。まだ気づいてなかったんですか? おめでたい頭ですね」

マシュが顔を上げ、冷めた目で言った。

「騙すも何も、貴方が勝手に『僕のエンジェル』とか言って舞い上がってただけじゃないですか。チョロすぎて笑いを堪えるのが大変でしたよ」

「な……っ!」

「『君のためなら星も取ってこれる』でしたっけ? あ、星じゃなくて塩を止めたんでしたね。ププッ、傑作」

「き、貴様ぁぁぁ!」

殿下が顔を真っ赤にして掴みかかろうとする。

しかし、アーモンドがその間に割って入った。

「やめろ、ピーナン殿下。見苦しい」

アーモンドは殿下の腕を軽く払い、冷徹に告げた。

「彼女の処分は、我が国で引き取る。国際問題にしたくないなら、大人しく引き下がることだ」

「し、しかし! 私の純情は!?」

「知らん。勉強代だと思え。……それよりも、君にはやるべきことがあるだろう?」

アーモンドが顎でしゃくる。

その先には、私が持っている「請求書」があった。

「あっ……」

殿下の顔色が青ざめる。

私はニッコリと微笑み、請求書をヒラヒラとさせた。

「そうですわ、殿下。スパイ騒動で有耶無耶にはさせませんよ? さあ、サインを」

「うぅ……」

「それとも、国王陛下をお呼びしますか? 『隣国のスパイに操られて国交を断絶させかけた愚かな王子』として」

「や、やめろ! サインする! サインすればいいんだろう!」

殿下は半泣きでペンを奪い取り、誓約書に震える文字で署名した。

『塩の供給を即時再開する』
『違約金を分割で支払う』
『今後、カシュー・ナッツには一切関わらない』

サインを確認し、私は満足げに頷いた。

「結構です。……これにて、一件落着ですね」

「うわぁぁぁん! マシュの裏切り者ぉぉ! カシューの鬼ぃぃぃ!」

殿下は泣き叫びながら、中庭の奥へと走っていった。

最後まで締まらない男だ。

残されたのは、土下座しているマシュと、ガラスまみれのアーモンド、そして私。

「……さて」

アーモンドがマシュを見下ろした。

「ピンク・スパイダー。貴様の処遇だが」

「は、はい……! なんでもします! 命だけは!」

「カシュー。どうする? こいつを煮るなり焼くなり好きにしていいぞ」

「料理みたいに言わないでください」

私はため息をつき、マシュを見た。

彼女は涙と鼻水と泥でぐちゃぐちゃだ。

スパイとしては三流だが、憎めないところもある。

「……国へ連れ帰ってください。そして、スパイ養成学校からやり直させてあげては?」

「甘いな、カシュー。砂糖菓子だけに」

「上手いこと言わなくていいです。……ただし、マシュ」

私はしゃがみ込み、彼女の目を見た。

「ナッツ家の塩を止めたこと、それだけは許しません。罰として、ナッツ領の復興作業を手伝いなさい」

「ふ、復興作業……?」

「ええ。塩運びから樽洗いまで、雑用をたっぷり用意しておきます。爪が割れるまで働きなさい」

「……はいぃぃぃ」

マシュは力なく項垂れた。

これで、本当に終わった。

私は大きく伸びをした。

「……ふう。疲れた」

肩の荷が下りると同時に、どっと疲れが押し寄せてくる。

よろめいた私を、アーモンドが抱き止めた。

「お疲れ様、カシュー。……見事な手際だった」

「貴方が窓を割ったせいで、余計な仕事が増えましたけどね」

「ハハッ、すまない。……でも、どうだ? 私がいなかったら、今頃ナイフで刺されていたかもしれないぞ?」

「……否定はしません」

彼の胸に顔を埋める。

燻製の匂いと、ガラスの粉っぽい匂い、そして彼の体温。

ああ、落ち着く。

「……来てくれて、ありがとう」

私が素直に言うと、彼は嬉しそうに私の頭を撫でた。

「当然だ。……君は私の『人生のメインディッシュ』だからな」

「まだ言いますか」

「一生言うぞ」

私たちは中庭の真ん中で、泥だらけのスパイを横目に、少しだけ長く抱き合っていた。

こうして、ナッツ家没落の危機は回避され、騒動は幕を閉じた。

……はずだった。

「あのぉ……お取り込み中すみませんがぁ……」

マシュが恐る恐る手を挙げた。

「私、お腹が空きましたぁ」

「……空気読みなさいよ」

私とアーモンドは同時にツッコミを入れた。

やはり、この空気の読めなさは才能かもしれない。
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