侯爵家の婚約者

やまだごんた

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「カイン、どうしたの?」
 イレリアの呼びかけで、カインは自分が考え事をしていたに気が付いた。
「何でもない。今日はお師匠さんはいないんだな」
「ええ。明後日まで仕事で出かけてるの。それより様子が変よ?」
「本当になんでもない。ただ――明日から仕事なのかと思うと憂鬱になっただけさ」
 ロメオの言葉を考えていたなんて言えるはずがなかった。
「ここのところ毎日のように君に会ってただろ?明日からは今みたいに頻繁に会えないのかと思うと寂しくなってね」
 カインは笑って言うと、肩をすくめて見せた。
「あなたがここに遊びに来るようになって15日。長い休暇だったわね。仕事の事なんて忘れたんじゃないの?」
 食料がこれでもかと詰め込まれた袋を受け取ると、イレリアは軽々と持ち上げて店の奥に運んだ。
「君は魔力操作は下手くそなのに身体強化の腕は素晴らしいな」
 残りの袋を軽々と持ち上げて、カインも店の中に続いた。
 パンに、燻製肉、油や塩に香辛料、果物の蜜漬けや、子供たちが喜びそうな焼き菓子などがこれでもかと詰め込まれていて非常に重い。
「身体強化は子供でもできるわ。そうじゃなきゃ生きていけないでしょ」
 袋を店の奥にしまうと、イレリアは手と服に付いた埃を払い、カインがくれた紅茶を粗末な器に淹れて出した。
「それでもそんな細い体で、あんな荷物を持てるのはすごいよ。うちの女中では絶対無理だ」
「鍛え方が違うわ。私たちは命懸けだもの」
 
 貧民街には仕事は殆どない。だから皆、子供の頃から様々な仕事をしている。
 広場では排泄物を回収する業者から小銭をもらって各家から容器を集める仕事や、水道の無い集合住宅の住民の家に井戸から水を運ぶ仕事などを、大人に混じって子供達もやるのだ。
 おがくずや藁が入ったし尿の容器や、1日分の生活用水が入った甕など非常に重いものを運ぶ。身体強化を使えるからこそできる仕事だった。
 もちろん、魔力を持たない者はいないので、誰でも身体強化を使える。
 だからと言って、進んで汚れ仕事をする者はいない。これらの仕事は、貧民街の住民のいい稼ぎ口になっているのだ。
「それでもひと月銀貨を1枚も稼げたらいい方だけど」
 貧民街の暮らしをイレリアから初めて聞いた時、目の前が真っ暗になる気がした。それほどまでに過酷なのだ。
 
「カインったら、またそんな顔をして」
 カインが答えに困っているのを見かねて、イレリアが紅茶をカインの手に持たせながら笑った。
 一番収入の低い小作人のひと月の収入が5デナリウス――銀貨5枚程度。カインの知るイレリアはそれ以上に働いているのにその半分にも満たない。
「心配しないで。今は師匠が店番の他にも、私が調合した薬の売上をくれているの。これでも月に銀貨3枚を超える時もあるのよ」
 胸を張って言うイレリアだが、カインはそっと視線を落とした。
 それでも、その収入のほとんどを君はこの街の皆に分け与えているじゃないか。
 カインはイレリアの淹れてくれた茶を受け取ろうと、彼女の荒れた手を握った。
「カイン――私はここで生まれてここで育ったの。あなたが侯爵家のお屋敷で沢山の使用人に傅かれて生きてきたように、私はここで物心ついた頃から働いて分け合って生きてきたの。あなたも私もそれが当たり前だし、それ以外の生活を知らないのよ」
 カインの表情から、イレリアは自分が憐れまれている事を察して悲し気に微笑んだ。
 カインは手の中にある粗末な器をじっと眺めた。騎士隊の詰所でも使わない程の粗末な器だが、それでもイレリアにとっては非常に高価だったに違いない。
 カインに自分が使うような器で茶を出せないと、わざわざ買ってきてくれたものだ。
 自分は汚れてひび割れた器を使っているのに、彼女はこれを買うためにどれだけの事を我慢したのだろう。
 それに比べて自分はどうだ。食糧を差し入れていると言ったところで、カインにとって何一つ苦労はない。アレッツォに命じ用意させるだけだ。
「すまない。そんなつもりじゃなかったんだ」
「いいのよ。元々住む世界が違うんだもの――仕方のない事なのよ」
 慣れていると屈託なく笑うイレリアの表情は少しだけ曇っているように見える。
「君を蔑んだりなんかしていない。憐れんでもいない――僕は――」
 次の言葉を探したが、適切な言葉が見つからない。
「違う――違うのよ、カイン。今日別れてしまえば、あなたは元の生活に戻ってしまう。そうしたら、もう二度と会えないんじゃないかと思ったら……」
 ああ――そういうことか。
 カインは自分が探していた言葉を見つけられた気がした。
「そんなわけないだろう?」
「いいの――」
 無理に笑ってみせるその表情は、とても不器用な笑顔に見えた。
 カインの胸が早鐘を打つのが分かる。
 そんな笑顔は似合わない。君は――君の笑顔が好きなんだ。
 カインは立ち上がると、イレリアの手をもう一度握った。
 優しい温かさが手のひらから流れ込んでくる。
 カインは自分の気持ちを確信した。イレリアの明るくて優しい笑顔を失う事など今更考えられなかった。
「イレリア……僕は君を愛している」
 探していた言葉が自然と口から出ていた。
 目の前のこの女性は、いつも人の事を考え、分け合い、それを当たり前と思っている。自分は何も持たなくても、ただ周りの人々のために自分の持てる物を全て差し出して笑っている人だ。
 こんなに心優しく美しい人がいただろうか。
 暖かく、優しく、美しい人――ふとカインの脳裏に人物の影がよぎった。
 しかし、それが誰かを自覚する前に、その人物を打ち消すように、カインはイレリアの体を抱き寄せて口づけていた。
 
 店の中は蒸し暑かった。
 カインの部屋のように、風を漂わせる魔法陣なんてものはあるはずもなく、二人が動くたびに汗が混ざり合った。
 それでも、二人はお互いを求める事をやめようとしなかった。
 気が付くと、窓の外は薄暗くなっていた。
「カイン――」
 汗ばんだ肌を上気させて、イレリアはカインの逞しい胸に顔を埋めた。
 店の奥にある休憩用の大きなカウチで、二人は何も纏わないまま身を寄せ合っていた。
 カインは窓の外に目をやると、一日の終わりを感じ、切なさから逃れるようにイレリアのやせ細った体を抱き寄せて口づけた。
「これで終わりにはしない。明日から仕事でしばらく来れないかもしれないけど、使いを寄越すよ。だから僕の気持ちが変わったなんて思わないで」
「ううん。いいの――あなたにはシトロン公女という婚約者がいるじゃない。貧民街の女なんて捨てていいの」
 カインは答えず、再びイレリアの体を強く抱きしめると、彼女の温もりを再び求めた。
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