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32.傷にキス(一)
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佐々木先輩は火曜日も休み、水曜日から職場に復帰した。
月曜火曜の仕事の終わらなさから、「佐々木 良子(よしこ)がいないと自分たちが大変だ」ということに、派遣さんたちはようやく気づいたらしい。先輩の仕事量を目の当たりにして、誰もが無言でパソコンに向かうしかなかった。それを一人で正確にこなしてきたのだから、本当に、彼女は「デキる人」だったのだ。
そして、二日間文句ばかり言っていた派遣さんは、水曜日に現れた佐々木先輩の顔を見て、その文句を飲み込んだ。
佐々木先輩の綺麗な顔と細い体は、無惨な状態になっていたのだ。
先輩の隣に座る私は、それに気づかないフリをすることもできず、「あんたが聞いて!」という派遣さんたちの無言の圧力にも逆らうことができなかった。
でも、本当に、ただ、心配だったのだ。
「……佐々木先輩、その、目が」
「うん、酷いでしょ? 冷やしても冷やしても腫れるの。眼帯は私には合わなくて。見苦しいかもしれないけど、気にしないで」
目の周りの青い痣。頬や口元にもいくつかの傷。細い手足にも包帯。階段で転びました、というレベルではない。どこからどう見ても、誰かから暴力を受けたようにしか見えない。
「あの、それ、誰から?」
「元旦那。ま、詳しいことはあとで話すわね」
佐々木先輩は淡々と仕事をこなす。社員さんたちからの好奇の視線をものともせず、派遣さんたちの内緒話にも動じず、いつも通り。いつも通りすぎて、怖いくらいだった。
「たまたま出かけた先で元旦那に会っちゃって、こうなったの。元々、暴力が原因で離婚したんだけど、今回はもう他人だから、きっちり被害届出してやったわ」
昼休憩。ほぼ誰もいないオフィスで、私たちはたいてい二人で弁当を食べる。佐々木先輩はいつも通り彩り鮮やかなお弁当を広げて、得意げに笑った。
けれど、その続きは少し言いづらそうにしながら、ゆっくりと言葉を選びながら話し始める。
「それを目撃した息子が、ショックのあまり熱を出しちゃって……今日は熱が下がったのに『離れたくない』ってぐずるのよ。でも、仕方ないのよね……稼がなきゃいけないんだから、泣く泣く保育園に預けてきたわ」
幼い息子さんの目の前で、最愛の母親が父親から殴る蹴るの暴力を受けたのだ。それはショックだろう。怖くて離れたくなくなるのも無理はない。
先輩、それは「抗いようのない運命」だったのでしょうか。だとしたら、残酷すぎる。
「でも、いいこともあったのよ」
玉子焼きをトレードするのは、いつもの日課。私は自分で作る出汁の入った玉子焼きも、佐々木先輩の甘い玉子焼きも、どちらも好きだ。
「私を好きだって言ってくれる人がいて、その人が私と息子のそばにずっといてくれて……プロポーズ、されちゃった」
「!!」
思わず玉子焼きを落とすところだった。危なかった。
プロポーズ!? ですか!?
佐々木先輩、結婚するんですか!?
なんて、幸せな響きなんでしょう!
「歳下なんだけど、しっかりしているし、初めて会った割には息子も懐いたし……まぁ、これからなんだけど……そういうことも念頭に置いてみようかな、と」
「おめでとうございます!」
「やだ。まだ先の話よ。返事すらしていないわよ。もう少し、見極めなきゃね」
息子さんの写真を見せてくれたときと同じくらい、先輩が輝いて見える。少し照れている表情がかわいい。
「いくつ歳下なんですか?」
「二十九だから、四つ下かな」
「全然離れていないじゃないですか! もっと歳下かと思いました」
佐々木先輩なら、どんな人でも支えていけそうな気はするけど、やっぱり彼女を支えてあげてほしいなと思う。頼り甲斐があって、強い人ではあるけれど、たぶん本当は脆い人だ。
そういうところに気づいてくれる男性であれば、本当に嬉しい。
「月野さん、二十代と三十代は違うわよ、印象が。だから、彼が三十路になったら、考えてみようかなって」
「じゃあ、彼氏さんが三十歳になったらすぐ結婚ですね!」
「んー……息子が『お父さん』って言うのを待つのもいいかもしれないわね」
「それ、いつになるんですか!?」
「いつになるかしらねぇ」
久々に、仕事以外の話で佐々木先輩と盛り上がることができた。それは嬉しいし、内容も幸せなことだけど、少し……寂しい。
先輩は、結婚したら派遣社員を辞めるのだろうか。一緒に仕事ができなくなるのだろうか。
それを考えると、とても、つらい。
何回も、何十回も、何百回も、別れはあった。そのたびに、苦しく、つらく、寂しくなる。そのたびに、私と人間は違うのだと痛感する。
今のセフレさんたちとも、いつか別れが来る。宮野さんみたいに。叡心先生みたいに。
みんな、いつか、私を置いていってしまう。私から離れていってしまう。
仕方がないと諦めてしまうのは簡単なこと。
最初から諦めてしまうのは、もっと簡単なこと。
私、簡単なことしかしてこなかった。それが一番楽だったから。一番、つらくなかったから。
「佐々木先輩」
「うん?」
「結婚式するなら、呼んでくださいね。何年たってからでもいいので。私、絶対お祝いしたいです」
「ありがと。式、するようだったら、ね」
立ち向かう先輩の姿がカッコいい。
逃げてばかりの私は、きっとカッコ悪い。
でも、きっと、生き方は変えられない。
この刹那の出会いを大切にしていくしか、ない。それしか、できないのだから。
◆◇◆◇◆
八月六日、土曜日の夜、だった。
その一本の電話は、きっと「抗いようのない運命」だった。
末尾が一一〇で終わる番号からの着信に、シャワーを浴びたばかりの私はバスタオルを頭にかけたまま、大慌てでスマートフォンを引っつかんだ。
「は、はい!」
『月野あかりさんですか?』
「はい、そうです!」
『こちら、新代署の生活安全課、小畑(こはた)と申します。日下部賢人という少年が今こちらで補導されているのですが――』
時刻は既に二十三時を過ぎている。夏休みだからと羽目を外して遊んでいたのか。
警察官が相手だとどうしても声が上擦ってしまう。何も悪いことなどしていないのに。
『彼のご両親が海外旅行中でいらっしゃらないとのことなので、家庭教師の月野さんに保護者として引き取りにきていただきたく――』
「あ、はい、わかりました! すぐ行きます!」
日下部賢人――ケントくんだ。
親にバレるのが嫌で、私を「家庭教師」として呼んだのだとすぐにわかった。嘘はいけないけど、お芝居に付き合ってあげようじゃないの。
新代署の場所を聞いて、最低限の荷物を持って部屋を出る。
今日は散々健吾くんに抱かれたので、「もう無理」と逃げるように帰ってきた。結局、花火大会には行かず、冷房の効いた部屋のベッドの上で一日中ダラダラと過ごしてしまった。明日もこんな調子じゃ、体がいくつあっても足りない。壊れてしまう。
脱童貞を果たしたばかりのハタチ男子の性欲は、際限がない。恐ろしいほどに。
花火大会から帰る人の波を押しのけて、むやみにナンパしてくる男たちの誘いも無視して、ようやく新宿駅の南のほうにある新代署にたどり着く。
署の三階の生活安全課へ向かい、オープンな部屋の中に、何人かの警察官に混じって、一際目を引く淡い栗色を見つけた。
「ケントくん!?」
「あー! あかりちゃんだー! ごめんねー!」
ケントくんは長椅子に座って微笑みながら、悪びれることもなく声をかけてきた。その近くにいた男性が、こちらへ向かってくる。
「月野さんですか? 自分が生活安全課巡査部長の小畑です。ご足労いただきまして、恐縮です」
「あ、いえ、こちらこそ、私の生徒がご迷惑をおかけしたようで申し訳ありませんでした」
ペコリと頭を下げると、ケントくんの笑い声が広い部屋に響く。
「コハちーん! あかりちゃんに惚れちゃダメだよー! あかりちゃんは僕の女なんだからー!」
「……酔って、いますか?」
「どうやら、そのようで」
そりゃ、補導もされるわ。納得だ。
小畑巡査部長は、経緯をかいつまんで説明してくれた。
花火大会のあと、巡回中に道端に座り込んで眠っているケントくんを見つけたこと。どうやら未成年なのにお酒を飲んで、酔いつぶれてしまったらしいこと。財布からお札が抜き取られていたこと。
そして、彼の両親は「バカンス」と称して故郷へ帰ってしまっていること。学校とは連絡がつかないので、家庭教師をしている月野あかりに連絡をしたこと。
「わかりました。引き受けます」
「では、書類を準備いたしますので」
そして、小畑さんが出してくれた書類を見て、愕然とする。
ケントくん……中学三年生!?
高校生だと思っていたら、中学生だったとは……これはますます……手が出せない。いや、出すつもりは全くなかったけど。
「……まさか、本当に彼の彼女さん、ではありませんよね?」
「まさか。いい大人ですから、危ない橋は渡りませんよ」
「良かった。彼はこれまでも何度か補導されているんですよ……淫行条例違反で」
なるほど。彼が自らを「オトナ」だと言ったのは、そういうことか。誰かれ構わずラブホテルにでも連れ込んだのだろう。制服のままで。呆れるほど、欲のタガが外れてしまっているらしい。
「ご両親がいない家に送り届けるのは大変だとは思いますが、あの、くれぐれも……」
「大丈夫です。ご心配くださってありがとうございます」
書類を書き終えて、ケントくんのほうへと向かう。ケントくんは二ヘラと笑って私に抱きついてこようとする。どれだけ飲んだのか、かなり酒臭い。未成年だと言うのに、まったく、もう。
「ケントくん、帰るよ!」
「はーい! あかりちゃんごめんねー!」
「皆様、ご迷惑をおかけいたしました!」
「おかけしましたー!」
苦笑する警察官たちと小畑さんに見送られて、新代署をあとにする。
酔っ払い未成年を電車で送るのは至難の業だ。その最中に、私が他の署の人に淫行条例違反で捕まってしまうかもしれない。何が起きるかわからない。
仕方なく、署の前でタクシーをつかまえ、ケントくんに家の住所を尋ねる。
「なに、言っているの。家には帰らないよ」
「ケントくんこそ、何言っているの。帰りなさい」
「聞いたでしょ? 僕の両親はスウェーデンに帰省中で、夏の間は帰ってこない。所持金もほぼナシ。明日僕がお金を引き出すまで、あかりちゃんが面倒見てよ」
「……」
「それとも、コハちんの前でキスして、二人で仲良く警察署で過ごす?」
細められた茶色の瞳には、悪意しかない。
天使の皮をかぶった悪魔、か。
チラと署の玄関を見ると、確かに小畑さんがまだこちらを見ている。いろいろ、怪しまれているということだ。
「……明日の朝まで、だからね」
溜め息をつきながら、運転手に行き先を告げる。いつものコンビニ。
あぁ、もう、なんて週末なの――。
◆◇◆◇◆
部屋にケントくんを招き入れ、冷房を入れて溜め息をつく。
「結構綺麗にしてあるじゃん」と笑う彼は、許可していないのにベッドに座っている。ソファも座布団もあるでしょ、と言いかけて飲み込む。これでは口うるさいおばちゃんになってしまう。まぁ、十歳も離れていたら……いや、十歳どころじゃないから、私はおばあちゃんか。
テーブルに麦茶のグラスを置いて、服をしまってあるチェストを探る。ケントくんが着られそうなTシャツはあっただろうか。
「あかりちゃん」
「んー?」
ドン、と背中に軽い衝撃。よろめいたところで、ぐいと引き寄せられ、ベッドに正面から放り投げられる。うつ伏せでベッドにダイブさせられて、したたかに顔を打つ。痛い。
「ちょっと、なん――」
「大人しくしてて」
後ろ手に、ガチャリと金属音。少し冷たいそれは、シリコンの手錠。相馬さんが「プレゼント」と称して私にくれた例の試作品だ。
「……え? なに?」
「いいものがあったから、使わせてもらうよ。ね、なに、しよっか?」
「ケント、くん?」
「なに、って、決まってるよね。ご馳走が目の前にあるのに、あかりちゃんは我慢できる?」
ベッドの上、ケントくんから逃げようと足を使って移動していくけど、結局は壁際まで追い込まれる。にじり寄ってくるケントくんは、相変わらず悪魔のような瞳で、私を見据えて、笑みを浮かべている。
何? 何なの? 何が起きているの?
「そんな怯えないでよ。ただセックスをして、お互い気持ち良くなるだけだから」
「なん、で……」
「失敗したんだよね、今夜は。食事にありつけると思ったのに、飲みすぎて寝ちゃってさ」
するり、ケントくんの指が私の足首をなぞる。
ただそれだけなのに、体中が粟立つ。健吾くんに散々抱かれて無理だと思っていたはずの体に、熱が灯る。
「イイ女だったんだけど、寝ている間にお金盗られちゃった。まぁ、はした金だから、別にいいんだけど」
指が膝へ、太腿へと移動していく。カーゴパンツの上を滑っているだけなのに、体が疼く。
「ねぇ、あかりちゃん」
ガシャリと手錠が音を立てる。指が腹を上り、胸をかすめ、鎖骨に、首筋に、顎に、触れる。
「我慢できる?」
顎に添えられた指がぐいと持ち上げられ、目の前のケントくんの顔へと向けられる。いつの間にか、彼は私の太腿の上に乗っている。
「僕、お腹が空いているんだ」
親指が、唇に触れる。冷たい、指。誘う、指。
「満たして、くれるよね?」
徐々に近づいてくるケントくんの顔に、漂うお酒の匂いに、抗う術はない。
中学生に手は出さない。現状、手は拘束されている。
けれど、相手が手を出す気満々の場合は、どうすれば、いい? どうすれば――?
「あかりちゃんも気持ち良くさせてあげるから。だって――」
額が触れる。真っ直ぐに体を求めてくる視線に、目が離せない。
「――僕たちは、同族同士が一番、相性がいいからね」
ケントくんの赤い唇が、ゆっくりと、落ちてきた。
月曜火曜の仕事の終わらなさから、「佐々木 良子(よしこ)がいないと自分たちが大変だ」ということに、派遣さんたちはようやく気づいたらしい。先輩の仕事量を目の当たりにして、誰もが無言でパソコンに向かうしかなかった。それを一人で正確にこなしてきたのだから、本当に、彼女は「デキる人」だったのだ。
そして、二日間文句ばかり言っていた派遣さんは、水曜日に現れた佐々木先輩の顔を見て、その文句を飲み込んだ。
佐々木先輩の綺麗な顔と細い体は、無惨な状態になっていたのだ。
先輩の隣に座る私は、それに気づかないフリをすることもできず、「あんたが聞いて!」という派遣さんたちの無言の圧力にも逆らうことができなかった。
でも、本当に、ただ、心配だったのだ。
「……佐々木先輩、その、目が」
「うん、酷いでしょ? 冷やしても冷やしても腫れるの。眼帯は私には合わなくて。見苦しいかもしれないけど、気にしないで」
目の周りの青い痣。頬や口元にもいくつかの傷。細い手足にも包帯。階段で転びました、というレベルではない。どこからどう見ても、誰かから暴力を受けたようにしか見えない。
「あの、それ、誰から?」
「元旦那。ま、詳しいことはあとで話すわね」
佐々木先輩は淡々と仕事をこなす。社員さんたちからの好奇の視線をものともせず、派遣さんたちの内緒話にも動じず、いつも通り。いつも通りすぎて、怖いくらいだった。
「たまたま出かけた先で元旦那に会っちゃって、こうなったの。元々、暴力が原因で離婚したんだけど、今回はもう他人だから、きっちり被害届出してやったわ」
昼休憩。ほぼ誰もいないオフィスで、私たちはたいてい二人で弁当を食べる。佐々木先輩はいつも通り彩り鮮やかなお弁当を広げて、得意げに笑った。
けれど、その続きは少し言いづらそうにしながら、ゆっくりと言葉を選びながら話し始める。
「それを目撃した息子が、ショックのあまり熱を出しちゃって……今日は熱が下がったのに『離れたくない』ってぐずるのよ。でも、仕方ないのよね……稼がなきゃいけないんだから、泣く泣く保育園に預けてきたわ」
幼い息子さんの目の前で、最愛の母親が父親から殴る蹴るの暴力を受けたのだ。それはショックだろう。怖くて離れたくなくなるのも無理はない。
先輩、それは「抗いようのない運命」だったのでしょうか。だとしたら、残酷すぎる。
「でも、いいこともあったのよ」
玉子焼きをトレードするのは、いつもの日課。私は自分で作る出汁の入った玉子焼きも、佐々木先輩の甘い玉子焼きも、どちらも好きだ。
「私を好きだって言ってくれる人がいて、その人が私と息子のそばにずっといてくれて……プロポーズ、されちゃった」
「!!」
思わず玉子焼きを落とすところだった。危なかった。
プロポーズ!? ですか!?
佐々木先輩、結婚するんですか!?
なんて、幸せな響きなんでしょう!
「歳下なんだけど、しっかりしているし、初めて会った割には息子も懐いたし……まぁ、これからなんだけど……そういうことも念頭に置いてみようかな、と」
「おめでとうございます!」
「やだ。まだ先の話よ。返事すらしていないわよ。もう少し、見極めなきゃね」
息子さんの写真を見せてくれたときと同じくらい、先輩が輝いて見える。少し照れている表情がかわいい。
「いくつ歳下なんですか?」
「二十九だから、四つ下かな」
「全然離れていないじゃないですか! もっと歳下かと思いました」
佐々木先輩なら、どんな人でも支えていけそうな気はするけど、やっぱり彼女を支えてあげてほしいなと思う。頼り甲斐があって、強い人ではあるけれど、たぶん本当は脆い人だ。
そういうところに気づいてくれる男性であれば、本当に嬉しい。
「月野さん、二十代と三十代は違うわよ、印象が。だから、彼が三十路になったら、考えてみようかなって」
「じゃあ、彼氏さんが三十歳になったらすぐ結婚ですね!」
「んー……息子が『お父さん』って言うのを待つのもいいかもしれないわね」
「それ、いつになるんですか!?」
「いつになるかしらねぇ」
久々に、仕事以外の話で佐々木先輩と盛り上がることができた。それは嬉しいし、内容も幸せなことだけど、少し……寂しい。
先輩は、結婚したら派遣社員を辞めるのだろうか。一緒に仕事ができなくなるのだろうか。
それを考えると、とても、つらい。
何回も、何十回も、何百回も、別れはあった。そのたびに、苦しく、つらく、寂しくなる。そのたびに、私と人間は違うのだと痛感する。
今のセフレさんたちとも、いつか別れが来る。宮野さんみたいに。叡心先生みたいに。
みんな、いつか、私を置いていってしまう。私から離れていってしまう。
仕方がないと諦めてしまうのは簡単なこと。
最初から諦めてしまうのは、もっと簡単なこと。
私、簡単なことしかしてこなかった。それが一番楽だったから。一番、つらくなかったから。
「佐々木先輩」
「うん?」
「結婚式するなら、呼んでくださいね。何年たってからでもいいので。私、絶対お祝いしたいです」
「ありがと。式、するようだったら、ね」
立ち向かう先輩の姿がカッコいい。
逃げてばかりの私は、きっとカッコ悪い。
でも、きっと、生き方は変えられない。
この刹那の出会いを大切にしていくしか、ない。それしか、できないのだから。
◆◇◆◇◆
八月六日、土曜日の夜、だった。
その一本の電話は、きっと「抗いようのない運命」だった。
末尾が一一〇で終わる番号からの着信に、シャワーを浴びたばかりの私はバスタオルを頭にかけたまま、大慌てでスマートフォンを引っつかんだ。
「は、はい!」
『月野あかりさんですか?』
「はい、そうです!」
『こちら、新代署の生活安全課、小畑(こはた)と申します。日下部賢人という少年が今こちらで補導されているのですが――』
時刻は既に二十三時を過ぎている。夏休みだからと羽目を外して遊んでいたのか。
警察官が相手だとどうしても声が上擦ってしまう。何も悪いことなどしていないのに。
『彼のご両親が海外旅行中でいらっしゃらないとのことなので、家庭教師の月野さんに保護者として引き取りにきていただきたく――』
「あ、はい、わかりました! すぐ行きます!」
日下部賢人――ケントくんだ。
親にバレるのが嫌で、私を「家庭教師」として呼んだのだとすぐにわかった。嘘はいけないけど、お芝居に付き合ってあげようじゃないの。
新代署の場所を聞いて、最低限の荷物を持って部屋を出る。
今日は散々健吾くんに抱かれたので、「もう無理」と逃げるように帰ってきた。結局、花火大会には行かず、冷房の効いた部屋のベッドの上で一日中ダラダラと過ごしてしまった。明日もこんな調子じゃ、体がいくつあっても足りない。壊れてしまう。
脱童貞を果たしたばかりのハタチ男子の性欲は、際限がない。恐ろしいほどに。
花火大会から帰る人の波を押しのけて、むやみにナンパしてくる男たちの誘いも無視して、ようやく新宿駅の南のほうにある新代署にたどり着く。
署の三階の生活安全課へ向かい、オープンな部屋の中に、何人かの警察官に混じって、一際目を引く淡い栗色を見つけた。
「ケントくん!?」
「あー! あかりちゃんだー! ごめんねー!」
ケントくんは長椅子に座って微笑みながら、悪びれることもなく声をかけてきた。その近くにいた男性が、こちらへ向かってくる。
「月野さんですか? 自分が生活安全課巡査部長の小畑です。ご足労いただきまして、恐縮です」
「あ、いえ、こちらこそ、私の生徒がご迷惑をおかけしたようで申し訳ありませんでした」
ペコリと頭を下げると、ケントくんの笑い声が広い部屋に響く。
「コハちーん! あかりちゃんに惚れちゃダメだよー! あかりちゃんは僕の女なんだからー!」
「……酔って、いますか?」
「どうやら、そのようで」
そりゃ、補導もされるわ。納得だ。
小畑巡査部長は、経緯をかいつまんで説明してくれた。
花火大会のあと、巡回中に道端に座り込んで眠っているケントくんを見つけたこと。どうやら未成年なのにお酒を飲んで、酔いつぶれてしまったらしいこと。財布からお札が抜き取られていたこと。
そして、彼の両親は「バカンス」と称して故郷へ帰ってしまっていること。学校とは連絡がつかないので、家庭教師をしている月野あかりに連絡をしたこと。
「わかりました。引き受けます」
「では、書類を準備いたしますので」
そして、小畑さんが出してくれた書類を見て、愕然とする。
ケントくん……中学三年生!?
高校生だと思っていたら、中学生だったとは……これはますます……手が出せない。いや、出すつもりは全くなかったけど。
「……まさか、本当に彼の彼女さん、ではありませんよね?」
「まさか。いい大人ですから、危ない橋は渡りませんよ」
「良かった。彼はこれまでも何度か補導されているんですよ……淫行条例違反で」
なるほど。彼が自らを「オトナ」だと言ったのは、そういうことか。誰かれ構わずラブホテルにでも連れ込んだのだろう。制服のままで。呆れるほど、欲のタガが外れてしまっているらしい。
「ご両親がいない家に送り届けるのは大変だとは思いますが、あの、くれぐれも……」
「大丈夫です。ご心配くださってありがとうございます」
書類を書き終えて、ケントくんのほうへと向かう。ケントくんは二ヘラと笑って私に抱きついてこようとする。どれだけ飲んだのか、かなり酒臭い。未成年だと言うのに、まったく、もう。
「ケントくん、帰るよ!」
「はーい! あかりちゃんごめんねー!」
「皆様、ご迷惑をおかけいたしました!」
「おかけしましたー!」
苦笑する警察官たちと小畑さんに見送られて、新代署をあとにする。
酔っ払い未成年を電車で送るのは至難の業だ。その最中に、私が他の署の人に淫行条例違反で捕まってしまうかもしれない。何が起きるかわからない。
仕方なく、署の前でタクシーをつかまえ、ケントくんに家の住所を尋ねる。
「なに、言っているの。家には帰らないよ」
「ケントくんこそ、何言っているの。帰りなさい」
「聞いたでしょ? 僕の両親はスウェーデンに帰省中で、夏の間は帰ってこない。所持金もほぼナシ。明日僕がお金を引き出すまで、あかりちゃんが面倒見てよ」
「……」
「それとも、コハちんの前でキスして、二人で仲良く警察署で過ごす?」
細められた茶色の瞳には、悪意しかない。
天使の皮をかぶった悪魔、か。
チラと署の玄関を見ると、確かに小畑さんがまだこちらを見ている。いろいろ、怪しまれているということだ。
「……明日の朝まで、だからね」
溜め息をつきながら、運転手に行き先を告げる。いつものコンビニ。
あぁ、もう、なんて週末なの――。
◆◇◆◇◆
部屋にケントくんを招き入れ、冷房を入れて溜め息をつく。
「結構綺麗にしてあるじゃん」と笑う彼は、許可していないのにベッドに座っている。ソファも座布団もあるでしょ、と言いかけて飲み込む。これでは口うるさいおばちゃんになってしまう。まぁ、十歳も離れていたら……いや、十歳どころじゃないから、私はおばあちゃんか。
テーブルに麦茶のグラスを置いて、服をしまってあるチェストを探る。ケントくんが着られそうなTシャツはあっただろうか。
「あかりちゃん」
「んー?」
ドン、と背中に軽い衝撃。よろめいたところで、ぐいと引き寄せられ、ベッドに正面から放り投げられる。うつ伏せでベッドにダイブさせられて、したたかに顔を打つ。痛い。
「ちょっと、なん――」
「大人しくしてて」
後ろ手に、ガチャリと金属音。少し冷たいそれは、シリコンの手錠。相馬さんが「プレゼント」と称して私にくれた例の試作品だ。
「……え? なに?」
「いいものがあったから、使わせてもらうよ。ね、なに、しよっか?」
「ケント、くん?」
「なに、って、決まってるよね。ご馳走が目の前にあるのに、あかりちゃんは我慢できる?」
ベッドの上、ケントくんから逃げようと足を使って移動していくけど、結局は壁際まで追い込まれる。にじり寄ってくるケントくんは、相変わらず悪魔のような瞳で、私を見据えて、笑みを浮かべている。
何? 何なの? 何が起きているの?
「そんな怯えないでよ。ただセックスをして、お互い気持ち良くなるだけだから」
「なん、で……」
「失敗したんだよね、今夜は。食事にありつけると思ったのに、飲みすぎて寝ちゃってさ」
するり、ケントくんの指が私の足首をなぞる。
ただそれだけなのに、体中が粟立つ。健吾くんに散々抱かれて無理だと思っていたはずの体に、熱が灯る。
「イイ女だったんだけど、寝ている間にお金盗られちゃった。まぁ、はした金だから、別にいいんだけど」
指が膝へ、太腿へと移動していく。カーゴパンツの上を滑っているだけなのに、体が疼く。
「ねぇ、あかりちゃん」
ガシャリと手錠が音を立てる。指が腹を上り、胸をかすめ、鎖骨に、首筋に、顎に、触れる。
「我慢できる?」
顎に添えられた指がぐいと持ち上げられ、目の前のケントくんの顔へと向けられる。いつの間にか、彼は私の太腿の上に乗っている。
「僕、お腹が空いているんだ」
親指が、唇に触れる。冷たい、指。誘う、指。
「満たして、くれるよね?」
徐々に近づいてくるケントくんの顔に、漂うお酒の匂いに、抗う術はない。
中学生に手は出さない。現状、手は拘束されている。
けれど、相手が手を出す気満々の場合は、どうすれば、いい? どうすれば――?
「あかりちゃんも気持ち良くさせてあげるから。だって――」
額が触れる。真っ直ぐに体を求めてくる視線に、目が離せない。
「――僕たちは、同族同士が一番、相性がいいからね」
ケントくんの赤い唇が、ゆっくりと、落ちてきた。
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でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。
けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。
同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。
そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?
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