【R18】サキュバスちゃんの純情

千咲

文字の大きさ
上 下
62 / 75

62.幸福な降伏(一)

しおりを挟む
 外は暑い。空気が揺れ、汗が吹き出る。湿度も高く、蒸し暑い。
 昔はこんなに暑くなかった、と思う。ビルがたくさん建って自然がなくなったせいなのかもしれないし、温暖化現象とやらのせいなのかもしれない。不勉強な私にはよくわからない。ただ、青信号を待っている間におばあちゃんから「暑いですねぇ」と話しかけられたら、それに応ずるくらいには暑くなったなぁと思うだけだ。
 都会ではあまり蝉の声は聞かないけれど、箱根も軽井沢も大合唱だったことを思い出す。あそこには自然が残っている。それだけでホッとする。
 湯川先生と、翔吾くんとの思い出も、残っている。それは幸せな気分になる。

 ちょっとしたお使いから会社に戻り、冷房の中に身を投じるこの瞬間が好きだ。ヒヤリとした空気が気持ちいい。
 五階の営業部まで、階段とエレベーター、どちらを使おうか悩んで、エレベーターのボタンを押す。軽やかな音を立ててエレベーターがやってきたので、後ろに並んでいた人と乗り込む。
「何階ですか?」と笑顔で尋ねようとして、その笑顔が凍る。夏、なのに。

「五階でいいよ」
「お、お疲れ様デス、荒木さん」
「そんなに怯えなくても。会社で取って食ったりしないから、安心して」

 食う気満々な雰囲気でそう言われましても! 近づきながら匂いを嗅がれましても!

「今は、ね」

 ほら! もう隠す気なんてないでしょ、荒木さん! それ以上は、近づかないでいただけると、ありがたいのですが!

「うん、甘い。そんなに興奮しなくてもいいのに、月野さんも好きだねぇ」
「好き!? では、ないのですが……っ」
「俺のこと、翔吾や健吾に相談していないでしょ。しないの?」
「しない、デス……はい」

 エレベーター、上がれ、上がれ! 早く五階まで連れて行って!
 同じエレベーターに荒木さんが乗るときは、階段を使おう。階段には冷房がなくて汗だくになってもいいから、そうしよう。

「じゃあ、俺から二人に言ってもいい? 月野さんと付き合いたいって」
「それはっ!」

 振り向いた先、結構近くに荒木さんの顔があって驚く。ドキドキしたらまた匂いが甘くなるのに、止められない。
 でも、そのドキドキは恋愛感情のものではない、と思う。翔吾くんと健吾くんに、迷惑はかけられない――大半はそういう性質のドキドキだ。

「――それは私と荒木さんの問題で、二人とは関係がありません」
「わかってるよ。二人を巻き込みたくないんだよね。お人好しだなぁ、月野さんは」
「そういうわけではないんですけど」
「奪われるほうも悪いんだから、二人に悪いなんて思わなくてもいいのに」

 ヒィ、と悲鳴が漏れそうになる。これは、マズい。荒木さんがめちゃくちゃ怖い。怖すぎる。
 略奪するよ、って宣戦布告ですよね、それ!?
 体が震えてしまう。怯えたら荒木さんが喜ぶだけなのに、ドキドキが止まらない。心臓がうるさい。
 ほんと、何なの、荒木さん!? 

 エレベーターは二人以外の人を乗せることなく、五階に静かにたどり着く。ようやく、五階、だ。
 停電とかなくて良かった。彼と二人きりで閉じ込められたりしたら、私の貞操の危機だ。精神が崩壊する。
 荒木さんを先に降ろし、私はホッと胸を撫で下ろす。これは本当にマズい。心臓が保たない。生きた心地がしなかった。

「月野さん」
「ひゃい!?」

 そして、急に荒木さんが顔を出すものだから、声が裏返る。ビックリした。

「髪、今日はアップにしないほうがいいよ。うなじのあたりにキスマーク、ついてる」
「っへ!?」

 思わず、首の後ろに手をやってしまう。もちろん、見えもしないし、触れたかどうかもわからないのだけど。
 ケントくんか、湯川先生か、どっちだ!?

「翔吾は静岡で合宿、健吾はまだ金沢、のはずだよね。そのキスマークは背の高い親戚の子がつけたのかな?」
「え? い、いえ、あの」
「すっっごく、興味あるなぁ」

 荒木さんの笑顔が、今、この世の中で一番、恐ろしい。叡心先生の笑顔は、この世の中で一番、安らぐものだと思っていたのに。
 似ている笑顔でも、こんなに違うとは。

「また話聞かせて」

 足取り軽く営業部へ向かう荒木さんを見送りながら、私は足取り重くお手洗いに向かうのだ。キスマークに絆創膏を貼るために。

 あぁ、もう、この地獄から誰か早く解放してください!
 心臓に悪いですっ!


◆◇◆◇◆


 心臓に悪いことは続くもので、湯川先生の休みが取れ、翔吾くんの予定も空いていたのは、湯川先生から求婚された翌週の土曜日だった。
 八月の最終土曜日ということもあり、家族連れの姿が多く見られる中、湯川先生に指定されたホテルへ向かう。時刻は十一時ちょっと過ぎ。ランチだ。
 ホテルの中にある日本料理のお店へ行き、湯川先生の名前を告げて案内されるままに個室へたどり着くと、待っていたのは翔吾くんだった。

「久しぶり、あかり」
「久しぶり。翔吾くん、また焼けたねぇ」

 席は三席。四人がけテーブルを二対一で使う形でお箸がセットされている。翔吾くんは一のほうに座っている。
 日焼けした翔吾くんの正面に座る。少し緊張しているのか、顔は強張ったまま。かしこまっているように見えるのは、スーツのせいでもあるだろうか。
 結局、翔吾くんの合宿後にすぐ会うことはできなくて、今、久しぶりに顔を合わせたところだ。

「翔吾くん、スーツ似合うね」
「ありがと」
「緊張してる?」
「まぁ、こういう場は初めてだし、ね」

 私は、掘りごたつ式の個室は何だか落ち着くんだけどなぁ。ホテルの中なのに料亭みたい。昔の職場だった料亭に雰囲気が似ているからなのかもしれない。

「手、繋ぐ?」
「う……そこまで緊張してないし」
「そう?」
「嘘。吐きそうなくらい緊張してる」

 くしゃりと笑った顔がかわいい。ようやくいつもの翔吾くんに戻ったみたいだ。
 黒いテーブルの上に手のひらを上に向けて置くと、翔吾くんが遠慮がちに手を重ねてくる。手汗びっしょりの、熱い手のひら。だいぶ緊張しているみたい。きゅっと握ってあげる。

「そんなに緊張しなくてもいいのに。いい人だよ、湯川先生」
「あかりはどうせ俺のことも『いい人』だって言ったんでしょ?」
「……二人ともいい人で間違いはないもん」

 BGMはゆっくりとした琴の音。耳に心地好い。
 翔吾くんの指を親指で一本一本ゆっくりと撫でながら、節が大きいなぁと思う。湯川先生の指とはまた違う。男の人の指。

「合宿と試合はどうだった?」
「まぁ、良かったよ。勝てたし」
「良かったね、おめでとう」
「ありがと。最後の試合だからね。頑張るよ。ほんとは観に来て欲しいけど」

 土日なら何とかなるかなぁ。でも、野球と違ってサッカーはルールをよく知らないから、とりあえず翔吾くんだけ見ていればいいのかな。ボールを見ていればいいのかな。
 解説……健吾くんに頼もうかな。あ、でも、健吾くんはサッカーに詳しいのかな。

「土日なら行けるかなぁ」
「そう? じゃあ、来月の十七日は?」
「来月……九月十七日、は、難しいかも」
「三連休だから、セフレの誰かとどこかに行くの?」
「ううん、そうじゃないんだけど」

 ぎゅうと手を強めに握られて、真面目そうな顔をされて、じっと目を見つめられるとドキドキする。久しぶりに会っているからなのか、恋人になったからなのか、わからないけれど。

「あかり、俺……」
「お待たせ、あかり。引き継ぎがちょっと長引いちゃって」

 個室にやってきた湯川先生の顔を見て、私と翔吾くんの緊張が高まる。思わず、手を引っ込める。

「あ、いいのに、それくらい。慣れなきゃいけないんでしょ、そういうのも」

 私の右隣に腰を下ろし、湯川先生が笑う。笑うのに、私の右手、翔吾くんに見えない位置で重ねられていますけど!? あ、今、ぎゅって握られましたけど!?
 平気そうな顔をして、妬いている先生がかわいい。ちょっときゅんとする。

 兎にも角にも、三人揃った。どこをどう見ても、何の関係者なのかわからない。恋人同士と兄? 恋人同士と弟? 女を巡るセフレ――恋人たちの修羅場だとは思えないだろう。
 ……これを修羅場と呼ぶべきなのか、いまいちわからないけれど。

「ええと、こちらが湯川望さん。夢宮総合病院で心臓血管外科の先生をしています」
「初めまして。湯川です」
「あちらが桜井翔吾くん。誠南大学経営学部の三年生です」
「初めまして、桜井です。いつもあかりがお世話になっています」
「こちらこそ、お世話になっています」

 二人それぞれ頭を下げる。火花は……散った、のかな?
 険悪な空気にはなりませんように! 殴り合いにはなりませんように!
 私は必死で祈るけれど、そんな私には気づかず、二人は飲み物のメニューを見ながら勝手に話をしている。

「翔吾は飲めるほう?」
「飲むけど、さすがに昼からは飲まないかな」
「俺も。じゃあ、お茶でいいか。和食が好きだって聞いていたけど、食べられないものはあった?」
「和食なら何でも食べるよ。あ、お気遣いどうも」

 一切敬語を使わないあたり、二人はお互いを何だと思っているのだろうか。
 仲間、ではないよね? ライバル? ほんと、何? 私はどういう顔をして、どう接すればいいの? 何が正解?
 湯川先生が手早く注文をして、早速麦茶が運ばれてくる。どうやら何かのコースに決まったらしく、前菜が綺麗に盛り付けられた器が目の前に置かれる。
 ……たぶん、緊張のあまり味なんてしないんだろうな。

「望さんはあかりといつから?」
「今年の二月。翔吾のほうが長いだろ?」
「じゃあ、二ヶ月しか違わないよ。俺は十二月だったもん」

 白和え、美味しい。鶏の香草蒸しも美味しい。
 ……二人とも、私と話すときとちょっと口調が違う。男同士の会話、なのだろうか。非常に口を挟みづらい。私は出された料理を黙々と食べるだけだ。

「来年、就活どうするの?」
「親の会社は弟に継いでもらうから、俺は別の会社に行く予定」
「あぁ、だから経営学部なの。親が社長か」
「望さんとこも親が医者?」
「そう。医者の息子は医者になるんだなぁ、なぜか」

 打ち解けて、いるのかな? 二人とも、変に気を遣ったりはしていない気がする。
 あ、お造り綺麗。煮物も美味しそう。最近煮物作っていなかったから、作ろうかな。佐々木先輩の肉じゃがのレシピ教えてもらえばよかったなぁ。佐々木先輩が退職する前に聞いておこう。

「俺、十二月で病院辞めることになったんだけど、他の病院へ行こうと思ってて」
「へっ? 湯川先生、クビになったの?」

 思わず驚いて隣の湯川先生を見上げる。先生は「先週話したじゃん」という顔をしている。
 はい、そうですね、聞きました。でも、そんな簡単にクビになるなんて思わなかった。よく働く心臓血管外科の医者は、病院にとっては利益であって、手放したくないと思っていたから。
 医者の世界は案外シビアなんだなぁ。

「あー、まー、病院長の娘との縁談断ってあかり選んだんだもん。仕方ないよ。予想の範囲内だよ」
「縁談断ってあかりを選ぶ気持ちはわかるよ、俺」
「わかってくれるか、翔吾。あかりといると、他の女は目に入らなくなるよな」

 二人して頷くところじゃないよね、そこ! 同意するところじゃないよね!?
 二人はアイコンタクトの中でがっちり握手をしたようだ。

「だから、今後の就活次第では、年明けに結婚してあかりを地方に連れて行くかもしれないんだけど、翔吾はどうする?」

 湯川先生、めちゃくちゃサラッと何言ってるの!? 「結婚」とか言ったら、翔吾くん驚くでしょ!

「あ、じゃあ、俺は一年後に合流するよ。籍入れないでしょ? 部屋、空けといてくれる?」

 っは? 翔吾くん、動揺しないの? 私はめちゃくちゃ動揺しているけど! これも想定の範囲内ってやつなの!?

「なるほど。翔吾は同居したい派ね」
「望さんだって、週末婚は寂しいでしょ? できれば毎日あかりの顔を見たいじゃん」
「確かに。じゃあ、俺が部屋を用意するから、翔吾はあとから引っ越してくる、と。物件は一緒に見に行くか?」
「できれば行きたいけど、六畳一間の俺の部屋さえあれば文句は言わないよ。フローリングなら嬉しい」

 なんか、ものすごい勢いでいろいろ決まっていっているような気がするのに、当事者の私だけ、蚊帳の外なんだけど。ものすごい疎外感だ。

「結婚式はしたいけど、家族と親戚だけ呼ぶか、写真だけ撮るか、ちょっと悩んでいてさぁ。翔吾はどうしたい?」
「俺は式を家族だけでやりたいかな。披露宴はしないよ。だから、リゾートウエディングでもいいかなって」
「ちょっと待って!」

 話を遮られて、二人は不審そうに私を見つめる。気持ちはわかる。よぉぉーくわかるけれども!

「……結婚式、するの?」
「あかりはしたくないの?」
「ドレスとか、着たくないの?」
「あかりが嫌なら写真だけでもいいけど」
「んー、やっぱ、実際にやったほうがいいと思うけどなぁ」

 二人は「やりたい」と結論を出す。
 それは、結婚式を二回するということ、ですよね? 二回も? 本当に二回も? 私が花嫁で?

「俺は神社でやりたいなぁ。神前がいい」
「あ、俺はチャペル希望。望さんは和装、俺はドレス。かぶらなくていいね」
「お、いいな。ドレス姿のあかりもかわいいと思うけど、白無垢姿も見てみたいな」
「色打掛もいいじゃん?」
「いいねぇ!」

 男二人で盛り上がらないでほしいんだけど、なんていうか、好きな人同士が仲良くしてくれているのは嬉しい。おかしな状況に変わりはないのだけれど、ここは素直に喜んでおいたほうがいいのだろうか。
 いやいや、おかしなほうへ流れているのであれば、流れを直さなければ。
 直すべきだよね? その役目は私にしかできないことだよね?

「あ、あの、私が二人と結婚して二人と同居するのは、確定なの?」

 指輪をどうする、と話していた二人がきょとんとして私を見つめる。あ、もしかして、今さらな話でした、か?

「あかり、あのね、俺も翔吾も、本当はあかりを独占したくて仕方がないんだよ?」
「そう。でも、あかりが一人を選べないって言うから、こうして妥協案を話し合ってるわけ」
「あかりが好きになった男だから、間違いはないと思っているけど、まだ腹の探り合いは終わってないの」
「少なくとも年末まで、あと四ヶ月は続くね。信頼に足る人物かどうか、結婚も同居も許せるかどうかは、今から見極めるの。わかった?」

 私は消え入りそうな声で「はい、わかりました、すみません」と頷くしかない。
 二人は火花を散らしているわけではない。お互いの腹のうちを探っているのだ。私を軸に、同士として共に生活できるかを調べたいのだ。

「じゃあ、とりあえず、年末まではお互い恋人ということで」
「それでいいよ。望さんの進退が決まったら教えて」
「わかった。翔吾もあかり以外に女ができたら速やかに報告してくれ」

 一瞬、二人の視線が交錯し、火花が散ったかのように思えたけれど、二人は同時にうつむいて溜め息を吐き出すだけで、殴り合いには発展しなかった。

「……まぁ、無理だな」
「……同じく。他の女とか、ほんと無理」
「すまん。ちょっと煽った」
「望さん、煽るの下手すぎ。別にいいけど」

 そうして、二人はまた同時に私を見て――大口を開けて海老の天ぷらを食べようとしている私を見て、長々と溜め息を吐き出すのだ。

「手放せる気がしない」
「俺たちはこんなに振り回されてるのに、本人に自覚なしだからなぁ」
「ほんと。小悪魔どころか、悪魔に見えるときがあるよ」
「あぁ、翔吾も? 俺もだよ。最初は天使だと思ったんだけどな」
「同じく」

 湯川先生と翔吾くんは「私の悪口」という共通の話題を見つけたようで、思いつくままに私の欠点を挙げている。それをBGMにしながら、私は引き続き黙々と運ばれてきた料理を口へと運ぶのだ。

 んー、鯛釜飯、美味しいです。


しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

異世界転生雑学無双譚 〜転生したのにスキルとか貰えなかったのですが〜

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:1,059pt お気に入り:33

乙女ゲーのラスボスに転生して早々、敵が可愛すぎて死にそうです

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:35pt お気に入り:607

【R18】僕の異世界転性記!【挿絵付】

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:85pt お気に入り:1,914

腹黒上司が実は激甘だった件について。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:505pt お気に入り:139

ぼくのお姉ちゃんは悪役令嬢

恋愛 / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:415

処理中です...