【R18】サキュバスちゃんの純情

千咲

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66.幸福な降伏(五)

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 佐々木先輩の寿退職が朝会で伝えられると、独身の女性派遣社員さんたちは色めき立った。彼女たちは私に相手の素性を聞いてきたけれど、「詳しくは知らないので」と笑顔でかわした月曜日の午前中。
 午後には「誰が派遣されてくるのか」の話題で持ちきりになっていたので、去る人よりも新しい人に興味が移ったみたいだった。
 もちろん、佐々木先輩は黙々と自分の仕事をこなしていたのだけど、首元から晴れて左手薬指に移ったリングがキラキラ輝いているのも、佐々木先輩に笑顔が増えたのも、気のせいではないのだ。

 昨日、私もリングを買いに行った――買いに連れて行かれたのだけれど、婚約指輪も結婚指輪も買ってあげたいと言う湯川先生と若干口論になってしまった。
 どちらも買ってあげたいと譲らない湯川先生、結婚指輪だけでいい――そもそも指輪はいらない私。既製品にするかオーダーメイドにするか、という点でも意見が対立し、結局、婚約指輪はオーダーメイド、結婚指輪はシンプルな既製品、に落ち着いた。
 この調子だと、結婚式にもいろいろと意見の対立が出てきそうだと不安が込み上げてくる。式以降の、生活にも。

 なるほど、これがマリッジブルーってやつなんだな、と納得しながら、資料室の中から荒木さんに指定された凡例の資料を探す。
 何しろ、データ化される前の資料が欲しいのに、美山さんも課長も、時期も社名も覚えていないそうで。「面倒なこと頼んでごめん」と荒木さんに申し訳なさそうに頭を下げられたら、断ることはできない。
 本当に面倒なのだけど、ファイリングされた膨大な資料の山と一人で戦っている最中なのだ。一人で。
 一人のほうが気が楽だ。狭い資料室で、荒木さんと一緒に資料を探すなんてできるわけがない。甘い匂いに当てられた荒木さんがまた豹変しないとも限らない。今日は彼が外回りで良かったと思う。

 冷房は効いているけれど、ジャケットは脱いだ。人があまり出入りしない資料室は、結構埃っぽいからだ。ブラウスは腕まくりし、髪はゴムで適当に束ねて、パイプ椅子にあぐらをかいて資料を漁る女の姿など、見せられるものではない。

「今日は残業かなぁ……」

 腕時計を見ると、あと少しで定時だ。派遣社員としての仕事は終わりだけど、「急ぎで!」と言われているから、なるべく今日中に探してあげたい。そしたら、明日にはデータに起こせるし。
 さて、次は二〇〇〇年の段だな、とキャビネットを開ける。青いファイルをごっそりと抜き出して、テーブルの上に置き、パラパラとめくる。

 もちろん、荒木さんに「お断り」はできていない。逃げ回る前に断らなきゃいけないとは思う。
 どうお断りをするべきか。
 直球で断っても無理だったのだから、変化球を投げても無理なような気がする。
 そもそも、荒木さんは私に何を求めているのか。
 彼は本当に私のことが好きなのだろうか。
 そんなことさえ疑ってしまう。

 荒木さんのことがわからない。
 わからないから、どう対処すればいいのかわからない。
 けれど、彼の本音を聞いたら、その瞬間から、逃れられなくなる気がしている。彼の腕の中の呪縛から。
 だから、荒木さんの本音を聞く前に、断るべきなのだ。私は。

「月野さん?」

 ノックの音と私の名前を呼ぶ声に、顔を上げる。ドアから顔を覗かせたのは、慌てた様子の荒木さんだ。

「ごめん、遅くなって! 続きは俺がやるから、月野さんは帰っていいよ」
「え、でも、急ぎなんですよね?」
「急ぐけど、月野さんに残業させられないよ。俺なら徹夜に慣れているから大丈夫!」

 ……徹夜覚悟で資料を探す気だったんですね。それを聞いたら、探すしかないじゃないですか。
 湯川先生と翔吾くんからは「バカ!」と罵られそうなシチュエーションではあるけれど、困っている人を放ってはおけない。我ながら、本当に甘い。

「……一人より二人のほうが効率がいいですよ」
「月野さんはお人好しだね。そういうところはすごく好きだよ」

 さらりと「好き」というフレーズを挟んでくるあたり、諦めてはいないのだとわかるけれど、荒木さんは仕事に恋愛感情を持ち込むことはないだろう。そんな人ではない、と思う。
 私が変な顔のまま固まったのを見て、荒木さんは苦笑した。

「二〇〇〇年? まだ見てないのはどっちの山?」
「こちらです」
「よし、やるか」

 ジャケットを脱いで、ネクタイを緩め、腕まくりをして――荒木さんは真剣な表情をしてファイルを手に取った。

 終電までには帰れますように――私の、悪魔の願いは、一体誰が聞き届けてくれるのだろう。神様でも仏様でもないだろうな。魔王様? そんなの、いるの?
 そんなバカなことを考えながら、ファイルに目を落とすのだ。


◆◇◆◇◆


 夕飯は荒木さんが買ってきてくれたコンビニのおにぎり。パパッと食べて、資料を探す。時間がもったいないのだ。

「月野さんは終電に間に合うように帰ってね」
「……わかりました」

 そこは、素直に応じておく。無責任に「見つかるまで」なんて言って、荒木さんと一夜を共に過ごす選択肢はない。終電に乗れなかったら、タクシーで帰るしかない。懐に大打撃だ。

「……月野さんは」
「はい」
「資料室に俺と二人きりで大丈夫なの? 資料探し自体が俺の嘘だとは思わなかったの?」
「荒木さんはそういうこと、しませんから」

 ファイルから視線を上げずにそう応える。荒木さんが苦笑した気配がする。

「そっか……信頼されているんだな、俺」
「していますよ。仕事に関しては」

 何年も一緒に働いているわけではないのだけれど、仕事に関しては妥協しない、厳しい人だと知っている。信頼はしているのだ。
 顔から好きになったけれど、そういうところも好きだ。……好き、だった。

「仕事に関しては、か」

 私生活に関しては、何とも言えない。踏み込む発言もできない。私は、荒木さんの気持ちに応えられないのだ。

「荒木さん、これは違いますか?」

 ファイルを手渡して確認してもらうけれど、荒木さんは力なく首を左右に振った。その表情は暗い。
 そりゃ、疲れているだろう。暑い日差しの中、外回りをした後にこんなことをしているのだから。

「休憩しますか? スターカフェでコーヒー買ってきましょうか?」
「いや、大丈夫。月野さんはあと一時間で上がって」
「わかりました。じゃあ、あと一時間だけ」
「うん、よろしく」

 膨大なファイルの数は、その会社の歴史だ。データ化される前の資料は、今となっては古くて使えないこともあるのだけれど、緩やかなスピードで進化するものもあるらしく、今回必要になった資料もそういう類のものだ。と、聞いた。
 一九九六年のファイルとにらめっこをしながら、二十年前かぁ、と思う。
 二十年前、私は何をしていただろうか。名前は何だったかな。
 あの頃と比べると、今私の身に起きているのは、急激な変化だと思う。恋人なんていらないと頑なだったのに、情に絆されて二人も恋人を作ってしまった。
 急激な変化、だ。
 頭がパンクしそうなくらい。

「九十五年、行きますね」
「うん、よろしく」

 一九九六年のファイルを戻し、一九九五年のファイルをキャビネットから取り出す。色褪せた紙に、手書きの文字。パソコンが普及する前の、懐かしい感じ。たまに読めないくらいに下手くそな字を書く人がいて驚いたけれど、そういうものも全部歴史なのだ。

「……あれ、これ、専務の作った資料だ」

 部長の作った資料もあったけれど、上役の現役時代の資料を見つけるのは初めてだった。
 専務、営業だったんだ……って、あれ?

「荒木さん、これ!」
「んー? 見つかった?」
「はい、たぶん、これかと!」

 ファイルを手渡して、確認してもらう。荒木さんはうんうんと頷いて、笑う。

「ありがとう。間違いなく、これだよ。お疲れ様、月野さん」
「やった! 徹夜しなくてすみますね!」
「……そうだね。見つかっちゃったかぁ」

 他のファイルをキャビネットにしまいながら、荒木さんの不穏なセリフには気づかないふりをする。気づいては、ダメだ。

「あかりさん、ありがとう」

 名前を呼ばれた。それだけで、思考も体もフリーズしてしまう。
 荒木さんの手のひらがキャビネットに押し付けられ、その両腕の籠の中に閉じ込められる。背後の熱。荒木さんの、体温。

「こっち、向いてくれないの?」
「……無理、です」
「何もしないよ」
「わ、私の名前を呼ぶときの荒木さんは、信用していません」

「そう」と荒木さんは笑って、「それは正解」と続けた。

「逃げないの? 俺、こんな狭いところにあかりさんと二人きりで、我慢しすぎておかしくなっちゃいそうなんだけど」
「……職場でそういうことはしないでしょう、荒木さん」
「それは俺を買いかぶり過ぎだよ、あかりさん」

 定時はとっくに過ぎている。さっき見回りの警備員さんが「もう二人だけだよ」と呆れたように言っていたのも覚えている。
 社内に私たちしかいなくても、荒木さんが妹尾さんのように職場で私に迫ってくるとは思えないのだ。

「……私、マゾじゃないので荒木さんとはお付き合いできません」
「それは知ってる」
「セックスだけの関係なら、他を探してください」
「別に、セックスだけの関係を求めているんじゃないんだけどなぁ」

 はぁと熱っぽい吐息がうなじにかかる。その次の瞬間には鼻がすんと鳴る。また匂い嗅がれた!

「Mの子を探してセックスをするだけならどうとでもなるよ。今まで通りだから。でも、俺は、あかりさんがいい」

 あかりさんがいい。
 あなたが欲しい。

 なんで、そんなに求められるのか。
 だって、私じゃなくても女の人なんて山ほどいるのに。
 なんで、その中から私を選ぶのか。
 なんで、選ばれるのか。選ばれてしまうのか。
 答えは簡単。

 私がサキュバスだから。

「荒木さん、私は」
「好きなんだ」

 わかっている。
 両腕の籠に私を閉じ込めながら、抱きしめないのは、荒木さんもギリギリのところにいるのだということ。職場で手を出さないのは、まだ理性があるということ。
 せめぎ合っているのは、わかる。わかっている。
 その危うい均衡を、崩してしまってはダメだ。

「どうしようもなく、あかりさんに惹かれてしまうんだ。翔吾の彼女だとわかっていても、健吾とも関係があるってわかっていても、望んでしまう」
「……ごめんなさい」

 惑わせてしまってごめんなさい。
 気持ちに応えることができなくてごめんなさい。

「あかりさん、こっち見て。俺を見て」

 触れてはこないのに、荒木さんを近くに感じる。触れるよりもずっと近くに。

「あかりさん、お願い」

 振り向けない。荒木さんの顔をまともに見られるとは思えない。
 あのとき、少しでも歯車が違えば、順番が違えば、たぶん、私は荒木さんを受け入れていた。翔吾くんのことがなければ、私は荒木さんをセフレに加えていたはずだ。
 後ろめたい気持ちがあるからこそ、私は荒木さんを直視できない。

「……ごめんなさい」
「あかりさんが泣く必要ないでしょ」

 でも。だって。

「フラレて泣きたいのは俺のほうだよ」

 確かに、私が先に泣いてしまったら、荒木さんが泣けないよね……すみません。
 差し出されたハンカチを受け取ろうと振り向いた瞬間に、キャビネットが揺れた。両手首がキャビネットに押し付けられて、手の甲が冷たい。背中も冷たい。手首だけが、熱い。
 目の前に、荒木さんの、困ったような笑顔。切なく歪められた、笑顔。

「……なんで、私、なんですか」

 離してください、とは言えなかった。叫んで助けを呼ぶこともできなかった。
 均衡が崩されてもなお、荒木さんを傷つけたくなかった。綺麗事だと、わかっているけれど。

「なんで、だろうね」
「私じゃないといけない理由なんて、ないですよね」
「うん、確かにそうだね」

 これ以上は、ダメだ。聞いてはダメだ。逃れられなくなる。
 手首が熱い。火傷してしまいそうなくらい。

「なんで、あかりさんが欲しいのか、俺にもわからない。写真を初めて見たときから、なのか、あかりさんと初めて会ったときから、なのか……翔吾と一緒にいるところを見たから、なのか」
「あらき、さ」
「説明できないよ、こんな気持ち」

 私なら、説明できる。ただ一言で、荒木さんの疑問に答えを出してあげることができる。

「ただ、あかりさんが欲しい」

 比較しちゃいけないのはわかっている。でも、比べなきゃいけない。
 湯川先生と翔吾くんは、サキュバスという本質よりも私の心を欲しがってくれた。私がいい、とちゃんと伝えてくれた。
 荒木さんは、きっと甘い匂いに騙されているだけ。説明できない感情に流されているだけ。一時的な感情に溺れて、自分を見失っているだけ。
 だから――。

「ごめん、なさい。私は荒木さんとお付き合いすることができません」

 迫られて体が歓喜しても。心が弾んでも。私は、その想いを受け入れてはいけない。
 私は、サキュバスの本能より、湯川先生と翔吾くんの想いを大切にしたい。

「ごめんなさい」

 涙で視界が歪むけれど、荒木さんをちゃんと見て、伝えることができた、と思う。
 ファンデがはげて、きっと酷い顔をしているに違いない。マスカラが落ちていないことを祈るだけだ。

「……本当に、俺じゃダメ?」
「はい」
「そんなに翔吾のことが好き?」
「はい」
「じゃあ、最後にキスする?」
「は……しません」

 荒木さんは手首を離しながら、笑う。

「残念。引っかからなかったかぁ」
「引っかかりません」

 腕まくりをしていた袖を直し、ブラウスのボタンを留める。荒木さんは椅子に座り、天井を仰ぎ見る。

「資料、ありがとう。月野さんは帰っていいよ」
「荒木さんは?」
「月野さんが帰ったら帰るよ。このままだと、オフィスで押し倒してしまいそうで、怖い」

 たぶん、それは本音。甘い毒の匂いに当てられながらも自制心が勝るのだから、荒木さんは強い人なんだと思う。

「……すみません。お先に失礼します」

 置いてあったジャケットを取り、荒木さんの座る椅子の間を擦り抜ける。終電には間に合いそうだと思いながらドアノブに手をかけ、うなだれたままの荒木さんに一礼して資料室を出る。

 これは、何回目なのだろうか。二回目? 三回目?
 荒木さんの中で三回目なら、四回目はないはずだ。これで諦めてくれるはずだ。
 諦めて……。

 薄暗い廊下を営業部に向かいながら、立ち止まる。
 荒木さんが諦めてくれるなら、私にとっても、恋人たちにとっても、幸せなはずなのに。
 なんで、こんなに、悲しいのか。
 なんで、こんなに、涙が溢れるのか。
 荒木さんの顔が、叡心先生に似ているというだけなのに。

 叡心先生。
 苦しいです。悲しいです。
 私はまた、あなたを失ったような気分です。

 先生に似た人を見つけるのに、また百年待たないといけないなんて、本当に――苦しいです。

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