上 下
1 / 63
第1章 Unexpected Reunion

第1話 アカイツキ

しおりを挟む
「……『赤い月は不吉の前兆』、だったか?」

 ふと、いつだったか友人がそう騒ぎたてていたことを思いだした。
 当時は「なに言ってんだ、こいつ」としか思わなかった彼の言葉も、いまになってみればわからない気がしないでもない。

「まぁ、たしかに不気味ではあるけどな」

 そう言って、柚木ゆのきシュウは短く息を吐き出した。

 静寂に包まれた町に、赤みを帯びた月光が弱々しく影を落とす。
 聞こえてくるのは、小さな虫たちのかすかな羽音とカエルの低い鳴き声。それと、せまい住宅街の路地に響くひとりぶんの足音だけ。
 すり足気味のスニーカーのつま先で蹴飛ばしたのだろう。小石が転がる音に視線を落とせば、光る双眸が一瞬こちらを見つめ、すぐさま闇の中へと吸いこまれていった。

「……黒猫も不吉なんだっけ?」

 今日に限って、やけにそんなことばかりが頭をよぎる。
 あれもこれも、きっとオカルト好きの友人の影響に違いない。

「たまにはこっちから連絡してやるか」と、シュウはポケットから端末を取り出した。

 まぶしいほどに明るい画面に表示された時刻は丑三つ時。ここまでくると、さすがにシュウも笑うしかない。

「あいつ、さてはオレに念でも送ってんだろ」

 適当に選んだふざけた絵柄のスタンプを送りつければ、待ってましたとばかりについた「既読」の文字。間髪入れずに端末を震わせた着信に、シュウは「いや電話かよ」とおもわず笑った。

『よーっす。バイト終わったん? 遊びにいく?』

 深夜とは思えぬお気楽な声に「行かねぇよ」と返せば、高校時代からの友人は大げさに残念がってみせた。

「いま何時だと思ってんだよ」
『丑三つ時! ワクワクすんね!』
「しねぇわ」

 友人の相変わらずのオカルト思考につっこみを入れつつ、シュウはどこからか聞こえた、窓を開閉する音に少しばかり声をひそめる。

『あ! てかさー、来週の遊園地さー、エリカが一緒に連れてけってうるさくてさー』

 うんざりしたようにそう言う友人の言葉に、シュウは彼の妹の顔を思い浮かべる。「絶対に連れてけって言われるから黙っとく!」と豪語していたのはどの口だったか。
「ばれたんだな?」と問い詰めれば、実に申し訳なさそうな声色が返ってきた。

「まぁいいんじゃね? 男ばっかでつまんねぇし」
『うちのかわいいカノジョがいますけど!?』
「はいはい。そーでした」
『お前もカノジョさん連れてくればいいのにー』
「あー……、行かねぇんじゃね? たぶん授業だし」
『ふーん、そっか。てかさ、聞いてよー。今日カノジョがさー』

 そこからひとしきりノロケ話を聞かされていれば、「カノジョから通知がきた!」と言って、友人はいそいそと通話を切り上げた。
 シュウは「やれやれ」と苦笑しつつ、端末をポケットにつっこむ。

「お、電気ついてら」

 昨日まではただのオブジェと化していた街灯が、ようやく新しいものに取り替えられたらしい。近隣の住宅に配慮してのことか大して明るくもないが、これでもないよりはましである。
 とはいえそこには、名前も知らない小さな虫たちが気持ち悪いほどに群がっていた。
 ジリジリと熱を帯びたむき出しの蛍光管に運悪く接触したのか、バチッ、という耳ざわりな音が鼓膜を揺らした。
 きっと夜が明ければ、街灯の真下には無数の虫の死骸が散乱していることだろう。

「……うげ」

 安易に想像できてしまったその光景にシュウは顔をしかめつつ、しかし次の瞬間にはなに食わぬ顔で通りすぎる。
 けっして広いともせまいとも言えない間隔で列をなす明かりのひとつが、チカ、チカ、と不規則な点滅を繰り返していた。


「…………らしゃせ~」

 暗がりにぽつんと建つコンビニとお決まりの入店音。
 奥から出てきた店員は、相変わらずやる気がなさそうで無愛想。
 シュウは一直線にレジの前を横切り、弁当コーナーへと向かった。

――お、ラッキー。ミックス弁当残ってんじゃん。

 おにぎりやパンすら売りきれている日もあることを思えば、今夜はなんとも幸運である。
 棚の真ん中に堂々と鎮座する弁当の最後のひとつを手に取ると、シュウはすぐ隣の棚に並ぶ麦茶のペットボトルとともにレジへと向かった。

「弁当のあっためは~」
「お願いします」
「……はぁ」

 一瞬動きを止めた店員は、あからさまに眉間にしわを寄せていた。

――めんどいのはわかるけど……。

 小銭を出している間に無造作に弁当を放りこまれた電子レンジが、赤外線色に発光する。
 ピアスだらけの店員と二人で無言のまま眺める一分が、シュウにとってはやけに長く感じた。

「ざっした~」

 最後の最後までやる気のない店員の声を背に聞きながら、すっかり常連となってしまったコンビニをあとにする。

「つーか、何連勤させるつもりだよ。あのクソ店長……」

 まさか休日希望を出した来週の連休まで働かせる、なんてことはないだろう。
 バーコード頭を華麗にきらめかせる雇い主に心の中で悪態をつきながら、シュウは夜空を見上げてあくびをした。


 けっして高くはない給料で借りた、古いアパートの軋む階段を上がる。
 長年風雨にさらされつづけた手すりは、ところどころ白い塗装がはげて錆びついてしまっていた。毎月家賃とともに徴収される安くはない管理費とやらは、いったいなにに使われているのか。

「っあれ? どこ入れたっけな……」

 どこかにまぎれたカギを探してバッグの中をまさぐりながら、「今日も忙しかったなぁ」なんてバイトのことを振り返ってみる。

 ここまでは、いつもどおりのことだった。

「ただいまー」

 真っ暗な室内は、シン……、と静まり返っていた。
 冷えきった部屋の静けさが、いささか不気味に感じた。
 手探りで壁のスイッチにふれれば、やわらかい明かりが室内を照らしだす。
 テレビのリモコンを手に取りながら、シュウは小さな違和感にテーブルの上に視線をやった。
 そこにあったのは、ペンギンのキーホルダーがついた見慣れた合カギ。

 それと、小さなメモに残された「さよなら」の文字。

「…………は?」

 とたんに脈拍数が上がる。
 シュウにとってはまったく想定していなかった事態だった。
 突然のことに困惑しながらも、シュウはおそるおそる引き戸を隔てた寝室の中を確認する。

「……ハル?」

 つぶやきに返る声はない。
 彼女が寝ているはずのせまいベッドは、もぬけの殻だった。

「っハル……!?」

 シュウは慌てて廊下を引き返す。
 キッチンにバスルーム、トイレの中まで確認しながら玄関まで戻ってみるが、どこにも彼女の姿はない。
 おそろいで買ったマグカップの片方は見当たらず、洗面台で仲よく並んでいたはずのピンク色の歯ブラシも、彼女が香りが好きだと言っていたお気に入りのシャンプーも、靴棚にしまわれていたはずの花飾りのついたサンダルもなにもかも。
 勢いよく開けたクローゼットは、半分だけぽっかりと空間ができてしまっていた。

 まるで、はじめからこの部屋には存在していなかったかのように、『彼女がここにいた』という痕跡が一切ない。

 ポケットから取り出した端末を落としそうになりながらも、シュウは震える手で彼女の番号に電話をかける。
 コール音もなく流れたアナウンス。それが意味することを理解できないはずもなく。

 シュウはずるずると崩れ落ちるように、壁に背を預けその場に座りこんだ。

「……意味、わかんね……」

 部屋にはただ、不通を告げる電子音と、どこかの国の戦禍を伝えるニュースの声だけが響いていた。


しおりを挟む

処理中です...