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第4章 Where to Return

第56話 サイカイ

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◇◇◇◇◇


 いまにも大粒の雨が降りだしそうな、濃い灰色のぶ厚い雲の下。じっとりと肌にまとわりつく湿った空気が、息苦しさを加速させる。
 風速を増した生ぬるい風に、草木は危険を知らせるかのようにさざめきあう。

 大地は一面、闇色に染まっていた。
 見渡すかぎりに広がる黒い海原が、津波のように迫ってきてはすべてを破壊し飲みこんでいく。響き渡るのは文明が崩壊する音と、この世の終わりを告げる断末魔だけ。
 増殖しつづける闇は互いが互いを傷つけあい、ついには共喰いを始めた。
 漆黒の海に、赤い血しぶきが飛び交う。
 大地が、空気が、みるみる穢されていく。
 吐き気を催すほどの光景。
 これまでに感じたことのないほどの恐怖。
 全神経が、危険を訴えていた。
 しかし、すべてを放棄して逃げることは許されず、また彼女たちにも、それができるはずもない。

 ハルとホノカは、眼前の黒い壁から目を背けようとはしなかった。
 なにもかもを放り出して、現実から逃げることは簡単だ。
 だが、ここには大切なものがある。大切なものが多すぎた。守りたいものがある。守らなくてはならないものが、彼女たちの背を押す。
 それがスペランツァの役割だからと言い聞かせ、二人は恐怖をはねのけるように、迫りくる闇に飛びこんでいった。

「ハル! あまり中に入りすぎないで!」
「わかった! ホノカに合わせる!」

 一足跳びに後退したハルが、ホノカの近くに着地する。しゃがんだ拍子に頭上を通過した氷の刃に苦笑いをこぼして、ハルはホノカの後方の敵へと剣を振りかざした。
 互いの背中を守るようにして、二人は襲いくるペッカートを次々と地に沈めていった。

「少しは減った!?」
「共喰いしてくれてるおかげでね!」

 目の前の敵を切り伏せながら、ハルとホノカは一定の距離を保ったまま呼吸を整える。
 そのときだった。
 感情のこもらない乾いた拍手が、殺伐とした戦場に響き渡る。

「二人とも、しばらく見ない間に成長したな」

 頭上から降り注ぐ淡々とした声。
 聞き覚えのあるその低い響きに、ハルとホノカは反射的に声のしたほうを見上げていた。
 山となった瓦礫の上に、彼がいた。

「レン……!」

 ハルの小さなつぶやきに、彼の口元が薄く弧をえがく。
 長く伸びた黒髪が、風にあおられその表情をあらわにした。
 記憶と違わぬ深い闇のような瞳は、危険なほどに妖しく揺らめいていた。

「なんでっ、あんたがっ……!」

 予測はしていた。だが現実に目の前に現れたかつての仲間の姿に、ホノカは思っていた以上に動揺してしまっている。
 心の準備はしていた。気持ちの整理もつけたはずだった。
 しかし目の当たりにした現実を受け入れたくないと、無意識のうちにホノカはレンから視線をそらしてしまう。
 握った拳に無意識に力が入る。噛みしめた奥歯がギリギリと嫌な音を奏でた。

「……なんでっ、あんたなのよっ……!!」
「ホノカぁっ!!」

 しぼり出すように放ったホノカの言葉は、悲鳴にも似たハルの声でかき消されてしまう。
 瞬間、我に返ったホノカの背後にペッカートの波が押し寄せていた。

「くっ……!」

 ホノカは紙一重で攻撃をよけるも、一瞬にしてハルとレンから遠ざかってしまう。ペッカートの勢いに引きずられるようにして、ホノカの姿が闇に飲まれる。

「ホノカっ!」

 すぐさまホノカの応援に向かおうと、ハルは体の向きを変えて駆けだした。
 だが瓦礫から降り立ったレンが、ハルの行く手をふさぐようにして立ちはだかる。

「レンっ!? どいて!!」

 彼は口角をつり上げ、あの頃とは似ても似つかない傲慢な笑みを浮かべていた。

「ハル、俺と一緒に来い」
「っ……!」

 レンは静かにそう告げた。
 周囲には黒い塊がうごめいていたが、彼らのまわりだけは不自然なほどに静まり返っている。
 それがレンの指示なのかどうかはわからない。だが少なくとも、ペッカートにレンを攻撃する意志は感じられない。
 ハルは背に嫌な汗が伝うのを感じた。
 これほどまでに忠実にペッカートを従わせてしまうほど、彼の力は強いということなのだろうか。
 レンはハルから目を離すことなく言葉を続ける。

「ここまで来い。俺と、同じところまで堕ちてこい」
「いやだ」

 ハルは即答した。
 レンのもとへ行くということは、自分もクリミナーレになるということ。
 だがそれだけはできない。
 否、そんなことしたくなかった。
 無意識のうちに震えだす体を押さえつけるように、ハルは力のかぎり剣の柄を握りしめる。

「なにをそんなにおびえている? 簡単なことだろ?」

 ハルの動揺を見透かしているとでも言いたげに、レンは小さく鼻で笑う。

「それとも、忘れてしまったのか?」

 いったん目を伏せた彼は、再度ハルと視線を交わらせる。そうして鋭い眼光を、さらに細めて言い放つ。

「殺せばいい。お前の、スペラーレを」
「っ!!」

 ゆっくりと、しかしはっきりと紡がれた言葉に、ハルの心臓が大きく脈打った。手の震えが止まらない。
 脳内で、いつか見た光景がよみがえる。
 口の端から鮮血を滴らせたレンの足元に転がるのは誰だったか。赤茶色の長い髪は冷たい床に無造作に広がり、その体はぴくりとも動かなかった。

「くっ……!」

 気づけばハルは、目の前の彼から目を背けていた。
 レンの低く重たい声だけが、直接脳に響いてくるようだった。

「殺して、その血を飲み干せばいい。そうすれば」レンが、いつかのようにふわりと笑った。

「お前は、俺とおんなじだ」

 放たれた言葉は、たしかにハルの耳に届いた。
 かつてのあの頃のように、レンの声色はひどく穏やかだった。
 浮かべた微笑みは先ほどまでとは別人のようで、まるで昔の彼に戻ったかのような錯覚に陥る。
 しかしながら現実は違うのだと、周囲を取り囲む闇が無言で告げていた。
 レンは口角をいっそうつり上げる。その表情は見たこともないほどに冷徹で、しかしその中に恍惚さを感じさせるような、なんとも言えない不気味さをはらんでいた。

「っ、ぅわぁぁああぁぁ!!」

 レンが言い終わらないうちに、ハルは彼に向って駆けだしていた。
 感情のまま、勢いに任せて己の武器を振りかざす。しかしその刃はレンには届かず、彼はいとも簡単にその場から逃れる。
 その瞬間、静観していたはずのペッカートがいっせいにハルに向かってなだれ込んできた。
 レンの姿は闇に消え、目の前は光すらも飲みこんでしまいそうなほどに黒く染まる。
 言葉に形容しがたいほどの恐怖に、一瞬視界が揺らいだ。

「大丈夫。お前ならできるよ」
「っレン……!」

 耳元で、いつかと同じ言葉を、あのときのままの響きで。
 目の前にちらつく幻想を振り払うかのように、ハルは己の剣を振るった。
 懸命に闇を切り裂きながら、離ればなれになってしまったホノカの姿を捜す。彼女がどこにいるのか、まったく見当がつかない。
 一面ペッカートに覆いつくされた大地で、最悪の想像が脳裏をよぎる。

――ホノカ、無事でいてっ……!

 ハルは祈るような気持ちで剣を振るいつづけた。


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