【完結】伊達騒動秘録 ~ 左近、影に潜む。友と猫が見た伊達の闇~

月影 流詩亜

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第二章:密偵の貌(かお)

第十八話:決行前夜

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 原田甲斐が屋敷を留守にする日まで、あと一夜。

 左近の部屋には、いつもと変わらぬ行灯の柔らかな光が揺れていたが、その空気は張り詰めた弓のように緊張していた。
 左近は、文机に向かい、改めて潜入計画の細部を頭の中で反芻していた。
 屋敷の見取り図、警備の交代時間、抜け道の構造、そして万が一の際の逃走経路。
 どれ一つとしておろそかにできない。
 左近の指先には、細工を施した料理道具の冷たい感触が、まだ残っているかのようだった。
 不意に、背後で千代の優しい声がした。

「左近様、お夜食にいたしましょうか。 それとも、お休みになられますか」

 いつものように、夫を気遣う穏やかな声だった。  左近は、ゆっくりと振り返り、努めて平静を装って微笑んだ。

「ああ、千代ちゃん。 ありがとう。
 でも、今夜はもういいんだ。 それより……少し話があるんだ」

 その言葉に、千代の肩が微かに震えたのを、左近は見逃さなかった。

「実はね、明日から数日、ちょっとした野暮用で、江戸を離れることになるかもしれないの」

 左近は、できるだけさりげない口調でそう告げた。 千代の顔をまともに見ることができない。

 千代は、何も言わずにじっと左近の目を見つめていた。 その瞳には、不安の色も、驚きの色もない。
 ただ、全てを理解しているかのような、深い静けさが湛えられているだけだった。

「……そうでございますか」
ややあって、千代は静かにそう答えた。

 そして、ふわりと微笑むと、いつものように甲斐甲斐しく立ち働き始めた。

「では、今宵は左近様のお好きなものを、腕によりをかけてお作りいたしますね。
旅立ちの前は、精のつくものを召し上がっていただかないと」

 その夜の膳には、左近の好物である白和え、季節の野菜をたっぷり使った筑前煮、そしてふっくらと炊き上げられた白いご飯が並んだ。
 どれも、千代の心のこもった、優しい味がした。 二人の間に、多くの言葉はなかった。
 しかし、箸を運ぶ音、お互いの呼吸、そして時折交わす視線の中に、言葉以上の深い思いが通い合っているのを、互いに感じていた。
 食事が終わり、千代が膳を下げようとした時、彼女は不意に立ち止まり、左近に向き直った。

「左近様」
その声は、凛として、どこか決意を秘めているように聞こえた。

「必ず、お戻りくださいまし。 わたくし、左近様の好物をたくさん用意して、いつまでもお待ちしておりますから」

 その瞳には、涙はなく、ただひたすらに夫の無事を信じる強い光が宿っていた。

「……ああ、必ず戻るよ。 千代ちゃんの美味しい手料理を食べにね」
左近は、そう言って微笑むのが精一杯だった。

 千代が部屋を出て行くと、入れ替わるように、今度は徳松が顔を覗かせた。
 その顔には、いつもの屈託のない笑顔はなく、どこか緊張した面持ちだった。

「左近、少し良いか」

「徳さん……どうしたのぉ、そんな改まっちゃって」
左近は、努めて明るく振る舞った。

 徳松は、部屋に入ると、じっと左近の顔を見つめた。
 その目には、親友を案じる深い思いと、何かを察しているかのような鋭さが宿っている。

「左近……お前、何か大きなことをしようとしているんだろう」
徳松の声は、低く、そして真剣だった。

 左近は、一瞬言葉に詰まったが、すぐにいつもの調子で笑ってみせた。

「あら、徳さんったら、名探偵みたいねぇ。 わたくしが何か隠してるって言うのぉ?」

「とぼけるな、左近。お前のその目を見ればわかる。いつものお前じゃない」
徳松は、左近の肩を掴むと、強い口調で言った。

「何も聞かん。 お前が話したくないのなら、無理に聞き出すつもりもない。
だがな、左近、これだけは覚えておいてくれ」
徳松の目に、熱い光が灯る。

「何かあったら、俺もいる。
いつでも声をかけてくれ。 お前のためなら、たとえ火の中、水の中だろうと、俺は厭わん。
俺たちは、ズッ友だろう?」

 その言葉は、飾り気のない、徳松の心の底からの叫びだった。
 左近は、徳松の真っ直ぐな友情に、胸が熱くなるのを感じた。
 この親友がいるからこそ、自分は危険な任務にも立ち向かっていけるのだ。
 しかし、同時に彼をこれ以上巻き込みたくないという思いも強くあった。

「……ありがとう、徳さん。 その言葉だけで、わたくしは百万人の味方を得たようなものよぉ」
左近は、精一杯の笑顔でそう答えるのがやっとだった。

 徳松が部屋を去ると、左近は一人、行灯の揺れる光の下に佇んだ。
 千代の無言の励まし、徳松の熱い友情。
 それらが、彼の心を温めると同時に、これから踏み出す道のりの過酷さを改めて認識させた。
左近は、この二人を守るためにも、必ず生きて戻らなければならない。

 夜が更け、伊達屋敷が深い眠りに包まれる頃、左近は静かに寝床を抜け出した。
 床下に隠しておいた黒装束に身を包み、細工を施した料理道具を懐に忍ばせる。
 その顔には、もはや「昼行灯」の面影はなく、闇に生きる密偵としての、冷徹で研ぎ澄まされたかおだけがあった。

 窓の外には、決行の夜を告げる、冷たい月が浮かんでいる。
 左近は深く息を吸い込むと、音もなく闇の中へとその身を投じた。

 伊達家の闇の核心へと続く、危険な潜入が今まさに始まろうとしていた。


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