18 / 59
第二章:密偵の貌(かお)
第十八話:決行前夜
しおりを挟む原田甲斐が屋敷を留守にする日まで、あと一夜。
左近の部屋には、いつもと変わらぬ行灯の柔らかな光が揺れていたが、その空気は張り詰めた弓のように緊張していた。
左近は、文机に向かい、改めて潜入計画の細部を頭の中で反芻していた。
屋敷の見取り図、警備の交代時間、抜け道の構造、そして万が一の際の逃走経路。
どれ一つとして疎かにできない。
左近の指先には、細工を施した料理道具の冷たい感触が、まだ残っているかのようだった。
不意に、背後で千代の優しい声がした。
「左近様、お夜食にいたしましょうか。 それとも、お休みになられますか」
いつものように、夫を気遣う穏やかな声だった。 左近は、ゆっくりと振り返り、努めて平静を装って微笑んだ。
「ああ、千代ちゃん。 ありがとう。
でも、今夜はもういいんだ。 それより……少し話があるんだ」
その言葉に、千代の肩が微かに震えたのを、左近は見逃さなかった。
「実はね、明日から数日、ちょっとした野暮用で、江戸を離れることになるかもしれないの」
左近は、できるだけさりげない口調でそう告げた。 千代の顔をまともに見ることができない。
千代は、何も言わずにじっと左近の目を見つめていた。 その瞳には、不安の色も、驚きの色もない。
ただ、全てを理解しているかのような、深い静けさが湛えられているだけだった。
「……そうでございますか」
ややあって、千代は静かにそう答えた。
そして、ふわりと微笑むと、いつものように甲斐甲斐しく立ち働き始めた。
「では、今宵は左近様のお好きなものを、腕によりをかけてお作りいたしますね。
旅立ちの前は、精のつくものを召し上がっていただかないと」
その夜の膳には、左近の好物である白和え、季節の野菜をたっぷり使った筑前煮、そしてふっくらと炊き上げられた白いご飯が並んだ。
どれも、千代の心のこもった、優しい味がした。 二人の間に、多くの言葉はなかった。
しかし、箸を運ぶ音、お互いの呼吸、そして時折交わす視線の中に、言葉以上の深い思いが通い合っているのを、互いに感じていた。
食事が終わり、千代が膳を下げようとした時、彼女は不意に立ち止まり、左近に向き直った。
「左近様」
その声は、凛として、どこか決意を秘めているように聞こえた。
「必ず、お戻りくださいまし。 わたくし、左近様の好物をたくさん用意して、いつまでもお待ちしておりますから」
その瞳には、涙はなく、ただひたすらに夫の無事を信じる強い光が宿っていた。
「……ああ、必ず戻るよ。 千代ちゃんの美味しい手料理を食べにね」
左近は、そう言って微笑むのが精一杯だった。
千代が部屋を出て行くと、入れ替わるように、今度は徳松が顔を覗かせた。
その顔には、いつもの屈託のない笑顔はなく、どこか緊張した面持ちだった。
「左近、少し良いか」
「徳さん……どうしたのぉ、そんな改まっちゃって」
左近は、努めて明るく振る舞った。
徳松は、部屋に入ると、じっと左近の顔を見つめた。
その目には、親友を案じる深い思いと、何かを察しているかのような鋭さが宿っている。
「左近……お前、何か大きなことをしようとしているんだろう」
徳松の声は、低く、そして真剣だった。
左近は、一瞬言葉に詰まったが、すぐにいつもの調子で笑ってみせた。
「あら、徳さんったら、名探偵みたいねぇ。 わたくしが何か隠してるって言うのぉ?」
「とぼけるな、左近。お前のその目を見ればわかる。いつものお前じゃない」
徳松は、左近の肩を掴むと、強い口調で言った。
「何も聞かん。 お前が話したくないのなら、無理に聞き出すつもりもない。
だがな、左近、これだけは覚えておいてくれ」
徳松の目に、熱い光が灯る。
「何かあったら、俺もいる。
いつでも声をかけてくれ。 お前のためなら、たとえ火の中、水の中だろうと、俺は厭わん。
俺たちは、ズッ友だろう?」
その言葉は、飾り気のない、徳松の心の底からの叫びだった。
左近は、徳松の真っ直ぐな友情に、胸が熱くなるのを感じた。
この親友がいるからこそ、自分は危険な任務にも立ち向かっていけるのだ。
しかし、同時に彼をこれ以上巻き込みたくないという思いも強くあった。
「……ありがとう、徳さん。 その言葉だけで、わたくしは百万人の味方を得たようなものよぉ」
左近は、精一杯の笑顔でそう答えるのがやっとだった。
徳松が部屋を去ると、左近は一人、行灯の揺れる光の下に佇んだ。
千代の無言の励まし、徳松の熱い友情。
それらが、彼の心を温めると同時に、これから踏み出す道のりの過酷さを改めて認識させた。
左近は、この二人を守るためにも、必ず生きて戻らなければならない。
夜が更け、伊達屋敷が深い眠りに包まれる頃、左近は静かに寝床を抜け出した。
床下に隠しておいた黒装束に身を包み、細工を施した料理道具を懐に忍ばせる。
その顔には、もはや「昼行灯」の面影はなく、闇に生きる密偵としての、冷徹で研ぎ澄まされた貌だけがあった。
窓の外には、決行の夜を告げる、冷たい月が浮かんでいる。
左近は深く息を吸い込むと、音もなく闇の中へとその身を投じた。
伊達家の闇の核心へと続く、危険な潜入が今まさに始まろうとしていた。
12
あなたにおすすめの小説
【完結】新・信長公記 ~ 軍師、呉学人(ごがくじん)は間違えない? ~
月影 流詩亜
歴史・時代
その男、失敗すればするほど天下が近づく天才軍師? 否、只のうっかり者
天運は、緻密な計算に勝るのか?
織田信長の天下布武を支えたのは、二人の軍師だった。
一人は、“今孔明”と謳われる天才・竹中半兵衛。
そしてもう一人は、致命的なうっかり者なのに、なぜかその失敗が奇跡的な勝利を呼ぶ男、“誤先生”こと呉学人。
これは、信長も、秀吉も、家康も、そして半兵衛さえもが盛大に勘違いした男が、歴史を「良い方向」にねじ曲げてしまう、もう一つの戦国史である。
※ 表紙絵はGeminiさんに描いてもらいました。
https://g.co/gemini/share/fc9cfdc1d751
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる