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第四章:騒動渦中
第三十三話:左近、友を救う
しおりを挟む腹部に強烈な一撃を受け、徳松の意識は急速に闇へと沈みかけていた。
懐の密書を奪われまいと必死に抵抗するが、刺客・影狼の冷酷な力には抗う術もない。
薄れゆく視界の中で、影狼の汚れた手が、自分の懐へと伸びてくるのが見えた。
(だめだ……左近……すまない……!)
万事休すかと思われた、その瞬間だった。
「そこまでよ、外道が !」
凛とした、しかしどこか聞き慣れない、低く凄みのある声が響き渡った。
次の瞬間、影狼の腕が不自然な方向に跳ね上がり、鈍い骨の音と共に苦悶の呻き声が上がる。
徳松が霞む目で見たものは、いつの間にか影狼の背後に音もなく現れ、その腕を閂のように極めている黒っぽい着流し姿の男だった。
(だ、誰だ……?)
徳松の意識は朦朧としていたが、その男の横顔が月光に微かに照らし出された時、徳松は息を飲んだ。
そこには、信じられないことに親友であるはずの吉良左近の姿があったのだ。
しかし、それは徳松の知る左近ではなかった。
いつものなよやかなおネエ言葉や、頼りなげな「昼行灯」の面影はどこにもない。
代わりに、そこには獲物を狩る獣のような鋭い眼光と、全身から発散される触れる者全てを斬り捨てんばかりの殺気があった。
左近は、伊達屋敷の厨房で異変を察知していた。 昼間から徳松の様子がどこか落ち着かず何かを隠しているように見えたこと。
そして、屋敷内を駆け回る猫たちが普段とは違う緊迫した鳴き声を上げ、左近の足元に纏わりついては、何かを必死に訴えかけていたこと。
特に、徳松が可愛がっている虎毛の猫・疾風が、左近の着物の袖を咥えては、必死に屋敷の裏手へと引っ張ろうとしたのだ。
(徳さん……まさか……!)
左近は最悪の事態を予感し、料理長の制止を振り切って厨房を飛び出していた。
そして、猫たちに導かれるようにして、この危機一髪の場面に駆けつけたのだった。
「き、貴様……何者だ……ただの料理番ではあるまい…… !」
腕を折られた影狼が、苦痛に顔を歪めながら呻く。
「さあ、どうかしらねぇ ?
でも、わたくしの可愛い弟分に手を出したこと、地獄で後悔させてあげるわ !」
左近の口調は、いつものおネエ言葉に戻っていたが、その声には氷のような冷たさと底知れぬ怒りが込められていた。
左近は影狼のもう一方の腕を掴むと人間業とは思えぬ力で締め上げた。
影狼は、再び激痛に顔を歪め懐剣を取り落とす。
左近は、その懐剣を蹴り飛ばすと、懐から細工を施した料理用の金串を取り出し、それを影狼の首筋に突きつけた。
「お喋りはそこまでよ。 おとなしく寝ていただきましょうか」
金串の先端には、即効性の眠り薬が塗られていた。 影狼は抵抗する間もなく、その場に崩れ落ち深い眠りへと引きずり込まれていった。
一部始終を、薄れゆく意識の中で見ていた徳松は、あまりの出来事に言葉を失っていた。
目の前で繰り広げられた、親友の信じがたいほどの強さと、その豹変ぶり。
あれが本当に、いつも自分に甘え同僚たちから笑われている、あの左近だというのか…… ?
「徳さん!しっかりして!」
左近は倒れている徳松に駆け寄り、その体を抱き起こした。
その顔には、先程までの氷のような表情はなく、親友を案じるいつもの優しい左近の顔に戻っていた。
「左近……お前……一体……?」
徳松は、かろうじて声を絞り出した。
腹部の激痛と、目の前の現実とが、彼の頭の中で混乱をきたしている。
「お喋りは後よ、徳さん。 まずは手当てをしないと。 そして、ここから離れるわ」
左近は、徳松の懐から血に汚れた密書の竹筒をそっと取り出すと、それを自分の懐にしまい込んだ。
そして、徳松の傷口に応急手当を施すと、彼を背負い、闇に紛れてその場を後にしようとした。
「……あの猫たち……お前を呼んでくれたのか……?」
徳松は、左近の背中で、途切れ途切れに尋ねた。
「ええ、そうよ。 あの子たちがいなかったら、間に合わなかったかもしれないわ。
徳さん、あなたは本当に猫に愛されているのねぇ」
左近の声は、いつものおネエ言葉だったが、その響きには安堵と、そしてどこか誇らしげな響きが込められていた。
徳松は親友の背中の温もりを感じながら、ゆっくりと意識を手放した。
最後に彼の脳裏に焼き付いたのは、月光を浴びて闇を駆ける、見たこともないほど強く、そして頼もしい、吉良左近の真の姿だった。
それは、長年信じ続けてきた親友の全く知らなかった一面。
衝撃と、混乱と、そして何故か胸の奥から込み上げてくる熱い思い。
徳松の心は大きく揺さぶられていた。
左近は、徳松を背負いながら伊達屋敷の複雑な通路を抜け、安全な隠れ家へと急いだ。
左近の心には親友を救えた安堵と共に自らの正体を徳松に見られてしまったことへのかすかな戸惑いがあった。
しかし、今は何よりも徳松の命が優先だった。
そして、手に入れたこの密書が伊達家の闇を照らし出す大きな鍵となることを彼は確信していた。
二人の友情は、この夜を境に新たな局面を迎えることになるのかもしれない。
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