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第五章:寛文事件
第五十話:幕府の裁定
しおりを挟む酒井雅楽頭忠清邸での刃傷沙汰─寛文事件─から数日が過ぎた。
江戸城内では、この伊達家の未曾有の不祥事に対し、連日幕閣たちによる重苦しい評議が続けられていた。
大老酒井忠清の屋敷で、あろうことか伊達家の家臣たちが斬り合いを演じ、死傷者まで出したのだ。
幕府の権威は著しく傷つけられ、諸藩への示しも含め、伊達家には厳罰をもって臨むべしという声が大勢を占めていた。
「伊達家六十二万石といえども、この度の狼藉は断じて許されるものではない。
家中の統制も取れず、あまつさえ若君毒殺を企てた疑いまである。 お家取り潰しもやむなしとの意見も出ている」
評議の席で、ある老中が厳しい口調でそう述べると、他の者たちも次々に同調の意を示した。
原田甲斐の暴挙は論外としても、それを抑えきれなかった伊達家全体の責任は免れない、というのが大方の見方だった。
しかし、酒井忠清の胸の内は複雑だった。彼の脳裏には、あの日、浪人風の男が密かにもたらした衝撃的な証拠の数々……原田甲斐と幕閣の一部、稲葉山城守との繋がりを示唆する書状の断片や暗号表、そして伊達家分割という恐るべき計画が記された密書が、重くのしかかっていたのだ。
もし、あれが全て真実であるとすれば、伊達家は単なる内紛の当事者ではなく、巨大な陰謀の犠牲者という側面も持つことになる。
(稲葉め……長年、その野心を隠し通してきたか。伊達家の混乱に乗じ、奥州に己の勢力を築こうとは、あまりにも危険な火遊びよ。
だが、今ここでその全てを公にすれば、幕府そのものの威信が大きく揺らぐことになりかねん……)
酒井は、為政者としての苦渋に満ちた表情で、評議の喧騒に耳を傾けていた。
真実を明らかにすることの正義と、幕府の安定を維持するという現実的な判断との間で、彼の心は激しく揺れ動いていた。
数日に及ぶ評議の末、ついに酒井忠清は、幕府としての最終的な裁定を下す決断をした。
その裁定は、江戸城の大広間において、伊達家の江戸留守居役や主な家臣たちが呼び出された中で、厳粛に言い渡された。
「伊達家当主・亀千代君については、この度の騒動の直接の責任はなしとみなし、家督相続を認める。亀千代君は元服の上、綱村と名を改め、伊達家六十二万石の安寧に努めるべし」
この言葉に、伊達家の者たちの間からは、安堵の溜息が漏れた。最悪の事態であるお家取り潰しは免れたのだ。
しかし、酒井の言葉は厳しく続いた。
「ただし、この度の家中の騒動、並びに酒井雅楽頭邸での刃傷沙汰は、断じて許されるものではない。
伊達家には、その責めを負っていただき、当面の間、藩主綱村君の江戸城への登城を差し止める。 また、家中の粛正を徹底し、二度とこのような不祥事を起こさぬよう、綱紀の引き締めを厳命する」
さらに、騒動の直接的な原因を作った者たちへの厳しい処罰が言い渡された。
「原田甲斐は、主君を蔑ろにし、藩政を私物化し、あまつさえ若君毒殺を企てた大罪人である。その首は既に刎ねられているが、改めてその罪を天下に示し、原田家は家名断絶、所領は全て没収とする。
また、甲斐に与し、この度の騒動に加担した者たちも、その罪の軽重に応じて厳罰に処すものとする」
そして、最後に酒井は、伊達安芸(宗重)について触れた。
「伊達安芸守宗重は、甲斐の非道を幕府に訴え出たものの、結果として刃傷沙汰を引き起こし、自らも命を落とした。
その忠義は認めるものの、思慮に欠けた行動であったことは否めず、家臣としての本分を全うしたとは言い難い。
しかし、その死を悼み、その子には家督の相続を許すものとする」
この裁定は、伊達家にとっては厳しいものではあったが、改易という最悪の事態を回避できたという意味では、ある種の温情が示されたとも言えた。
そして、その背景には、左近がもたらした情報が、酒井忠清の胸三寸に少なからぬ影響を与えたことは間違いなかった。
黒幕である稲葉山城守の名が公にされることはなかったが、酒井は評議の後、内々に稲葉を呼び出し、その全ての権限を剥奪し、事実上の隠居を命じたという。
稲葉は表舞台から完全に姿を消し、その野望は潰え去った。
幕府からの裁定は、すぐに伊達家江戸屋敷にも伝えられた。
屋敷内は安堵の声と、しかし同時に多くの犠牲者を出したことへの悲しみ、そして今後の伊達家の行く末を案じる重苦しい空気が入り混じっていた。
長屋の自室で、左近はその裁定の報を、千代と徳松と共に静かに聞いていた。
(黒幕を完全に断罪することはできなかった……
そして、安芸様も……
わたくしの力など、所詮はこの程度なのかもしれないわね……)
左近の胸には、一抹の無力感がよぎった。
しかし、伊達家が存続し、幼い綱村君が家督を継ぐことになったという事実は、彼にとって大きな救いでもあった。
自分の戦いが、ほんの少しでも伊達家の未来を良い方向へ導けたのなら、それで十分なのかもしれない。
「左近さま……お疲れ様」
千代が、そっと左近の手に自分の手を重ねた。
その温もりが、左近の心の奥深くに染み渡っていく。
徳松もまた、まだ傷の癒えぬ体で左近の肩を力強く叩いた。
「お前のおかげだ、左近。 伊達家は、救われたんだ」
寛文事件という名の嵐は、こうして公式には一応の終息を見た。
しかし、その嵐が残した傷跡はあまりにも深く、多くの人々の心に、そして伊達家の歴史に、消えることのない刻印を残した。
江戸の空の下、それぞれの思いを胸に、人々は新たな時代の始まりを迎えようとしていた。
そして、左近たちの物語もまた、まだ終わったわけではなかった。
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