【猫の日記念:2026 】ダブルス・パートナーは診察台の上で 〜マッケンローとステフィの動物病院狂想曲〜

月影 流詩亜

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第一部:春香サイド『空回りエースと沈黙のバックハンド』

​第2話 アウェイの洗礼

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​ 愛車である古いハッチバックのエンジンをかけた瞬間、後部座席からこの世の終わりを嘆くような声が聞こえてきた。

​「クゥ~ン……キュ……クゥゥ~ン……」

​ マックだ。

 さっきまで「俺が家を守る!」と吠え立てていた勇姿はどこへやら。今はケージの隅っこに鼻を押し付け、情けない鼻鳴きを繰り返している。

 テニスの試合で言えば、ホームゲームでは無敵の強さを誇るくせに、アウェイのコートに立った途端にラケットの握り方すら忘れてしまうようなメンタルの弱さだ。

​「マック、まだ病院に着いてもいないわよ。スタミナ切れ起こすわよ」

​ ルームミラー越しに声をかけるが、返ってくるのはさらに悲壮な「ヒィ~ン……」という泣き言だけ。

 対照的に、その隣に固定されたステフィのキャリーケースは、不気味なほど静まり返っていた。
 揺れすらしない。まるで中身が入っていないかのような静寂。

 時折、マックの情けない声があまりにうるさいと、ケースの中から「ニャッ(黙りなさい)」と短く鋭い一声が飛ぶだけだ。

 さすがは女王様クイーン。移動中もメンタルコントロールに余念がない。
​ 十分ほど走り、私たちは目的地である「みどり動物病院」に到着した。

 今日は日曜日。駐車場は満車に近く、嫌な予感がした通り、待合室はすでに「満員御礼」の状態だった。

​ 自動ドアが開いた瞬間、独特の消毒液の匂いと、動物たちのフェロモンが混じった空気が鼻をつく。

 私にとっては少し懐かしいような匂いだが、マックにとっては地獄の釜が開いた匂いなのだろう。
 抱っこ紐の中に収まったマックの体が、ビクリと跳ねた。

​「あ、どうもー。五代さん、こんにちは」

​ 受付で顔なじみの看護師さんが笑顔で迎えてくれたが、私の腕の中の毛玉はそれどころではない。
 彼は私の胸元に顔を埋め、まるでカンガルーの子供のように存在を消そうとしている。
 その時だ。入り口のドアが開き、大きなゴールデンレトリバーが入ってきた。

​「ワン!(こんにちは!)」

​ 屈託のない明るい挨拶。しかし、マックにとっては巨大怪獣の襲来に等しい。
 彼は「ヒッ!」と小さく息を呑み、私の服を爪が食い込むほど強く掴んだ。ブルブルと震える振動が、私の体にも伝わってくる。

​「……あのねえ、マック。あんた家じゃあんなに偉そうなのに」

​ 私は呆れて、震える背中をポンポンと叩く。

 内弁慶にもほどがある。ジョン・マッケンローの名前が泣いているぞ。
    せめて威嚇くらいしたらどうだ、と思うが、今の彼は完全に白旗を上げている。

​ 私は空いている椅子を見つけ、マックを膝に乗せたまま、足元にステフィの入ったキャリーケースを置いた。

 隣に座っていた上品な老婦人が、足元のケースを見て微笑みかけてきた。

​「あら、猫ちゃん? とってもお利口さんねえ。一度も鳴き声が聞こえないわ」

「ええ、まあ……。この子は本当に手がかからないんです。それに比べてこっちは……」

​ 私は苦笑しながら膝の上のマックを指差す。
 老婦人は「あらあら、怖いのねえ」と笑った。
​ ふと、私は足元のキャリーケースに目を落とした。

 ステフィは中で香箱座りをし、メッシュの窓からじっと外を……正確には、震えるマックの方を見上げているようだった。

 その眼差しは、どこか観察者のように冷静だ。

​(……あれ?)

​ ふと、ケースの扉のロック部分に違和感を覚えた。
 プラスチックの爪が、カチッとはまりきっていないような気がする。長年使っているせいで、バネが少し緩んでいるのかもしれない。

 普段ならすぐに確認して締め直すところだ。

 しかし、今の私は膝の上で暴れそうになるマックを押さえるのに必死だったし、何より中に入っているのはあの「冷静沈着」なステフィだ。

​(まあ、ステフィなら大丈夫か。自分から入ってくれたくらいだし、暴れて飛び出すなんてありえないしね)

​ それが、私の犯した最大の「アンフォーストエラー(判断ミス)」だった。

 この緩んだロックが、数分後、診察室をカオスに変える引き金になるとは、まだ知る由もなかったのだ。

​「五代さーん。マッケンローくん、ステフィちゃん、どうぞー」

​ 看護師さんの明るい声が響く。

 さあ、試合開始だ。

 私は覚悟を決め、震えるマックを抱き直し、足元のキャリーケースを持ち上げた。


​ ── 第3話へ続く ──
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