春はあげもの

砂川恭子

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やうやううまくなりゆく

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「あ、油淋鶏ユーリンチー大盛り」

 新学期初日のざわつく教室。隣のクラスの友人に用があった私は教室を出ようとして、ちょうど入ってこようとした男子生徒に出くわした。

 がらりと開いたドアの向こうから降ってきた、注文のような場違いな言葉に思わず相手を凝視して硬直した。声の主は私よりも頭一つほど背の高い、涼しげな目元の男子だった。やってしまったとばかりに大きな手で口を覆うその顔には見覚えがあった。

「しょ、食堂スハラの……」
「どうも……」

 同い年だったのか。え、制服姿かっこいい。そして日本語話せたのか。ここにいるんだからそりゃそうか。頭の中で次々に疑問が湧いて出た。というか、というか――。


(いま私のこと、油淋鶏大盛りって呼ばなかった……?)

 高校二年生の春は、最悪の形で幕を開けた。



◇◇◇◇◇◇◇◇



 家族で食堂スハラを訪れたのは、つい新学期を直前に控えた昨日のことだった。うちから車で数十分のこの店は、手ごろな値段でボリュームたっぷりの本格中華が楽しめると地元で人気だった。

「あら松森さん! いらっしゃい」

 母と同世代くらいのおかみさんが親し気に声を掛けてくる。二年ほど前からこの店へ通うようになった私たちはいまや立派な常連さんになってしまった。席に着くまでに母が注文も済ませてしまう。

「こんにちは~。海老ワンタンメン二つと天津飯に油淋鶏で! 油淋鶏は――」
「大盛りね! いつもありがとうございます」
 明るいおばさんが厨房へとオーダーを通すのを聞きながら席についた。

 その日は間もなく新学期を迎える私、恵那と弟の健太のクラス替えの話で持ちきりだった。

「俺、バド部の誰かと一緒だといいな……」
 中学三年生に進級する健太はため息交じりに呟いた。

「私は学年の人数も多いから、かなり変わっちゃうと思うよ」
 私が通っている高校は、この店から徒歩圏内に位置する、私立のマンモス校だ。わりと雰囲気のいい学年なので、そんなに不安はないが、クラス替えのことを思うと少しそわそわした。

 会話が一段落すると、ちょうど食事が運ばれてきた。家族で食事をすると、大盛りを健太か父のところに置かれることが多いが、スハラのおばちゃんは流石、ご飯がこんもりと盛られた油淋鶏定食を私の目の前に置いてくれた。

 白米の湯気と、甘酸っぱいたれの匂いを吸い込むとぐるぐるとお腹が減った。加湿器のアロマ、この匂いのやつ売り出さないかな。堪らなくなって箸を手に取り、食べ始める。

 かりかりに揚がった鶏もも肉に、甘酸っぱいネギたれがたっぷりかかって、いつも通りのおいしさだ。いろんなメニューを試したが、ここ最近はずっと油淋鶏ばかり頼んでいた。

「恵那ちゃん、今日は彼、いないわね」
 向かいで天津飯を口に運ぶ母が、厨房を見つめた後、にやにやと笑いながら囁いた。

「や、やめてよ、急に」
「あぁ、あの留学生っぽい人?」
 思わずむせそうになった私が水を飲みながらいうと、弟が食いついてきた。

 このお店は中国出身の明るいおかみさんにちょっと寡黙な店主、数人のアルバイトで営業していた。時折厨房を手伝ったり、皿を下げたりしているのが件の彼だった。黒い短髪に切れ長の瞳、すらっと背の高い大学生くらいの落ち着いた感じの人で、確かに密かにいいなと思っていた。

「そうそう、リーくんって呼ばれてるあの子! やっと食い気だけじゃなくなったのよ」
「中国語講座が録画されてたのはそういうことか」
 母を黙らせようと焦っていたら、のんびりとした口調の父に追い打ちを掛けられた。

「わー、お父さん言わないで!」
 寡黙な厨房の彼が中国人かどうかは分からなかったが、以前話しているのを聞いた時になんとなく日本語が片言だった気がしたので、家族は留学生だろうと見当をつけていたのだ。

「えっあれ消しちゃった。間違って録画したのかと思って……ごめん!」
「なに!」
 許せん。知られたことも恥ずかしくて、私は腹いせに隣の健太の海老ワンタンメンから、ワンタンをかっさらった。

「うわ、最悪! とっといたのに」
 私の前で好きなものをとっておくなんて迂闊な弟だ。ぷりっぷりのエビが美味だったので、私は溜飲を下ろしたのだった。



◇◇◇◇◇◇◇◇



(海老ワンタンおいしかったな……ってそうじゃない!)

 HRを聞き流しながら、昨日のことを思い出していた私は、チャイムの音で現実に引き戻された。問題は彼がクラスメートだということだ。しかし名簿に中国っぽい名字はなかったはず……。りーくんって李くんじゃなかったのだろうか。

 疑問は自己紹介で解消された。
「洲原諒です。部活は卓球部で……よく老け顔って言われます」

 わりと序盤に自己紹介の順番が回ってきた彼は、卒なく、目立ちすぎず、ちょうどよいくらいの笑いをとって自己紹介を終えた。

 教室が和やかな笑いに包まれる中、私は一人、肩を落としていた。

(スハラのあのおかみさんの息子ってことか。『りょう』で『りーくん』だったのね……)

 お門違いと分かっていても、おばちゃんを恨まずにはいられなかった。そこは素直にりょうくんでいいじゃないか。りーくんなんて小書きの『ょ』と『う』しか省略できてない。

 それからの私は茫然自失だった。終盤にまわってきた、その後のクラスでの立ち位置を左右するといっても過言ではない自己紹介も適当に済ませ、終業の鐘の音とともに席を立った。教室を出るとき誰かに名前を呼ばれた気がしたが、振り返らずに真っ直ぐ家に帰った。

 帰宅後、すぐに部屋着に着替えて居間のソファに突っ伏した。まだ誰も帰っていないので、存分に声にならない呻き声をクッションにぶつける。あの自然に出た感じからして、あだ名はお店で定着しているのかもしれない。恥ずかしさに足をばたつかせる。

 英世(後の柴三郎である)一枚で私のお腹を満たしてくれるのはこの辺だとあそこしかないのに、もう恥ずかしくて行けそうもない。なにより、ちょっといいなと思っていたお兄さん――同い年だったわけだが――とあんな形で店の外で会ったことがショックだった。

 密かに中国語をマスターして、ぽろっと出た言葉から会話が始まるなんて言うおしゃれな出会いを妄想していたのだ。まだあいさつと感謝の言葉しか知らないけど。

 しばらくそうしてから身を起こした。悲しいときには甘いものだ。苺とチョコとバニラの三色アイスを抱えてソファへ戻る。もう三分の一ほどしか残っていないし、直に食べちゃおう。昼下がりの情報番組を見ながら、大きいスプーンでアイスを味わった。

 アイスを食べていると、なんだか塩気のあるものが食べたくなった。そういえば今日はまだ昼食を食べていない。仕事で出るからと自分で買うように言われているのだった。

 スマホを操作して、帰宅中の弟にコンビニによって弁当とチキンを買ってくるように連絡する。私立の中高一貫校に進学した弟を持つと、寄り道を頼めて便利だ。

 テレビは退屈だったのでスマホをいじって時間をつぶす。アイスを食べ終えると、今度は噛み応えのあるものが食べたくなって、台所の棚からグミを引っ張り出した。色とりどりの熊をぐにぐに噛みしめていると、健太が帰ってきた。

「お、俺にもちょーだい」

 グミの袋へと伸ばされた手を反射的に叩いた。いってーと文句を垂れる健太に手を差し出して、約束のぶつ、もとい弁当とチキンを受け取ってから、黄色の熊を分けてあげた。黄色だけかよ、とぶつぶつ言いながらも健太はグミを口に運んだ。

「姉ちゃん、お金はー?」
「ゲーム、課金してるでしょ」
 ぎくっと肩を揺らす弟に慈悲深い私は微笑みかける。

「黙っててあげる」
「くそー」
 悪態をついた健太が隣に腰を下ろした。

「なんかあったん?」
 横暴な私にも慣れている弟は意外と敏いところがある。

 お母さんたちに言わないでね、と口止めすると、弟は嫌そうに顔を歪める。
「え、なんかやばい話?」

「いや。中華料理のお兄さん……いるじゃん」
「あぁ例の留学生ね」

「留学生じゃなかった……」
「え!? 話せたの?」
「高校一緒だったっていうか、クラスメイトで……」

「おわーよかったじゃん」
 のけぞりながらにかっと笑った。いいやつだなこいつ。好きじゃない黄色い熊を押し付けてごめん。

「で、なんで落ち込んでるの?」
 首を傾げる弟に、クッションに顔を埋もれさせながら言った。

「…って言われた」

「え?」

「私の顔見るなり、『油淋鶏大盛りだ』って言われたの!」
 やけになって叫ぶように言うと、きょとんと目を丸くした弟は声を上げて笑い出し、癪に障った私は思わずその頭をはたいていた。



◇◇◇◇◇◇◇◇



「え? 今日おにぎりいらないの?」
「うん……言うの遅くてごめん」
 いつもお弁当の他に持たせてもらうおにぎりを断ると、母が心配そうな顔をした。

 新年度の目標は胃の縮小だ。昨晩決意したことだった。せめて、大食いキャラを卒業しよう。
「それ方向性間違ってね?」
 核心をついてくる弟なんてこの際無視だ、無視。

 幸いにもクラス替えをしたばかりで知り合いも少ない。仲のいい友人とは一緒だったが、根回しして黙っておいてもらおう。そう決めたものの、なんとなく言い出しづらくてタイミングを見計らっていた三限目に、ことが起こった。

 十分の休憩時間に入って、仲のいい由美子が不思議そうな顔をしたときに嫌な予感はしていた。
「恵那、いつの間に早弁したの?」
「してないよ」

「なんで?もうお昼になっちゃうよ」
「…お、お腹減ってないから」

「お腹減ってないの!?」
 目を丸くした由美子が大声を上げ、周囲にざわざわが広がっていく。そこへちょうど先生が入ってきた。次の時間は現代文。担当するのは一年の時担任だった山ちゃんこと山田先生だ。

「山ちゃん! 大変」
「おーどうかしたか」

「松森さんが食欲ないって……」
「なんだと。早く保健室に連れていけ」

 そりゃないぜ山ちゃん。事情を知らないらしいクラスメイトが冗談だと思ってくすくす笑う。

 注目を浴びて赤面してしまうと、由美子はそれを見て熱もあるのではないかと勘違いしてしまった。結局保健室へと引きずられた私は、真っ赤になりながら保険医に事情を説明する羽目になった。

 放課後、隣のクラスの友達が来るまで自分の席で宿題をのんびり進めていると、ちょっと目立つ感じの男女グループがこちらをちらちらと見ているのに気付いた。

「あの子?」
「そうそうめっちゃ食べるんだって」

 耳をそばだてなくても聞こえてくる声は、私の大食いについて話しているようだった。

「全然太ってないよね、羨ましい~」
「でも大食いってちょっとひくわ」

 ちょっと明るめの髪をした男子が言った一言に集団がどっと笑う。女子がひど~、と口だけでとがめていた。

 今さら大食いなことを言われてもさほど気にはならなかったが、男子の言葉がひっかかった。やっぱり、大食いってナシなんだろうか……。そんなことを考えていても空腹を訴える自分の食欲がむなしい。

「松森さん」
 宿題に目を落とすふりをして落ち込んでいると、急に声を掛けられた。正面を見上げると、鞄を肩にかけた洲原君が少し緊張した顔で立っていた。

「洲原くん……」
「一緒に帰らない?」

 そう言って彼がちょっとほほ笑むだけで、空腹が消し飛ぶくらいの衝撃が走った。

 私がまごついていると彼に早くと急かされた。連れ立って教室を出るとき、洲原くんは先ほどの集団にも爽やかにじゃあなと声を掛けた。

 さらりと助け出してくれた彼の背中から目が離せなかった。心の中のお笑い芸人が惚れてしまうと叫んでいた。



◇◇◇◇◇◇◇◇



 高校一年の夏、両親とも出張が重なったその日は、お弁当もおにぎりもなしだった。コンビニの混雑を知らずにスタートダッシュに遅れた私はやっと買えた二、三個の菓子パンで放課後まで過ごす羽目になった。空腹に耐えかねた私は、当時通い始めた食堂に死に体で立ち寄ったのだ。

「あら、松森さんのところの! 今日は一人?」
 明るく迎えてくれるおばちゃんが女神に見えた。その日は母と留学生ではないか、とこそこそ話していた彼も厨房にいた。

 空腹の極みにいた私は、ラーメンと半チャーハンのセットに餃子と唐揚げも付けた。ぱくぱくと食べ進め、お腹が落ち着いてきたころに、隣のカップルの言葉が耳に入ってきた。

「やば、見ろよあの量。ありえねー」
「ちょっとやめなよ」

 せせら笑う男性を、彼女さんが本気で止めてくれることがせめてもの救いだった。ラーメンも餃子も、全部とってもおいしいのに、箸を持った手が止まってしまった。

 どん、と私への視界を遮るように、男性店員がカップルの注文した料理を置いた。

「うちの店、うまいから、みんなよく食べる」

 普段厨房に引っ込んでたまに皿を下げるくらいだった彼が、めずらしく配膳をしたかと思うと、さらにめずらしく客に話しかけた。片言だからやっぱり留学生だと思った。

 なんとなくはらはらして見守っていると、いかつい店主のおじさんが大口を開けて笑った。
「そうそう。お客さん、持ち帰り用のパックもありますんで」

 寡黙なおじさんだと思っていたが、案外気さくな人らしい。野太い声で話しかけると、カップルの男性は少し元気がなくなった。

 鑑賞対象としての『かっこいいな』が、『気になる』に昇華されたのはあの時だった。



◇◇◇◇◇◇◇◇



 友達への連絡を済ませた後で、そんなことを思い返していると、いつの間にかお店に連れてかれた。

「あら! ついに話しかけたの!?」
 ちょうど昼の営業を終えたばかりのようだったが、興奮した様子のおばさんが出迎えてくれた。同じ制服を着ていることにも何も聞かれない。

「えなちゃんでしょう? うちの子シャイなんだけど、松森さんちが来てくれるようになってからお手伝いも嫌がらなくなったのよ~」
「母さん、その辺にしてやれ」
 のそっと店の奥から顔を出したご主人が、おかみさんを止める。

 この場に残りたそうなおばさんだったが、おじさんに言われて渋々店の奥へと姿を消した。残された洲原くんと私の間に少し気まずい沈黙が落ちる。

 母親というのはどうしてこう、子どもの恋愛事情に敏感な割に、信じられないほどの鈍感さで話題にするのだろう。

 ぶすっと仏頂面の洲原くんが、ぼそっと言った。
「そういう訳で……、これからもご贔屓にしてほしいんだけど」
 表情は固いがその耳は真っ赤に染まっている。多分私の顔も。

「う、うん……しぇーしぇー」
 覚えたての中国語を披露すると、洲原くんはぶはっと吹き出した。

 その後、早弁なしでは耐え切れなくなったお腹が鳴って、私はお菓子を頂きながら、彼から教室での出会い頭の一言について弁明を聞くことになるのだが、それはまた別の話。
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