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第四章 魔動乱編

165話 ルリーの過去⑫ 【母の願い】

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「な、なに……? どういう、こと?」

 その言葉を、ルリーは理解できなかった。いや、ルリーだけではない。ルランもだ。
 周囲には、逃げ回るダークエルフたち。魔獣が暴れまわり、侵入してきた人間も狂気に笑っている。

 もう、平穏な日常は戻ってこない……それは、誰の目にも明らかだった。

「だから、って……」


『だからせめて、あなたたちだけでも逃げて』


 ルールリアは、こう言った。一緒に逃げよう、ではない。
 この言い方だと、まるで……

「お母さん、は?」

「……」

 その問いに、ルールリアは答えない。ただ、じっとルリーを見つめていた。
 その表情は固く、とても冗談を言っているようにも思えない。

 その答えに、ルリーはイヤイヤと首を振る。

「いや……いや、だよ。お母さんも、一緒に逃げよう? お父さんも……みんなで、逃げようよ!」

「ルリー」

「だって……ほら、魔術で、目くらましとか、してさ。隙を作って、逃げよう。戦わなくていいから、逃げよう」

「それは無理なの」

 涙を浮かべながらも訴えるルリーの言葉に、しかしルールリアは首を縦に振ってはくれない。
 どうしてだ。逃げるくらい、頑張ればできる。ここでみんな死んじゃうよりも、逃げてしまえば……

「あの魔獣は、魔力を感知しているみたい。
 大勢で逃げても、追われるのがオチだわ」

「魔力……かん、ち?」

 よく意味がわからない。考えることを、放棄しているだけかもしれない。
 ただわかることは、逃げても逃げられない……ルールリアが、そう判断していることだ。

 ただ、適当に暴れ回っているかに見えた魔獣。あれに、目があるのかはわからない……だが、魔力で相手を識別しているなら。
 そう見たルールリアは、冷静に魔獣の生態を探る。

 ……もっとも、そんな時間は残されていない。

「どうした、足が震えて動けねぇか?」

「!」

 いつの間にか……そこには、エレガの姿があった。
 男は、その顔を狂気の笑みを染め上げ、顔や服には返り血がついていた。手に持つ剣にも血がついており、あれでダークエルフの仲間を斬ったであろうことはすぐにわかった。

 ルールリアは、子供たちを背に庇うように、立ち上がる。

「子供たちに、手は出させない」

「お、いいねぇその目。まだ死んでないって目だ……」

「おぉおおお!」

「!」

 ガギィンッ……と、鋭い音が響いた。エレガはとっさに、剣で攻撃を防ぐ。
 エレガの眼前まで迫ったのは、魔導の杖……それも、魔力強化により格段と硬度と攻撃力を高めたものだ。

 それを行ったのは、ルーク。ルークの魔力であれば、そこらの剣など折れてしまうはずなのだが……

「お父さん!」

「あいつ……父さんと張り合ってる!」

 エレガが笑みを携えたまま、ルークを跳ね返し……再び踏み込んだルークの放つ杖の斬撃を、剣で捌いていく。
 ルークの猛攻を、エレガは涼しい顔でかわしていく。しかし、ルークの動きは鈍くなる一方。

 それもそのはずだ。ルークはすでに、魔獣アルファとの戦いで満身創痍となっている。対してエレガは、まだ元気なまま。
 すぐに、形勢は逆転……いや、そもそもエレガはルークの攻撃を捌いていただけだ。エレガからの反撃に、ルークは押される一方。

「お父さ……」

「ゴァアアアア!!」

 獣の雄叫び……魔獣ミューが、次なる獲物を求めてさ迷っていた。その姿に、ルリーは吐き気を覚える。
 頭部にあるはずの顔はなく、代わりに首からうねうねと伸びている触手……それに、何人ものダークエルフが串刺しにされている。

 すぐにルールリアは、ルリーとルランの目を塞ぐが……すでに、目に焼き付いてしまった。
 しかも、視界が閉ざされたことで聴覚が過敏になる。ただでさえ耳のいいエルフ族、聞こえなくていいものまで聞こえてしまう。

「ぐぅっ……お前たち、逃げろ……!」

「あなた!」

 それは、ルークとルールリアの声。ルークも、子供たちを逃がすつもりのようだ。ただ、彼は妻も一緒に逃がそうとしている。

「いいねぇ泣かせるねぇ! 家族のために身を捧げようってか……
 なら、捧げてみせろよ!」


 ぶしゃっ……


「あなたぁああああ!」

「お父さん! お母さん、手、退けて!」

「どうしたんだよ、なにが……!」

 視界を塞がれ、なにも見えない。ただ聞こえたのは、母の叫びと、直前にあった、なにかを斬り裂くような音。
 そして、抑えてはいるが父の苦しそうな声だった。それをかき消すように、エレガの耳障りな高笑いが聞こえる。

 直後に、ズシン……と、胸の奥にまで響くような重低音。同時に、体が浮くような感覚……
 いや、実際に浮いている。その衝撃に、目隠しが外れ……ルリーたちは、地面へと投げ出される。

 目を開くと、巨大な足が視線の先に見える……魔獣ミューが地面を蹴りつけ、その衝撃でルリーたちの体が浮いたのだ。
 ルリ―はすぐに、視線を巡らせる。倒れているみんな……兄ルラン……母ルールリア……そして……

「あ、あ……」

 ……エレガの刃に貫かれた、父ルークの姿。

「やだ……やだやだ、やだぁ……」

 すがるように、手を伸ばす……しかし、その先に掴めるものは、なにもなかった。
 そんなルリーの体が、持ち上げられた。自分の意思とは反した力に、ルリーは首を動かした。

 ルリーの体を立たせたのは、ルランだった。

「おにい、ちゃん……」

「ルリー、逃げるぞ」

「! なに、言ってるの?」

 兄が、なにを言っているのかわからない。ただ、つらそうな目をしていて……ルリーの視線を、まともに受けられないのか、目を合わせようとしない。
 ルリーは、いやいやと首を振る。

「だめだよ、そんな……だって……」

「ここにいても、俺たちはなんの役にも立たない。
 わからないのか、俺たちがここに残ってたら、父さんや母さんの足手まといにしかならない」

「っ、でもぉ……」

 ルリーの肩を掴み、そらしていた目でしっかりと、ルランはルリーを見た。
 その選択が正しいかなんて、わからない。けれど、その言葉自体には間違いはないように思えて。

 自分たちだけ逃げたくない……そう思うのは、ルリーのエゴだ。
 その間にも、知った顔が、死んでいく。周囲を見ても、そこには死しかない。隣のおばちゃんが、いつも野菜を分けてくれるおじさんが、それだけではない……

 先ほどの衝撃で、一人飛ばされてしまったのだろう、力なく倒れているマイソンの体が……魔獣の足に、踏み潰された。

「いやぁああ! みんな、逃げよう! 早く逃げようよぉおおおお!」

「っ、どうした、ルリー!」

 急に暴れ出した妹の姿に驚きつつも、ルランはルリーをしっかりと抱きしめた。
 ……ルランの位置からは、友達が踏み潰された場面は見えてはいない。彼の遥か背後で起こった出来事は、しかしルリーには見えていた。

 皮肉にも、ルランがルリーの顔を自分の顔へと向けていたために。

「落ち着け、おい……」

「ごめんね、ルリー……あなたの言うように逃げるのは、それは無理みたい……」

「お母さ……」

 ルリーを安心させるために、語りかけるルールリアの右腕は……なくなっていた。
 吹き飛ばされた衝撃で千切れたのか、それとも別の要因か。

 痛みがあるだろうに、そんな様子はつゆほども見せない。

「もうそこまで来てるぞぉ!」

「ルリー、お兄ちゃんと、逃げなさい。母さんたちは……大丈夫だから。ね」

 まだ動ける者は、魔獣と人間の対処に当たっている。
 だがそんなもの、長く持つはずもない。

 母は、暴れる娘を落ち着かせるように、頬に手を添えた。

「みんな、なんとしてもあの魔獣を食い止めるぞ! 子供たちだけでも逃がすんだ!」

「……あなたたちは私たちの大切な子供。せめて、ルリーとルランだけでも逃げて!」

「やだ、やだやだ! みんなと一緒がいい! 私もここに……」

 こんなことをしても、母を困らせるだけだとわかっている……しかし、ルリ―はいやだいやだと暴れるしかない。
 もっと、自分に力があれば、なんとかなったのだろうか。逃げてと言われる子供ではなくて、一緒に戦える子供だったなら……

「ルリー…………っ……
 ルラン、お願い」

「……あぁ、わかった。行くぞルリー!」

 込み上げる感情を、必死に抑える……ルールリアは、最愛の息子に、最愛の娘を託す。
 ルランも、本当は自分たちだけで逃げたくはない。そんなことはわかっている。つらい思いをさせている。

 それでも……賢い我が子は、想いを汲んでくれた。

「! やだよぅ、お母さん! お父さん! 離して、お兄ちゃん! いやぁあああ!」

「二人とも、必ず生き延びて!」

「いやぁああああああ!!!」

 ルリ―の叫びは、戦火の前にかき消される……ルランはルリ―を担ぎ、無理やり走り出す。
 その姿を見届け……ルールリアは、杖を構える。これ以上、子供たちを危険にさらさないため。

 せめて遠くに逃げてくれと、願いを込めて。

「あの子たちは、絶対に追わせない……みんな!」

「おう、やってくれ!」

「……あん?」

 覚悟を決めたダークエルフたち、その様子にエレガは眉を潜めた。
 ルールリアの持つ杖が、まばゆい光を放ち……大気中の魔力が、凝縮されていく。

「全てを包み込みなさい!
 闇幕ダークネスカーテン!!!」

 ……漆黒の闇が、辺り一面を、覆い隠した。
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