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XI 嵐の夜-VI
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暗闇に慣れない目で辛うじて認識できたのは、風に揺れるカーテンと彼女のシルエット。そして僅かに開かれた窓。
帰ってきた時は、確かに閉じられていた筈だ。なのに何故、今その窓が開かれているのだろうか。
彼女にそれを問おうと、口を開く。
「……ごめん、なさい」
だが、今にも泣きだしそうな弱々しい彼女の声に遮られ、それを言葉にする事は出来なかった。
不意に鼻腔を抜けた、脳が痺れる様な甘い香り。シャツ越しに感じる柔らかな“何か”。
受けた僅かな衝撃に、ぐらりと身体が傾く。
覚えのあるその感触は、一体何だったか。
それを思い出す事に気を取られ、傾いた身体を立て直す事が出来なかった。
吸い寄せられる様に、カーペットが敷かれた床に倒れ込む。
「……ごめんなさい」
腰に鈍い痛みが広がる中、再び彼女がその言葉を口にした。
意味を理解する前に「暗い所が苦手で」と彼女が更に言葉を重ねる。
――煩いのは雨音か、それとも自身の心音か。
膝の上に馬乗りになった彼女のドレスが捲れ上がり、真っ白の太腿が惜しげも無く晒されている。それはやけに扇情的で、耳に衝く雑音がより一層煩く感じた。
熱を帯びる頬に、ぐらりと眩暈がする。自我が保てなくなる様な感覚に襲われ、慌てて彼女の太腿から視線を外した。
「……!」
顔を上げた彼女と、視線が絡む。
長い睫毛に、赤い唇、雪の様に白く透き通る肌。その美しい顔立ちに、息を呑んだ。
彼女の容姿は、あの有名なドイツの民話を連想させる。
美貌を妬まれ、毒林檎で深い眠りに落ちた憐れな姫の物語。
実母の策略の末に命を落とした姫を、何故王子は妃に迎える選択をしたのだろうか。物語の中では着目されていない場面だが、その行動に不信感と狂気を覚えた人間は数多くいる筈だ。如何なる理由があれど、死体を欲しがる王子に魅了される事は無い。
幼い頃の自分も、そうだった。肉親の殺人に屍体愛好、そして“色欲”の意味が込められたその作品を、自身は忌み嫌っていた。
嫌っていた、筈だった。
誰もが羨み、時には妬みの対象にも成り得るエルの美しい顔立ちを前にすると、何故だかあの物語が酷く恋しく思える。今となっては、王子の病的な奇行には同情を禁じ得なかった。
仮にエルが身罷ったとしても、きっと自分は彼女を手放す事はしないだろう。寧ろそれを好機だと捉え、永遠に自分の中に閉じ込めようとしてしまうかもしれない。
彼女の瞳に誰も映らなければ、彼女の手足が動かなければ、彼女の心が動かなければ――。
嵩を増していくその願望は、止まる事無く蓄積されていく。
「……1人は嫌なの」
彼女の瞳が、真っ直ぐに俺を見つめる。
「……1人に……しないで」
か細く、僅かに震えたその声。熱を帯びた視線に、冷静さが揺らぐのを感じた。
どんどん強くなっていく彼女の甘い香りが、助長する様に理性を狂わせる。
――彼女が欲しい。
その欲は、もうとっくに限界を超えていた。
「……エル」
彼女の腰に腕を回し、求める様に名前を呼ぶ。
「……俺が、傍に居るから」
首筋に触れさせた手を項に滑らせ、彼女と額を合わせる。
切なげな表情を見せた彼女は、俺を拒もうとはしない。ただ、陶酔する様にぼんやりと此方を見つめる。
“恋”や“愛”など、ただの精神病だ。
だが、本能にも似たこの感情に抗い続ける事よりも、このまま病として受け入れてしまう方が余程楽になれるのではないだろうか。
仮にそれが、俺の望んだ“幸せ”に程遠い結末を辿ったとしても。
ゆっくりと、彼女に顔を近づける。
自我を壊せるのも、彼女を自分だけの物に出来るのも、全て今が好機だと思った。
彼女の瞳がぎこちなく閉じられる。それに釣られて、自身も瞳を閉じた。
唇が重なるまで、あと少し。
――それはほんの一瞬の事。
瞳を閉じていても分かる程の強い閃光。緑掛かった、白い光の中に混じる赤色。そして数秒遅れて鳴った、爆発音にも似た雷鳴。
それに理解を追い付かせるには、少し時間が掛かった。
地震とも錯覚する地響きに、彼女とほぼ同時に瞳を開く。
「――なっ……なに……」
彼女が言葉にならない声を発し、両腕で勢いよく俺の胸を突いた。傾いた自身の身体を支える様に、後ろ手で床に手を突く。
俺の膝から飛び退いた彼女は猫の様に素早く、捕まえようと伸ばした手は虚しく空を切った。
「や、やだ……私、こんな……はしたない事を……」
手を口元に遣り、ぶつぶつと呟く彼女の顔は暗闇でも分かる程赤く染まっている。眉間に寄った皺と鬼の様な鋭い目つきは彼女なりの照れ隠しだろうか。
前髪をくしゃりと乱し、深く溜息を吐いた。
落雷さえなければ、今事彼女を自分の物に出来ていたかもしれない。触れ合わせる事の出来なかった唇を、恨む様に噛み締める。
“エルを繋ぎとめておけるなら、どんな関係でも”
思い出したのは、先程マーシャに告げた言葉。
果たして、自分は本当にそう思ってるのだろうか。彼女が自分の傍に居てくれさえすれば、触れる事が出来なくても良いと思っているのだろうか。
色恋に現を抜かしていたら、自分自身を壊してしまうかもしれない。“彼”の様に不幸になるかもしれない。なんて、都合の良い言い訳でしかない。
そんな言い訳を並べ立て意地を張り続ける位なら、いっそ彼女を手放してしまえばいい。
それが出来ないのなら、自分の感情を素直に受け入れるしか無い。
「――恋なんて、する筈無かったのにな」
傾き掛けてる心の、最後の抵抗か。街娼に触れられた頬がチクリと痛んだ。
帰ってきた時は、確かに閉じられていた筈だ。なのに何故、今その窓が開かれているのだろうか。
彼女にそれを問おうと、口を開く。
「……ごめん、なさい」
だが、今にも泣きだしそうな弱々しい彼女の声に遮られ、それを言葉にする事は出来なかった。
不意に鼻腔を抜けた、脳が痺れる様な甘い香り。シャツ越しに感じる柔らかな“何か”。
受けた僅かな衝撃に、ぐらりと身体が傾く。
覚えのあるその感触は、一体何だったか。
それを思い出す事に気を取られ、傾いた身体を立て直す事が出来なかった。
吸い寄せられる様に、カーペットが敷かれた床に倒れ込む。
「……ごめんなさい」
腰に鈍い痛みが広がる中、再び彼女がその言葉を口にした。
意味を理解する前に「暗い所が苦手で」と彼女が更に言葉を重ねる。
――煩いのは雨音か、それとも自身の心音か。
膝の上に馬乗りになった彼女のドレスが捲れ上がり、真っ白の太腿が惜しげも無く晒されている。それはやけに扇情的で、耳に衝く雑音がより一層煩く感じた。
熱を帯びる頬に、ぐらりと眩暈がする。自我が保てなくなる様な感覚に襲われ、慌てて彼女の太腿から視線を外した。
「……!」
顔を上げた彼女と、視線が絡む。
長い睫毛に、赤い唇、雪の様に白く透き通る肌。その美しい顔立ちに、息を呑んだ。
彼女の容姿は、あの有名なドイツの民話を連想させる。
美貌を妬まれ、毒林檎で深い眠りに落ちた憐れな姫の物語。
実母の策略の末に命を落とした姫を、何故王子は妃に迎える選択をしたのだろうか。物語の中では着目されていない場面だが、その行動に不信感と狂気を覚えた人間は数多くいる筈だ。如何なる理由があれど、死体を欲しがる王子に魅了される事は無い。
幼い頃の自分も、そうだった。肉親の殺人に屍体愛好、そして“色欲”の意味が込められたその作品を、自身は忌み嫌っていた。
嫌っていた、筈だった。
誰もが羨み、時には妬みの対象にも成り得るエルの美しい顔立ちを前にすると、何故だかあの物語が酷く恋しく思える。今となっては、王子の病的な奇行には同情を禁じ得なかった。
仮にエルが身罷ったとしても、きっと自分は彼女を手放す事はしないだろう。寧ろそれを好機だと捉え、永遠に自分の中に閉じ込めようとしてしまうかもしれない。
彼女の瞳に誰も映らなければ、彼女の手足が動かなければ、彼女の心が動かなければ――。
嵩を増していくその願望は、止まる事無く蓄積されていく。
「……1人は嫌なの」
彼女の瞳が、真っ直ぐに俺を見つめる。
「……1人に……しないで」
か細く、僅かに震えたその声。熱を帯びた視線に、冷静さが揺らぐのを感じた。
どんどん強くなっていく彼女の甘い香りが、助長する様に理性を狂わせる。
――彼女が欲しい。
その欲は、もうとっくに限界を超えていた。
「……エル」
彼女の腰に腕を回し、求める様に名前を呼ぶ。
「……俺が、傍に居るから」
首筋に触れさせた手を項に滑らせ、彼女と額を合わせる。
切なげな表情を見せた彼女は、俺を拒もうとはしない。ただ、陶酔する様にぼんやりと此方を見つめる。
“恋”や“愛”など、ただの精神病だ。
だが、本能にも似たこの感情に抗い続ける事よりも、このまま病として受け入れてしまう方が余程楽になれるのではないだろうか。
仮にそれが、俺の望んだ“幸せ”に程遠い結末を辿ったとしても。
ゆっくりと、彼女に顔を近づける。
自我を壊せるのも、彼女を自分だけの物に出来るのも、全て今が好機だと思った。
彼女の瞳がぎこちなく閉じられる。それに釣られて、自身も瞳を閉じた。
唇が重なるまで、あと少し。
――それはほんの一瞬の事。
瞳を閉じていても分かる程の強い閃光。緑掛かった、白い光の中に混じる赤色。そして数秒遅れて鳴った、爆発音にも似た雷鳴。
それに理解を追い付かせるには、少し時間が掛かった。
地震とも錯覚する地響きに、彼女とほぼ同時に瞳を開く。
「――なっ……なに……」
彼女が言葉にならない声を発し、両腕で勢いよく俺の胸を突いた。傾いた自身の身体を支える様に、後ろ手で床に手を突く。
俺の膝から飛び退いた彼女は猫の様に素早く、捕まえようと伸ばした手は虚しく空を切った。
「や、やだ……私、こんな……はしたない事を……」
手を口元に遣り、ぶつぶつと呟く彼女の顔は暗闇でも分かる程赤く染まっている。眉間に寄った皺と鬼の様な鋭い目つきは彼女なりの照れ隠しだろうか。
前髪をくしゃりと乱し、深く溜息を吐いた。
落雷さえなければ、今事彼女を自分の物に出来ていたかもしれない。触れ合わせる事の出来なかった唇を、恨む様に噛み締める。
“エルを繋ぎとめておけるなら、どんな関係でも”
思い出したのは、先程マーシャに告げた言葉。
果たして、自分は本当にそう思ってるのだろうか。彼女が自分の傍に居てくれさえすれば、触れる事が出来なくても良いと思っているのだろうか。
色恋に現を抜かしていたら、自分自身を壊してしまうかもしれない。“彼”の様に不幸になるかもしれない。なんて、都合の良い言い訳でしかない。
そんな言い訳を並べ立て意地を張り続ける位なら、いっそ彼女を手放してしまえばいい。
それが出来ないのなら、自分の感情を素直に受け入れるしか無い。
「――恋なんて、する筈無かったのにな」
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