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XXI 帰り道-I
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夏の暖かさが恋しく感じる11月。時々吹く風は、身震いするほどに冷たい。
仕事の都合で遠出をする事が多いが、ロンドンはその中でも特に冷え込む。1週間前に訪れたサウサンプトンの方が、まだ幾らか暖かかった様に思えた。
あと1、2ヵ月もすればさらに気温は下がり、雨が降る度に路面が凍結する様になるのだろう。そんな街並みを想像するだけで気が滅入る。
現時刻は20時半。普段ならもうとっくに仕事を終え、家に戻っている時間だ。
なのに、俺とマーシャが今居る場所は、馬車が頻繁に通る大通り。
『今回の依頼者、すごいムカつくから一緒に来て』
全ての元凶は、マーシャのその一言か、それとも一時間程度で終わるだろうと依頼内容も聞かずに承諾した俺の考えの浅はかさか。
マーシャの依頼者は、名家に嫁いだばかりの若い令室だった。
元々身分の低い女性だったらしく、贅沢をした事が無かったのだろう。ああでもない、こうでもないとマーシャの提案を全て否定しては、「労働者階級の分際で、この私に盾突くなんて」と口癖の様に言い放った。これ程までに見ていて疲れる取引は、他にあっただろうか。
貴族の女を常に相手にしているマーシャは、普段からこの様な取引をする事が多いのだろう。特に彼女は相手の感情を読めることもあり、その精神に掛かる負担は計り知れない。
しかし本来下層階級だった自分達が、労働者階級の人間より遥かに良い暮らしが出来ているのはこの仕事の御陰でもある。
仕事に於ける精神的負担は、ブローカーという職業を選んでしまった定めだとでも思って諦めるしかない。
深く息を吐き、外した革の手袋をジャケットの外ポケットに押し込んだ。
「――そういえば例の事件、まだ終わってないみたいだね」
神妙な面持ちで口を開いたマーシャが投じたのは、今街を騒がせている例の話題だ。
数日前の新聞にも取り上げられた、連続婦女暴行事件。街では、貴族絡みや自作自演、事件の発端は痴情の縺れなどと、様々な根拠のない噂が飛び交っている。
「終わるどころか、更に被害が増えてる」
彼女の言葉に呟く様に返答し、シガレットケースから取り出した煙草を口に咥えた。マッチを擦り、煙草の先に火を移す。
一昨日この街で、6人目の被害者が出たと今朝ライリーから聞いた。
被害者はアリア・ベックフォード。俺もマーシャも良く知った酒場で、踊り子をしている若い女性だ。深夜遅くに酒場の裏のゴミ溜めで、着衣が乱れた姿で意識を失っていたアリアを巡回中の警察官が発見したらしい。
“ロンドン市内”と曖昧に書かれていたあの事件は、どうやら自分達が想像している以上に身近な物だった様だ。
しかし幸いにも、6人目の被害者は娼婦としても商売していた女性で、特別目立った精神の傷はないと聞いた。今も彼女は被害の事を然程気にせず、普段通り客を取って仕事に励んでいるのだとか。
隣を歩くマーシャに全容を話すと、彼女が「警察は当てにならないなぁ」と嘆いた。
「エルちゃん、凄い美人だから狙われそうで怖いね。あの子警戒心無いし、知らない男でも優しい事言われたらすぐ信用しちゃいそう」
「……やめろ、お前が言うと洒落にならない」
「まぁ、犯行時刻は大体深夜だし、大丈夫だとは思うけど」
彼女の言葉に、曖昧に頷く。
本当に全ての犯行が深夜なのであれば、エルを自分の隣に繋いでおく事は出来る。だが、危険な連中がこの街に居る事は事実だ。あまり安心していられる事態でもないだろう。
危機感を一切感じないマーシャの横顔を睨む様に見つめ、苦い煙を深く吐き出した。
仕事の都合で遠出をする事が多いが、ロンドンはその中でも特に冷え込む。1週間前に訪れたサウサンプトンの方が、まだ幾らか暖かかった様に思えた。
あと1、2ヵ月もすればさらに気温は下がり、雨が降る度に路面が凍結する様になるのだろう。そんな街並みを想像するだけで気が滅入る。
現時刻は20時半。普段ならもうとっくに仕事を終え、家に戻っている時間だ。
なのに、俺とマーシャが今居る場所は、馬車が頻繁に通る大通り。
『今回の依頼者、すごいムカつくから一緒に来て』
全ての元凶は、マーシャのその一言か、それとも一時間程度で終わるだろうと依頼内容も聞かずに承諾した俺の考えの浅はかさか。
マーシャの依頼者は、名家に嫁いだばかりの若い令室だった。
元々身分の低い女性だったらしく、贅沢をした事が無かったのだろう。ああでもない、こうでもないとマーシャの提案を全て否定しては、「労働者階級の分際で、この私に盾突くなんて」と口癖の様に言い放った。これ程までに見ていて疲れる取引は、他にあっただろうか。
貴族の女を常に相手にしているマーシャは、普段からこの様な取引をする事が多いのだろう。特に彼女は相手の感情を読めることもあり、その精神に掛かる負担は計り知れない。
しかし本来下層階級だった自分達が、労働者階級の人間より遥かに良い暮らしが出来ているのはこの仕事の御陰でもある。
仕事に於ける精神的負担は、ブローカーという職業を選んでしまった定めだとでも思って諦めるしかない。
深く息を吐き、外した革の手袋をジャケットの外ポケットに押し込んだ。
「――そういえば例の事件、まだ終わってないみたいだね」
神妙な面持ちで口を開いたマーシャが投じたのは、今街を騒がせている例の話題だ。
数日前の新聞にも取り上げられた、連続婦女暴行事件。街では、貴族絡みや自作自演、事件の発端は痴情の縺れなどと、様々な根拠のない噂が飛び交っている。
「終わるどころか、更に被害が増えてる」
彼女の言葉に呟く様に返答し、シガレットケースから取り出した煙草を口に咥えた。マッチを擦り、煙草の先に火を移す。
一昨日この街で、6人目の被害者が出たと今朝ライリーから聞いた。
被害者はアリア・ベックフォード。俺もマーシャも良く知った酒場で、踊り子をしている若い女性だ。深夜遅くに酒場の裏のゴミ溜めで、着衣が乱れた姿で意識を失っていたアリアを巡回中の警察官が発見したらしい。
“ロンドン市内”と曖昧に書かれていたあの事件は、どうやら自分達が想像している以上に身近な物だった様だ。
しかし幸いにも、6人目の被害者は娼婦としても商売していた女性で、特別目立った精神の傷はないと聞いた。今も彼女は被害の事を然程気にせず、普段通り客を取って仕事に励んでいるのだとか。
隣を歩くマーシャに全容を話すと、彼女が「警察は当てにならないなぁ」と嘆いた。
「エルちゃん、凄い美人だから狙われそうで怖いね。あの子警戒心無いし、知らない男でも優しい事言われたらすぐ信用しちゃいそう」
「……やめろ、お前が言うと洒落にならない」
「まぁ、犯行時刻は大体深夜だし、大丈夫だとは思うけど」
彼女の言葉に、曖昧に頷く。
本当に全ての犯行が深夜なのであれば、エルを自分の隣に繋いでおく事は出来る。だが、危険な連中がこの街に居る事は事実だ。あまり安心していられる事態でもないだろう。
危機感を一切感じないマーシャの横顔を睨む様に見つめ、苦い煙を深く吐き出した。
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