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XXV 焦燥-III
しおりを挟む「ただいま。体調、良くなったんだな」
「まだ万全ではないけれど、少し休んだら良くなったわ」
「そうか、大事に至らなくて良かったよ」
柔らかな髪を優しく撫で、彼女を抱く腕に力を込める。そして頬を擦り合わせ、彼女の首筋へと顔を埋めた。
ずっとあの男の事を考えていたからだろうか。エルの甘い香りを感じた瞬間、彼女に触れたいといった欲求が一気に溢れ出した。
幾ら良くなったとは言え、体調不良を訴えた彼女に無理をさせる訳にはいかない。だが、少々その身体を愛でる位は許されるのでは無いか。そんな品の無い考えで頭が埋め尽くされていくのを感じながら、彼女の背に手を滑らせた。そして白く細い首筋にキスを落とすのと同時に、エプロンの紐を解く。
「あっ……」
彼女が慌てて緩んだエプロンを押さえるも、その口からは甘く愛らしい声が漏れ出た。そんな彼女が愛おしく、食べてしまいたい欲のままに噛みつく様に口付けた。深く唇を交わらせながら、服越しに彼女の身体を弄る。
彼女の服の下には、少々生地の厚いコルセットが着用されている。それは身体の形を美しく保つものだと理解はしているが、今はそれがとてももどかしく思えた。
「――もう、駄目」
身を捻り、自身の腕の中から何とか抜け出した彼女が、満更でも無い顔をしながらも手早くエプロンの紐を結び直した。
「お腹空いてる? ご飯は直ぐに出せるけど、先にお風呂の方が良いかしら」
自身に背を向けた彼女が、キッチンの方へと足を向けた。
最近、彼女が自身の誘惑を躱す事が増えた様に感じる。それも、昔の様にぎこちなく、白い頬を赤く染めて拒むのではない。まるで何でもない事かの様に、容易く躱してしまう事がとても腹立たしく思える。
彼女に手を伸ばし、その肩を掴んだ。そして強引に引き寄せ、背後から強く抱きしめる。
「――今日は、マーシャと随分長く話し込んでいたんだな」
彼女の耳に唇を触れさせながら、直接吹き込む様に囁く。そして彼女の細く美しい手を掬い取り、愛でる様に指をなぞった。
「長く……って程でも、無いと思うけれど……。彼女、昼頃には帰ってしまって……」
「……昼?」
マーシャが帰ってきたのは、自身が屋敷を出る直前。夕方の事だ。
マーシャとは常に仕事の予定を共有しているが、今日は彼女から予定があるという話は何も聞いていない。
例の事件で神経質になっているのか、マーシャのその行動が妙に引っ掛かる。
「――マーシャと、何の話をしたんだ」
「色々と、ね」
「……なんだよ」
「色々は色々。女同士の会話内容を聞くなんて無粋よ」
腕の中から抜け出した彼女が、俺の掌に頬擦りをして愛らしく微笑んだ。
――透明な水に1滴、黒のインクを落とした時。それはどんな手段を用いても取り除く事は出来ないだろう。インクが広がり、水が濁っていくのをただ眺めている事しか出来ない。
それに似た、じわじわと胸の中に広がる言葉にし難い厭わしい感情。
“内緒話”なんてもの、今迄気にした事も無かった。自分が悪く言われていようが、好意を寄せられていようが、不思議と全く興味が湧かない。
しかし、エルに対しては違う。彼女の趣味、嗜好、人間関係から1日の出来事、会話した人物さえ、全て把握していたいと思う。
自分に何かを隠し事をするなど、どれ程些細な物であったとしても許してやる事は出来ない。それが仮に、ただの自身の幼馴染であり、エルと同性のマーシャとの会話だったとしても、だ。
渦巻く感情は止まる事無く、食い荒らす様に浸食していく。
ふと、視界の隅に入った赤い何か。
それに目を遣ると、茶のクラフト紙で包まれた1輪の赤薔薇だった。
「――あの薔薇は?」
マーシャが持ってきた物だろうか。いや、マーシャが彼女に花を贈るなんて事はあり得ない。マーシャは花に特別興味は無く、エルに贈りものをするとしたら菓子や紅茶の茶葉を用意するだろう。
「――街で、知らない男性がくれたの。とても紳士的で、優しい人」
彼女の言葉に、胸の中を渦巻く黒い感情が濃くなっていく。
マーシャを此処に来させたのは、エルを此処から出さない為でもあった。手錠で繋ぐよりも、其方の方が余程確実だと思ったからだ。
なのに、全く意味の無い結果に終わってしまったらしい。一体マーシャは何をしに此処へ来たのだと、沸き上がる苛立ちに溜息を吐く。
「その人ね、貴方の事を知っている様だったの」
自身の苛立ち等露知らず、彼女は軽やかな口調で言葉を続ける。
言葉にし難い、不穏な予感。
自身を知っている人物は限られる。それに、それをエルに話すという事はエルが俺の妻だと知っている人物という事だ。
あの男が、エルに接触したのだろうか。鼓動が、破裂しそうな程に早まる。
――いや、神経質になりすぎているだけだ。こんなにも早く、エルに接触できるとは思えない。
仕事上、今迄色々な人物と関わってきた。彼女の存在を知った人物が、もしかしたら依頼者の中に居たのかもしれない。あの、マリア・ウィルソンの様に。
それもあまり好ましい事では無いが、あの男に接触されるよりかはマシだ。
しかしどれ程自分にそう言い聞かせても鼓動は収まらない。
そして首を傾げた彼女が、自身が最も恐れていた名前を、言葉を口にした。
「――アルフレッド・ガーランドって名前の人、知ってる?」
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