語るに乏しい僕の祖父

藤崎 柚葉

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世界線α・被験者「藤城廣之」の受難

第一話 最期の一言

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 ──さ、帰りてえな。
 狭い介護ベッドの上、指先すらろくに動かせない脱力しきった身体からだ、もはや死人のように生気を失った祖父のうつろな目に僕が気を引かれていた時の事だった。横たわる祖父が口にした最期さいごの言葉は、今でも僕の耳に残っている。
 不思議だった。
 なぜならあの時、祖父がいたのは自宅だったからだ。けれども祖父は家に帰りたいと言った。その直後に一筋の涙を流し、それきり祖父の口はピクリとも動かなかった。
 僕が初めて見た、人が死ぬ瞬間だった。
「姉ちゃん、やっぱり変だよ」
「変って、何が?」
 僕と三つ違いの姉は洗面台の鏡の前で耳にピアスを装着しながら不機嫌そうに答えた。僕はそんな姉をじっと見つめながら口を開いた。
「だからさあ……」
「やだ! もしかして、この髪型が変なの?」
「いや、爺ちゃんの事だよ」
「はあ? なんで今?」
 見当違いな言葉に僕がため息をついたら、姉は鏡ごしに僕を睨みつけた。おいおい、僕の話をさえぎっておいてそれは理不尽すぎやしないか。
 そんな露骨ろこつに嫌な顔をしないでほしい。これだから姉には話しかけづらいんだ。
「というかさ、女の人って面倒くさいよね。化粧もして、髪もセットして、アクセサリーで着飾って。それで全体を見て、また手直しするだろう? どれだけ追加アイテムを増やす気なのさ」
「何よ、その言い方。それを言うなら男だって同じじゃない」
「あ、本当だ。でもさ、少なくても僕はそこまで気にしないよ。ファッションにさほど興味ないし。それにきっと、他人から見ても姉ちゃんの装備はもう十分だと思うよ」
「ファッションに興味のないやつの意見は参考にならないわよ」
 ごもっともな意見だ。思いがけず姉の冷たい言葉が僕の胸に突き刺さるが、僕は論点がずれた事に気付いて話を元に戻す。
「落ち着いてよ、姉ちゃん。僕は喧嘩したいわけじゃないんだ。ファッションの話じゃなくてさ、僕が話したいのはじいちゃんの事だよ」
「だから何が? 内容を言いなさないよ。それに先に吹っ掛けたのはあんたじゃない」
「ごめん、ごめん」
 はなから姉と喧嘩をする気は毛頭ない。僕は早々に両手を上げて降参ポーズをした。すると姉はすかさず髪をまたいじくり始める。あ、香水までしてら。僕は途端とたんに顔をしかめた。よりにもよって、僕の嫌いな甘ったるいフローラルな香りだったからだ。(ここでりずに、香水いらなくない? と言う勇気は僕にはない)
 姉は忙しそうにまだ手を動かしている。何を修正したのか、相変わらず僕にはその変化がちっとも分からない。  
 ちなみに僕は、姉に恋人がいない事を把握している。
「そういえば、姉ちゃんはどこに行くんだっけ?」
「友達と飲み会」
 おや? じゃあ、手直しはいらないのでは……?
 僕は思わず出かけたその疑問を無理やりゴクリと飲み下した。これ以上、余計な事を言うべきではないと、僕は十六年間の人生経験から学んでいる。けれども僕がよっぽど変な顔をしていたのか、姉の眉がつり上がる。僕はそれを見て、目の前の人物の怒りの沸点へ徐々に近付いている事を察した。ああ、やっちまった。
「あんたさ、いい加減に内容を言いなさいよ。それって重要? 今じゃないとだめ?」
「いや、そういう訳じゃないけど」
「だったら後にして! 邪魔なのよ!」
「はいはい。分かったよ」
 しびれを切らした姉が怒鳴ったので、さすがにリビングへ引き返す事にした。リビングに避難すると、呆れ顔をした母が洗った皿を拭きながら僕を待っていた。
廣之ひろゆき、あんた何してんのよ。音羽おとわの出かける邪魔しちゃだめじゃない」
「うん。僕も反省してるよ。まさか姉ちゃんがあんなに気合を入れてるとはね」
「あのねえ、女は何をするにも色々と準備が大変なのよ」
「女同士でも? 友達なのに?」
 あんたも彼女が出来れば分かるわよ、との母の小言を僕は華麗に受け流す。
 ふーん。我が姉の付き合いはそんなもんなのか。まあ確かに今回の事で、女の身支度がどれほど大変かが分かった。ついでに邪魔をすればこっぴどく叱られる事も学習できた。やっぱり、合戦前の人に横槍を入れちゃいけないんだ。とはいえ、洗面台の占拠はぜひともやめていただきたい。お陰で歯ブラシが取れなかったじゃないか。
「素直に立ち退き要求すれば良かった」
「あんたは全然反省していないわね」
 母の鋭い指摘は全く持ってその通りである。特に言い返すつもりはなかったので、僕は姉にするはずだった持論を、代わりに母に展開させる事にした。
「母さん、爺ちゃんの事だけどさ。爺ちゃんって本当に認知症だったの?」
「何よ、急に」
「だって何度考えてもおかしいよ。爺ちゃんとは普通に会話ができてたじゃないか。なのに……」
 ──さ、帰りてえな。
 あの一言はおかしい。僕は祖父と周囲の人間とで認識のズレがあった事を今でも妙に思っていた。
 祖父が望んだ通り、在宅医療での最期だった。核家族だった僕らはその日、祖母から連絡があって移動すると家族全員で祖父を看取った。それなのに、祖父は悲しそうに呟いたのだ。僕はそれが妙に引っ掛かっていた。
 生前、寝たきりになっても祖父とは何とか途切れ途切れの会話で意思疎通ができていた。けれど周りの大人たちは認知症だと決めつけて、祖父を遠巻きにしていた。
 たしかに時々、祖父は物忘れこそあったけれど、少なくとも僕とは会話が成立していた。だから、周りの大人たちが祖父を忌避きひする理由が僕にはさっぱり分からなかったのだ。
「……時々ね、会話が噛み合わなかったのよ。お婆さんとも、誰ともね」
 母は困ったような寂しそうな表情で、ぽつりとぽつりと話し出した。
「お婆さんとのなれそめだとか、家族旅行とか、友人と遊んだ日々だとか。大事な思い出から些細ささいな日常まで……記憶の擦れ違いって言うのかしら? そういうのが度々たびたびあったのよ」
「それって……例えばどんな?」
 僕はいつの間にか緊張していた。僕の知らない祖父が、誰かの記憶の中で確実に存在していたのだ。
 他の人と擦れ違っていた祖父との思い出の断片がようやく見つかる気がしたからか、僕は謎の高揚感に胸を膨らませていた。
「例えば、そうねえ……。ああ、ほら。庭に小さな池があったじゃない?」
「ああ、あったね。昔、姉ちゃんと夏に水遊びしてたっけ」
「いつだったか、お爺さんがお婆さんに言い出したらしいのよ。あそこで飼っていた金魚はどうしたって」
「え、それ本当?」
「本当の話よ」
 驚くしかなかった。僕の記憶だと、あの池で生き物を飼っていた記憶なんて全く無かったからだ。
「ていうか、金魚って池で飼うものなの? 金魚鉢とかじゃなくて?」
「そうよねえ。私もおかしいなって思ったわ。でも、お爺さんはその後も金魚を池で飼っていたって言い張ってたそうよ」
 なんでも僕と姉が毎年のように祭りで金魚を取って来ては嬉しそうに自慢してくるもんだから、祖父が張り切って水槽で金魚の世話をしたらしい。
 しまいには金魚が大きくなって水槽に入り切らないので、それで金魚を庭の池へ放ったそうだ。しかも、池で育てている内に金魚はいつの間にか鯉ぐらいの大きさまで成長してしまい、その立派な姿を見て、また僕たちが意気揚々と金魚を取ってきたそうだ。
 なぜだか僕もその辺の記憶は曖昧あいまいだ。
「そうなんだ……。え、じゃあ庭の桜の木も?」
「ええ。あれも椿だってずっと言い張ってたでしょう?」
 祖父母と僕ら家族は、入学式だとか七五三だとか、そういったイベントごとに、毎年写真を撮っていた。出来上がった写真を見ては「昔より背が伸びた」だとか「覇気のない締まり顔だ」とか他愛もない話をするのだ。それ自体はごく一般的な家庭と大差ないだろう。そして単純な僕は見事にその影響を受けてしまい、極々ごくごく自然と趣味が写真撮影になっていた。淡白な人生をつづる、僕の唯一の趣味である。
 その趣味の写真撮影を自宅の庭で行っていた時の事だ。祖父はなんの前触れも無しに、心底残念そうな声で言ったのだ。
 ──変わっちまったな……。この椿もよ。
 瞬間、祖父の手元から一房の花が零れ落ちた。祖父以外、その場にいた全員がひどく驚いた。誰が見てもそれは、桜の花だったからだ。
 ここまでの母の話からすると、やはり祖父は認知症のような気がする。落胆するしかなかった。僕を縛っていた違和感の正体に近付く気がしてたのに。けれど、祖父がただの認知症ではないと、どこか諦めきれない僕も確かに存在しているわけで。
「椿か……。ちょっと調べてみようかな」
「調べた所で意味が無いと思うわよ。紛れもなく、あれはずっと桜の木よ。事実でしかないんだもの」
「いいんだよ。僕が納得できればそれで」
 母に小言を挟められつつ、僕は自室へと退散する。
 こうして、僕は探偵気取りで祖父とみんなとの認識の違いについて探る事にした。
 結果、僕は想像を絶する真実にぶち当たる。それはガラスの破片に触れるよりも遙かに覚悟が必要な事実だった。繊細に扱わわなければ、世界のことわりすらも崩壊させてしまうほどのものだったのだ。
 まさか、そんな大事おおごとになるとは露知らず。この時の僕は何かを背負うなんて、そんな立派な覚悟は微塵みじんも無かった。ただ、「怠惰たいだな日常にひとあじ変化を起こそうかな」と、楽観的な考えに流されているだけだった。
 祖父の死から数日後。僕の青春は祖父に導かれるように、せわしなく刺激的なものへと急速に変わっていく。
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