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第一章
第七話 壺にはまる
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彼女の特徴は探せば他にもあるのに、どうしてか、視線がそこ一点に集中してしまう。
海野はベッドカーテンを開けてすぐに、心配そうな表情を浮かべて椅子から立ち上がった水野と目線が合った。
「海野」
水野に征服欲はないと分かっている。けれど、その一声は強烈に海野を惹きつけ、焚き付けた。込み上げてくる想いは不思議なもので、どうしても彼女に尽くしたくなる。同時に、彼女にだけは見限られたくないと強く思ってしまう。
海野は誘因こそ分かれど、その焦燥感を含んだ想いの起源が分からず、自分の感情を持て余していた。
「片山くん、どうだった? もう起きてる?」
海野に血が凍るような焦りが生まれた。浅瀬から深い海底に着地したように胸がざわつく。自分が片山にしていたことを、水野に見られていたのかと思ったのだ。
まさか、そんなはずがない。事件現場はカーテンで遮られていたし、水野は渡嶋との話に夢中だったのだから。
海野はいつかの過ちを繰り返す。嘘は彼の定石だ。
「ああ……片山くんならまだ寝ているよ。暑かったのか、額に汗を浮かべていたから拭いてきた。あと十五分ほどで目が覚めると思う。その頃には頭がスッキリしているさ」
「そっか……。もう少しかかるんだね」
水に濡れた青みを帯びた瞳が、切なく揺れる。そんな悲しい表情をさせたいわけじゃない。どうして、自分は水野のように誰かを喜ばせてあげられないんだろう。
海野は美術室で自分の絵を褒めてくれた水野に対して、大袈裟なくらい恩義を感じていた。水野が海野にかけた言葉は、クラスメイトに対するごく普通の距離感だったが、彼の受け取り方は違った。陰キャと揶揄され、誰も好んで物静かな自分に話しかけてこないのに、彼女は何の遠慮もなく声をかけてきたのだ。それがどれだけ嬉しかったか。
ましてや、荷物だけ抱えて何の特技もないと思っていた、こんな惨めな自分の才能を発見してくれた。水野は途方もない量の砂の中から、彩り豊かな魚が泳ぐ海の中から、底に沈んでいた何の変哲もないちっぽけな貝殻を拾ってくれた。それが宝物だと認めてくれたのだ。それにどれだけ生きる勇気をもらえたことか、彼女は知らない。
「ごめん──」
「そういや、海の子って、どういう意味なの?」
水野の飄々とした声が、海野の謝罪の言葉に被さる。
「……えっ?」
何を言われたのか認識するのに時間を要した。完全に予想外の質問に海野の目が点になる。
「それ、私も知りたいなあ」
ニヤニヤしながら、どこか楽しそうに笑う渡嶋は、白のクロップドパンツから伸びる長い脚を組む。彼女はこの場にいる誰よりもリラックスしていて、余裕がある。
「あ、やべ。凪美ちゃんもいたんだった」
「こらこら。あれだけ私と話しておいて、何で存在を忘れるのよ」
失言に気付いて口を手で覆う水野と、咎める気などさらさらなく、むしろ笑い話のように受け止めて茶化す渡嶋。水野は気楽な従姉妹のいつもと変わらない態度に安心したのか、誤魔化そうとするのを止めて開き直った。
「脳がバグったの。さっきまでここが学校って感じがしなかったけど、海野が戻ってきて、急に現実に戻された」
「なるほど。夢から醒めたのは片山くんじゃなくて、茉尋だったってことか」
「おー! うまいこと言うね、凪美ちゃん」
「拍手をありがとう。でも全然うまくないからね」
拍手は一人分だけ。それも本気ではない。渡嶋は水野に寂しい音をこれ以上出させぬよう、片手を軽く上げて制する。
「あのさ! さっきから真面目なのか、ふざけているのかどっちなの!?」
堪らず海野が叫んだ。もちろん、寝ている片山に配慮して声のボリュームは抑えている。
水野はわざと困ったように首の裏を掻いた。
「うーん、どっちもかな。海野が今以上に、片山くんに罪悪感を感じちゃっても困るし……」
「そうそう。海野くん、ここに来てからずっと身体が強張っているよね。息抜きは必要だぞ、少年。将来は私みたいに難治性の肩凝りに悩むことになるよ」
彼女たちは本質を見ようとしているのか、そうではないのか。前半はともかく、渡嶋の話は無視だ。
「そんな……。水野さん、僕に気を遣わなくても……」
「まあ、ぶっちゃけそれは建前なんだけどさ」
「えっ? あ、そうなの?」
思わぬ形で肩の力が抜ける。海野は未だに本来の水野のペースが掴めずにいた。
「うん。私、これが素だから。本来なら私も適当に緩く生きたいけど、あの自堕落クラスでは真面目にならざるを得ないんだよね。問題行動に巻き込まれたら収集がつかなくなるし、自分の高校受験にも響くからさ。だから、そういう意味でも変に目立つより、大人しくすることが最善なんだよ。本当はもっと別の理由があるけど……海野もそうでしょう?」
「あ……」
やはりそうだ。彼女の特徴的な目は、まだ何か不思議な力を秘めている。だから、自分は彼女に弱いのだ。
厳密に言えば、それだけが理由ではない。自分を押し殺してきた海野から見て、今の水野は堂々としていて、潔い。迷いなどないように見える。自分の心を貫く真っ直ぐな水野は、例え外面をよそ行き用に擬態していようが、この広い世界を真っ当に人間らしく生きているのだ。
彼女は自分のような内気な弱者を蔑んだり、取りこぼすことなどしない。むしろ、心の弱き者を自らの美しき闇に引き寄せ、魅了する。だが、彼女は彼らを自分に執着させずに、希望を抱かせたまま外へそっと逃がす。恐らく、彼女は最後まで無自覚だろう。水野は自由を体現したような存在だ。
「分かるよ。だって、私も海野と同じように不思議な能力があるから。穏便に生きるためには、平凡な人間になりきることが必要なんだよね。でもね、私は海野と違って、この怪力について何も知らない。力を制御する術は、何となくで身につけた不安定なものなの。だから、もし、海野が何か知っていたら教えてほしい」
向けられているのは、明るい未来を見据える懇願の瞳だった。堂々と、自分らしく生きたい。海野はその切なる願いが籠められた水野の瞳に吸い込まれる。
「私はちゃんとこの力と向き合いたいの。ここでみんなと生きていきたいから」
狭い穴の中に潜もうとする海野に、水野は道を示す。その果ては永遠に人目を忍ぶ隠れ家ではない。人里に戻るための避難場所──いや、訓練場とでも言うべきだろうか。彼女は秘密を抱えてまで、人と交流することを選んだのだ。
海野たちは同世代の子どもたちとは違う。人の子より特殊な能力が秀でた、仲間外れの子どもたちだ。よって、精神的にはまだ幼い。海野と水野の寂しい気持ちが、この世界を生き抜く勇気を得ようと、共鳴するのは必然だった。
「ねえ、海の子って、どういう意味なの?」
「……っ!」
他人からその名を呼ばれるのは初めてだ。身体中の血が沸騰するように熱い。自分の意思に関係なく、身体の内側から何か別の生命体が喜びに咽び泣き、叫んでいるようだった。
海野はいつもの癖で自分を抱きしめる。しかし、抵抗虚しく、得体の知れない別人格の感情が血を駆け巡り、暴れ出す。その感情は海などない、この室内でさざ波の音を生んだ。寄せては返す波の中、海野は薄れいく意識の隅で、知らない青年の穏やかな声を聞いた。
──やっと……やっと見つけた。同じ孤独を抱える、古き友よ。ああ、手繰り寄せた同族の絆の愛しきこと。今、再び君に触れよう。
「これは……タコ野郎とタップダンスってところかしら」
海野が感情の昂りによって発現させた海水の蛸足は、海面をバラバラに跳ねるように空中で踊る。その様子は、渡嶋の目にもはっきりと映っていた。意外にも、水野から美術準備室で何があったかを聞かされていない渡嶋は冷静だ。
「不思議……。あれだけ恐ろしいと思っていたのに、今はなぜか安心する……」
一本だけ水野に手を伸ばすようにやって来た蛸足は、彼女の眼前でピタリと動きを止める。といっても、先端だけウニョウニョと波打つような動きを止めただけで、他の足も含めて、海水の小さな渦の柱は顕在だ。
水野は小動物を撫でるように海野の蛸足にそっと触れる。途端に海野が背後で抱える蛸足は形を崩し、ただの水の塊として雑然とした順序で白タイル床に打ち付けられた。そして、跳ねた水滴も、動きが遅れて床に接したままの海水も、全てが一秒も待たずして一箇所に吸収され、大きな水の球体となる。それは、目を開けたまま意識を遠くに飛ばしている海野の背中に吸い込まれていった。
「今のは……?」
「あれは仲間との再会の合図よ。大丈夫。誰にも害はないから」
水野の疑問に答えたのは渡嶋だった。確かに、周りは何も変わっていない。湿気はおろか、水滴の一つすら、部屋のどこにも見当たらない。水野と海野の濡れた髪も、タオルもすっかり乾いていた。
「僕、今どうしてた?」
「やっぱり無意識だったのね。今、海野くんは仲間との接触で本来の力を取り戻したところよ。これでもう、異能の力が感情の起伏によって暴走することはないわ」
自身の体調の変化を感じ取ったのだろう。自分の両手を不安そうに見比べる海野も気になるところだが、それよりも淡々と説明する従姉妹に対して疑問が尽きない。なぜ彼女はここまで平然としていられるのか。それに、その確信を持った知識の量はどこで得たものなのか。
「凪美ちゃん、どうして知っているの?」
水野が恐れることなく渡嶋に問う。
渡嶋は表情を変えず、組んでいた脚を優雅な動作で崩し、内履きを白いタイルにつけた。
「私は前の世代の『海の子』なの」
絶句する子どもたちを前にして、渡嶋は床の上にある見えない水面をつま先でなぞる。脚を軽くバタつかせれば、タタンと軽快な音が鳴るし、きちんと床の感触があった。
今なら尾ひれを脚に変えた人魚姫の気持ちが分かる。あの頃の海が懐かしくて、恋しい。過去に戻りたいと思う時もあるが、あいにく渡嶋はもう泳げない。この街の海を見守ることしかできないのだ。せめてもの救いは、今という未来が、過去と繫がっていたことだけだ。
「お帰りなさい。私たちの海の子」
次世代の若者もようやく仲間に出会えたのか。
渡嶋は目の前の奇跡と、過去に体験した奇妙な運命の記憶を重ね合わせ、涙ぐましく微笑んだ。
海野はベッドカーテンを開けてすぐに、心配そうな表情を浮かべて椅子から立ち上がった水野と目線が合った。
「海野」
水野に征服欲はないと分かっている。けれど、その一声は強烈に海野を惹きつけ、焚き付けた。込み上げてくる想いは不思議なもので、どうしても彼女に尽くしたくなる。同時に、彼女にだけは見限られたくないと強く思ってしまう。
海野は誘因こそ分かれど、その焦燥感を含んだ想いの起源が分からず、自分の感情を持て余していた。
「片山くん、どうだった? もう起きてる?」
海野に血が凍るような焦りが生まれた。浅瀬から深い海底に着地したように胸がざわつく。自分が片山にしていたことを、水野に見られていたのかと思ったのだ。
まさか、そんなはずがない。事件現場はカーテンで遮られていたし、水野は渡嶋との話に夢中だったのだから。
海野はいつかの過ちを繰り返す。嘘は彼の定石だ。
「ああ……片山くんならまだ寝ているよ。暑かったのか、額に汗を浮かべていたから拭いてきた。あと十五分ほどで目が覚めると思う。その頃には頭がスッキリしているさ」
「そっか……。もう少しかかるんだね」
水に濡れた青みを帯びた瞳が、切なく揺れる。そんな悲しい表情をさせたいわけじゃない。どうして、自分は水野のように誰かを喜ばせてあげられないんだろう。
海野は美術室で自分の絵を褒めてくれた水野に対して、大袈裟なくらい恩義を感じていた。水野が海野にかけた言葉は、クラスメイトに対するごく普通の距離感だったが、彼の受け取り方は違った。陰キャと揶揄され、誰も好んで物静かな自分に話しかけてこないのに、彼女は何の遠慮もなく声をかけてきたのだ。それがどれだけ嬉しかったか。
ましてや、荷物だけ抱えて何の特技もないと思っていた、こんな惨めな自分の才能を発見してくれた。水野は途方もない量の砂の中から、彩り豊かな魚が泳ぐ海の中から、底に沈んでいた何の変哲もないちっぽけな貝殻を拾ってくれた。それが宝物だと認めてくれたのだ。それにどれだけ生きる勇気をもらえたことか、彼女は知らない。
「ごめん──」
「そういや、海の子って、どういう意味なの?」
水野の飄々とした声が、海野の謝罪の言葉に被さる。
「……えっ?」
何を言われたのか認識するのに時間を要した。完全に予想外の質問に海野の目が点になる。
「それ、私も知りたいなあ」
ニヤニヤしながら、どこか楽しそうに笑う渡嶋は、白のクロップドパンツから伸びる長い脚を組む。彼女はこの場にいる誰よりもリラックスしていて、余裕がある。
「あ、やべ。凪美ちゃんもいたんだった」
「こらこら。あれだけ私と話しておいて、何で存在を忘れるのよ」
失言に気付いて口を手で覆う水野と、咎める気などさらさらなく、むしろ笑い話のように受け止めて茶化す渡嶋。水野は気楽な従姉妹のいつもと変わらない態度に安心したのか、誤魔化そうとするのを止めて開き直った。
「脳がバグったの。さっきまでここが学校って感じがしなかったけど、海野が戻ってきて、急に現実に戻された」
「なるほど。夢から醒めたのは片山くんじゃなくて、茉尋だったってことか」
「おー! うまいこと言うね、凪美ちゃん」
「拍手をありがとう。でも全然うまくないからね」
拍手は一人分だけ。それも本気ではない。渡嶋は水野に寂しい音をこれ以上出させぬよう、片手を軽く上げて制する。
「あのさ! さっきから真面目なのか、ふざけているのかどっちなの!?」
堪らず海野が叫んだ。もちろん、寝ている片山に配慮して声のボリュームは抑えている。
水野はわざと困ったように首の裏を掻いた。
「うーん、どっちもかな。海野が今以上に、片山くんに罪悪感を感じちゃっても困るし……」
「そうそう。海野くん、ここに来てからずっと身体が強張っているよね。息抜きは必要だぞ、少年。将来は私みたいに難治性の肩凝りに悩むことになるよ」
彼女たちは本質を見ようとしているのか、そうではないのか。前半はともかく、渡嶋の話は無視だ。
「そんな……。水野さん、僕に気を遣わなくても……」
「まあ、ぶっちゃけそれは建前なんだけどさ」
「えっ? あ、そうなの?」
思わぬ形で肩の力が抜ける。海野は未だに本来の水野のペースが掴めずにいた。
「うん。私、これが素だから。本来なら私も適当に緩く生きたいけど、あの自堕落クラスでは真面目にならざるを得ないんだよね。問題行動に巻き込まれたら収集がつかなくなるし、自分の高校受験にも響くからさ。だから、そういう意味でも変に目立つより、大人しくすることが最善なんだよ。本当はもっと別の理由があるけど……海野もそうでしょう?」
「あ……」
やはりそうだ。彼女の特徴的な目は、まだ何か不思議な力を秘めている。だから、自分は彼女に弱いのだ。
厳密に言えば、それだけが理由ではない。自分を押し殺してきた海野から見て、今の水野は堂々としていて、潔い。迷いなどないように見える。自分の心を貫く真っ直ぐな水野は、例え外面をよそ行き用に擬態していようが、この広い世界を真っ当に人間らしく生きているのだ。
彼女は自分のような内気な弱者を蔑んだり、取りこぼすことなどしない。むしろ、心の弱き者を自らの美しき闇に引き寄せ、魅了する。だが、彼女は彼らを自分に執着させずに、希望を抱かせたまま外へそっと逃がす。恐らく、彼女は最後まで無自覚だろう。水野は自由を体現したような存在だ。
「分かるよ。だって、私も海野と同じように不思議な能力があるから。穏便に生きるためには、平凡な人間になりきることが必要なんだよね。でもね、私は海野と違って、この怪力について何も知らない。力を制御する術は、何となくで身につけた不安定なものなの。だから、もし、海野が何か知っていたら教えてほしい」
向けられているのは、明るい未来を見据える懇願の瞳だった。堂々と、自分らしく生きたい。海野はその切なる願いが籠められた水野の瞳に吸い込まれる。
「私はちゃんとこの力と向き合いたいの。ここでみんなと生きていきたいから」
狭い穴の中に潜もうとする海野に、水野は道を示す。その果ては永遠に人目を忍ぶ隠れ家ではない。人里に戻るための避難場所──いや、訓練場とでも言うべきだろうか。彼女は秘密を抱えてまで、人と交流することを選んだのだ。
海野たちは同世代の子どもたちとは違う。人の子より特殊な能力が秀でた、仲間外れの子どもたちだ。よって、精神的にはまだ幼い。海野と水野の寂しい気持ちが、この世界を生き抜く勇気を得ようと、共鳴するのは必然だった。
「ねえ、海の子って、どういう意味なの?」
「……っ!」
他人からその名を呼ばれるのは初めてだ。身体中の血が沸騰するように熱い。自分の意思に関係なく、身体の内側から何か別の生命体が喜びに咽び泣き、叫んでいるようだった。
海野はいつもの癖で自分を抱きしめる。しかし、抵抗虚しく、得体の知れない別人格の感情が血を駆け巡り、暴れ出す。その感情は海などない、この室内でさざ波の音を生んだ。寄せては返す波の中、海野は薄れいく意識の隅で、知らない青年の穏やかな声を聞いた。
──やっと……やっと見つけた。同じ孤独を抱える、古き友よ。ああ、手繰り寄せた同族の絆の愛しきこと。今、再び君に触れよう。
「これは……タコ野郎とタップダンスってところかしら」
海野が感情の昂りによって発現させた海水の蛸足は、海面をバラバラに跳ねるように空中で踊る。その様子は、渡嶋の目にもはっきりと映っていた。意外にも、水野から美術準備室で何があったかを聞かされていない渡嶋は冷静だ。
「不思議……。あれだけ恐ろしいと思っていたのに、今はなぜか安心する……」
一本だけ水野に手を伸ばすようにやって来た蛸足は、彼女の眼前でピタリと動きを止める。といっても、先端だけウニョウニョと波打つような動きを止めただけで、他の足も含めて、海水の小さな渦の柱は顕在だ。
水野は小動物を撫でるように海野の蛸足にそっと触れる。途端に海野が背後で抱える蛸足は形を崩し、ただの水の塊として雑然とした順序で白タイル床に打ち付けられた。そして、跳ねた水滴も、動きが遅れて床に接したままの海水も、全てが一秒も待たずして一箇所に吸収され、大きな水の球体となる。それは、目を開けたまま意識を遠くに飛ばしている海野の背中に吸い込まれていった。
「今のは……?」
「あれは仲間との再会の合図よ。大丈夫。誰にも害はないから」
水野の疑問に答えたのは渡嶋だった。確かに、周りは何も変わっていない。湿気はおろか、水滴の一つすら、部屋のどこにも見当たらない。水野と海野の濡れた髪も、タオルもすっかり乾いていた。
「僕、今どうしてた?」
「やっぱり無意識だったのね。今、海野くんは仲間との接触で本来の力を取り戻したところよ。これでもう、異能の力が感情の起伏によって暴走することはないわ」
自身の体調の変化を感じ取ったのだろう。自分の両手を不安そうに見比べる海野も気になるところだが、それよりも淡々と説明する従姉妹に対して疑問が尽きない。なぜ彼女はここまで平然としていられるのか。それに、その確信を持った知識の量はどこで得たものなのか。
「凪美ちゃん、どうして知っているの?」
水野が恐れることなく渡嶋に問う。
渡嶋は表情を変えず、組んでいた脚を優雅な動作で崩し、内履きを白いタイルにつけた。
「私は前の世代の『海の子』なの」
絶句する子どもたちを前にして、渡嶋は床の上にある見えない水面をつま先でなぞる。脚を軽くバタつかせれば、タタンと軽快な音が鳴るし、きちんと床の感触があった。
今なら尾ひれを脚に変えた人魚姫の気持ちが分かる。あの頃の海が懐かしくて、恋しい。過去に戻りたいと思う時もあるが、あいにく渡嶋はもう泳げない。この街の海を見守ることしかできないのだ。せめてもの救いは、今という未来が、過去と繫がっていたことだけだ。
「お帰りなさい。私たちの海の子」
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