全部、水のせい

藤崎 柚葉

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第一章

第九話 憧れは近く、恋は遠い

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 なぜ渡嶋は今日まで海の子について黙っていたのだろうか。新年や盆は、必ず祖父母の家に親族のほぼ全員が揃うので、渡嶋が水野だけに打ち明けるタイミングならいくらでもあったはずだ。先ほどのやり取りで勘付いたが、彼女は話す頃合いを見計らっていたように思える。
 水野は実の姉妹のように仲良くしてくれる従姉妹の目的が分からず、ひとり頭を悩ます。さすがに何でも知っているような仲ではないが、どうにも引っかかるものがあるのだ。
「水野さんはさ、何で片山くんを心配してあげられるの?」
 教室までの道すがら、海野はずっと疑問に思っていたことをやっとか口にした。海野も水野に話すタイミングを探っていたのだ。
「そりゃあ……って、それだよ海野。私を助けるためとはいえ、暴力は駄目だよ。私、片山くんが死んじゃうんじゃないかと思って怖かったんだから」
 真っ白な階段の踊り場で、水野と海野は向き合う。
 水野は最初こそ当時の状況を思い出して軽く頬を赤らめたものの、海野の顔を見てすぐに表情を険しいものに変えた。その剣幕に押され、海野はたじろぐ。
 水野の瞳にじっと見つめられるのは苦手だ。彼女に気がなくても、衝動的にとんでもなく馬鹿げた劣情を抱いてしまいそうになる。それでは片山の二の舞だ。彼女のためにも、あんな事態は避けなければならない。
「そんなこと言われても……。あの時、片山くんは完全に暴走していたじゃないか。体格の良い運動部でもない僕が、他にどうやって止めれば良かったの?」
「それは……。私が拒めば良かったのか……」
「えっ? 何て?」
 肝心なことは嘘をつくようになってしまった海野だが、元は良くも悪くも実直な人物だ。相手が余程の乱暴者でない限り、些細な話でも真摯に向き合う。
 水野は聞き返さないでほしいと思ったが、後半は消え入りそうなほど小さな声だったので仕方ない。
「……私、夢中だった」
 水野は自分も欲に溺れた恥ずかしさで、顔を中心にカッと急激に体温が上がった。同時に激しい後悔に襲われる。
 片山が情欲に走ったことで、海野は片山が乱暴を働いたと思い込み、彼に激しい怒りを表した。あの場を収める最善の方法は、最悪の結果を引き起こした水野自身が何とかすることだったのだ。
 自分の行動が原因で、クラスメイトの間で余計ないざこざを引き起こしてしまった。ふたりに対してせめてもの償いで、水野はあの時の気持ちを白状する。
「実はさ、私、片山くんに迫られて嫌じゃなかったの。なんなら途中から受け入れてた」
「はあ? 水野さん、に無理矢理襲われていたんじゃなかったの?」
 海野は心外だとでも言いたそうな、それでいてますます訳が分からないといったような表情で、眉間に皺を寄せた。
 それに対して、言い訳が場違いすぎて苦しいと思っている水野は目線を右往左往に泳がす。その頬は未だに赤く染まっている。
「いや、最初はそんな感じだけど……。ちょっと違うと言いますか……」
「まさか、流されたの?」
 水野は小さく頷く。
「どうしてさ……。あ、分かった。彼が怖くて動けなかったんだろう?」
「ううん。恐怖より、もっと強い感情があったの」
 海野は水野の複雑な乙女心が心底理解できないといった感じで、不快感を顔いっぱいに表す。
 水野はまだ呑気に、海野のこんな歪んだ顔は見たことがないと思っていた。
「強い感情? 僕にはよく分からないよ。良かったら教えて」
「その、可愛いって言われたのが嬉しくて……」
「それ……で……。あれ? もしかして、水野さんって、片山くんが好きなの?」
「うん。そうだと思ってた」
「思ってた? 何で過去形?」
 さきほどの気まずそうな態度から一変し、なぜか清々しい表情の水野のことがますます分からない。
 恋愛感情があったからこそ、襲ってきた男を拒めなかったのならまだ理屈は通るが、彼女はそうではないと言う。
「キスされて思ったの。もういいやって」
「何が? どういうこと?」
「私、単純にキスがどんなものか知りたかっただけみたい」
「ぶっ!」
 あらぬ角度からの本音に耐えきれず、海野は咄嗟に横を向いて吹き出す。
 彼は水野のことも、自分の行動もはしたないなどと思っていられなかった。思春期特有の悩ましい思いを抱える少年には、彼女の言動が衝撃的だったのだ。
 キスへの好奇心もさることながら、まさかあの数分で口付けを味わい尽くしたとでも言っているのか。同じ歳の女子が、恋愛経験豊富な大人の女性並みにキスに飽きたと言ってのけたのも驚きだが、片山もその歳で彼女を満足させたとは信じられない。というより、信じたくない。なんとなく。
「あのさ、私を誰とでもキスできるような軽い女だと思わないでね。キスの相手は、私がちゃんと好きになった人じゃなきゃ嫌だから」
「だとしても、そういうことをあけすけに言うのはどうかと思うよ。もうちょっと恥じらってくれないかな」
「海野にキス現場を見られたんだし、今更じゃない? 色々と隠す方が面倒くさいよ。全部本当のことだし」
「君って人は……」
 水野が駄々っ子のように軽く頬を膨らませると、片山は重い前髪をくしゃりと掴んで掻き上げた。
 さっきまで恥ずかしそうにしていたくせに、もう堂々としている。彼女が吹っ切れるポイントがいまいち分からない。
「何さ。海野だって、恋とかキスに年相応の興味はあるでしょう?」
「いや、僕はないよ……」
「本当に? 私は両方知らなったから、知りたかったよ。クラスの子が恋バナしているの、ずっと羨ましかったんだ」
 憧れは手が届いた瞬間に幻想の殻を破り、現実の姿があらわになる。その気持ちが本物だったかどうかは、後になってから知るものだ。
「でね、私、いざ自分がキスされたら、気持ちよくてつい『もっと』って思っちゃった。あんな気持ち初めて。でも、海野が美術準備室に現れて片山くんと離れたら、その欲望も、好意も、不思議と全部消えたの。何でだろう?」
「僕に聞かれても……。知らないよ」
 キスの現場を見てしまったからこそ、勘弁してくれと思う。クラスメイトの、しかも異性の性体験なんて生々しくて聞いていられない。
 海野はテクニックを含む性の知識を、根津を始めとする活発なクラスメイトほど持ち合わせておらず、もちろん異性との経験もない。水野は気持ちいいと言っていたが、キスをすると自分はどんな感覚になるのか。すでに好奇心が湧きつつある海野は、そんな疑問を理性を総動員して押し込める。それは無垢な少年が失敗を恐れ、無意識の内に邪念を払おうとした結果だった。
「心の底から好きだと思ってたんだけどなあ……」
 水野は少し寂しそうな顔で階段の踊り場に腰を下ろした。釣られるように海野も少し間を空けて隣に座る。
「違ったの?」
「うん。そうみたい。初恋が報われないって、事実だね」
 今だけは、どうか、から笑いする彼女を外界から閉ざされた世界に留めておいてほしい。
 どうせ片山は保健室から教室まで一番近い、校舎の真ん中の階段を通るはずだ。ここは人通りが少ない校舎の端の階段で、教室までは遠回りのルートにあたる。選んだのは水野だ。理由は知らない。ただ、ここは穴場だし、もう給食の時間を知らせるチャイムは鳴った。まだふたりで話していても邪魔者は来ないだろう。
 海野はまだ水野の話に付き合ってあげたいと思っていた。
「私ね、本当にファーストキスの相手が彼で良かったと思ってる。他の誰かじゃ意味ないの。片山くんじゃなきゃ……。顔とか、性格とか、清潔感とかは大事だからさ。でも、冷静になってキスがこんなものかって分かったら、全て新鮮味がなくなっちゃって。私、飽き性なんだ」
「いや、そういう問題じゃないと思うよ」
「イケメンは見ていて飽きないね。アイドルの歌やダンスには、すぐに飽きるけど」
「だからそうじゃなくて!! 水野さんはもっと自分を大切にしようよ!」
 海野は彼女を諌めるつもりで小さな肩に手を置く。
 容姿の良い男に弱く、あけすけな水野が、今後もいい加減な男が作った流れに身を任せないか心配だった。だが、残念ながら、海野の親切心は水野にちっとも届いていない。
 水野は自分より少しだけ背が高い海野を、初めて真正面から間近で見つめることになり、面食いらしい正直な感想を抱く。
「おお、意外と綺麗な顔……。って、私、別に自分を卑下しているわけじゃないよ?」
「君はそう思っているかもしれないけど、僕は君が心配なんだ」
 今度こそ海野は水野のペースに乱されなかった。
「水野さんはすでに十分傷付いているんだよ。無自覚みたいだけど。君はあのキスで、自分が最初から片山くんを諦めていたことに気付いてしまったんだ。彼は単に憧れの人だった。恋人のように触れ合ってみて、恋心を否定されたんだよ。水野さんは初めて抱いた気持ちを失いたくないんだろう? それが自分の全てだと思うくらい、彼に憧れていた時の感情や、彼に優しくしてもらった時の思い出を丸ごと愛していたから」
「海野……。さっき『知らないよ』って言ってたじゃんか」
「ごめん。あれは半分本当で、半分は嘘。僕の能力で、触手に触れた相手の本音が僕だけに伝わるんだ。保健室で君に触れた時、心の奥で戸惑っている君の気持ちが流れてきたよ」
「何それ。ずるいよ。じゃあ、今も私の気持ちが分かるの? 私がここにいる理由も?」
「今は分からない。君に触れているのは触手じゃなくて、ただの僕の手だから」
 海野は心が震え、実はショックで泣きそうな水野の肩から手を引く。これで人肌に触れたいと願った、恋に敗れたか弱い少女の望みを少しは叶えられただろう。
「水野さんは強がりだね。だからさ、君が傷付けられたら、僕だって悲しいんだよ」
 マッシュヘアーの重ための前髪から覗く、小さめな垂れ目が伏せられる。
 水野には、彼の長い睫毛が小さく震えているように見えた。
「何で海野が悲しくなるの?」
「そりゃあ……。何でかな?」
「私も知らんがな」
 ふたりして互いの感情も、自分自身の感情もよく分かっていない。その現状が面白くなってきて、水野は込み上げてくる笑いの波を素直に受け入れた。元気を取り戻した水野を見て、海野も微笑みを浮かべた。
 上の階から、給食の準備を進める下級生たちの楽しそうな声が聞こえてくる。一方、一筋の光が入る階段の踊り場では、一組の少年少女の可愛らしい笑い声が響いていた。
「海野って面白いね。最後はよく分からなかったけど、心配してくれてありがとう。私、こんなきっかけでも、海野と話ができて嬉しいよ」
「……君はそういうところが厄介だ」
「そう? そういえば、さっき気付いたけど、海野は顔と性格が可愛いよね」
「嬉しくない」
 顔を下から覗こうとする水野を振り切るため、海野は立ち上がり階段を先に上がる。
 水野は意外とすぐにムキになる海野をからかえて満足したのか、それとも彼の耳が赤くなっていたことに気付いて楽しくなったのか。保健室で異能の秘密の糸口を掴んだまま、初めての男女の友情を楽しんでいた。
 階段を駆け上がる足取りは、以前よりずっと軽い。なんだかんだで、人魚姫は地上という楽園を満喫していた。

 *

 給食の時間が終わる頃、昼休みに差し掛かったところで、二年四組の教室では事件が起きた。
 水野と海野も教室に戻って給食を食べ終えた頃、意識を失っていた片山がようやく教室戻ってきたのだ。
 現れた片山の元に真っ先に駆け寄ったのは、片山の恋人である金井千彩姫かないちあきだった。
優磨ゆうまくんが倒れたって聞いて、私、心配で……」
 さすが学年のマドンナだ。涙を浮かべる姿は可憐で儚く、庇護欲を誘う。これに心が揺れない男はいない。現に根津は「千彩姫ちゃんの泣き顔、可愛くて最高!」と大声で言ったために、複数の女子から頭や背中を叩かれている。(彼はその仕打ちにも喜んでいた。)
「なあ、金井さんは、どうして俺をそんなに心配してくれるんだ?」
 途端に教室が静まり返る。
 片山はこれ以上ないほど曇りなき眼を金井に向けていた。
「えっ? ……冗談よね? 彼女でしょう?」
「誰が?」
「私が」
「誰の?」
「優磨くんの!」
 教室が少しざわつき始めた。異変に気付いていないのは、当事者である片山だけだ。
 この事態を他人事として聞き耳を立てていた水野と海野も、さすがに焦り、学年一の美男美女カップルの様子を固唾を呑んで見守る。
 片山の変化に心当たりがあるのは、水野と海野だけだ。
「ねえ! ちょっと待ってよ。私たち、付き合っているでしょう!?」
「え……? マジで? そうなの?」
 金井のヒステリックな声よりも、片山の発言で教室が絶対零度なみに冷え込んだ。
 片山は本気だ。もちろん、金井も。
「ごめん。いつから?」
「……もういい。さようなら」
「た、大変だー!! 片山が金井を堂々と振ったぞ!」
 教室の一角で慌てふためくというより、完全に面白がって触れ回るのは根津の十八番だ。
 金井は取り巻きの女子を置き去りにし、踵を返して教室の出入り口に向かう。
「お前すげえな! よっ! 美波中で一番の色男!!」
「やめろよ。俺、本当に身に覚えがないんだ」
 肩に腕を回して絡んでくる根津に、片山は迷惑そうな顔で慣れたようにその腕を払う。
 周りはとぼけていない片山にも、悪ふざけの度が過ぎている根津にも、信じられないといったような驚いた顔を向けたり、本人に聞こえないようにグループ内で小声でふたりを非難していた。
「そんな……」
 自分のことのようにショック受けているのは水野だ。水野は片山と金井の破局を決して望んでいなかった。悔しい気持ちはあっても、ふたりのとても幸せそうな姿を見て諦めていたのだ。気持ちが再燃したのは、片山とキスをしたあの一瞬だけだった。
 水野は思い出したように、離れた席に座る海野を目で追う。
 海野はすでに片山たちから目を逸らしていた。
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