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第一章
第十一話 あざとさと我儘の権化
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「茉尋ちゃん」
ころっと転がした鈴のような澄んだ声を発した、見目麗しい金井によって空気が変わる。
彼女は顔を曇らせた海野のために話題を変えようとしたのか、それとも単に本題に戻そうとしたのか。不意に金井が右手で水野の左手を握った。
「私はあなたが同じ海の子だから惹かれたわけじゃないよ。茉尋ちゃんを好きになったきっかけが何かははっきりと思い出せないし、私の身体中を満たすこの気持ちの重さをまだうまく伝えられないけど、これだけは言わせて。茉尋ちゃんは優磨くんに選ばれなかったんじゃない。私が彼にあなたを選ばせなかったの」
背筋がぞくっと強張る。水野は金井の狂気を滲ませた瞳に気圧された。
なんて自分勝手な女だ。しかし、自信家の彼女がここまで自分に傾倒している。感じたことのない優越感に水野は戸惑うどころか、こんな感情を抱かせた彼女に畏れを抱いた。
金井に傷つけられたプライドが理解し難いスピードで回復していく。心はじくじく痛むのに、どうしてか彼女を憎めない。これが彼女の魅力だ。金井は人を手玉に取るのがうまい。どうりでみんな金井に弱いわけだ。
金井の我儘は命令ではない。ただの希望だが、それは強力な引力を有し、油断すると金井に全神経が集中してしまう。彼女はこちらに断る意志を持たせないのだ。これが金井の海の子としての能力なのだろうか。
今も彼女の表情にちらりと陰りが見られるだけで、罪悪感を抱くくらいには水野も絆されている。
「冷たくしすぎたせいかな……。私が優磨くんの心を完全に奪ったと思っていたけど、違ったみたい。彼は隣の席の茉尋ちゃんを女の子として、ちゃんと意識していたよ。時々ほんのり好意を滲ませたような優しい視線を向けていたもの」
金井は水野の手を握ったまま、艶のある妖しい笑みを消した。
「だから、茉尋ちゃんは自分が誰からも愛されない存在だなんて思わないでね」
「それ、どういう意味? 私、そんな極端なこと考えてないよ」
話の前半はともかく、後半の内容が不自然だ。実際、水野はそこまで卑屈になっていない。今のはまるで水野に誰かを重ねて見ているような発言にも思える。
金井の瞳は水野に真っすぐに向けられていたが、一瞬だけ横に泳ぐ。本当に束の間の変化だった。再び向けられた焦げ茶の瞳からは何も窺い知ることはできない。
金井は何事もなかったかのように、花のような笑顔を見せた。
「私が言いたかったのは、私も茉尋ちゃんが大好きだよってこと!」
「何でそうなっちゃったの?」
勝手に人の気持ちを決めつけないでほしい。自分本位にも程がある。
変な流れでの金井の告白のせいで、水野の真面目な思考は中断された。このままだと金井に振り回される一方だ。こちらが会話の主導権を握らなければ、体力と気力が削がれてしまう。
ここは話が通じる上に、金井の扱い方が分かっていそうな海野を頼った方がいいだろう。
「ヘイ、海野。ヘルプ、通訳」
「君、僕をロボットとかAIだと思ってない?」
「ずるい! 海野ばかりに構わないでよ」
海野に助けを求めた途端にこれだ。金井に左上腕ごと抱え込まれる。彼女がしっかり腕に巻きついて上から押さえつけているせいか、足も重くて動かしづらい。こちらが背後の引き戸に近付く素振りをちらっとでも見せれば、すかさず反対側に引っ張られる。自慢の怪力を発揮してもいいが、女子相手に乱暴はしたくない。
健康的な柔らかい身体によって退路を塞がれた。何の花の香りだろうか。金井からいい匂いがする。可愛い女子としてアピールも忘れない金井は抜け目がない。
「茉尋ちゃん、私のこと嫌いなの?」
「いや、嫌いじゃないけど……。ちょっと強引な性格が合わないかもしれないなーって」
確信を持って言える。この様子だと、金井は自分から離れる気など一切ない。
「良かった! 嫌いじゃないなら、好きってことだね!」
「全然良くないね! さっきから都合良く解釈しすぎ──」
ここで誰も予想していなかった展開になる。ガチャッ、と開かないはずの扉が開く音がしたのだ。
「……修羅場?」
三人がいる空き教室にやって来たのは、寝心地の良い隠れスポットを探して校内を彷徨う、居眠り小僧の滝浦維月だった。彼は授業中に騒ぐクラスメイトたちを全く意に介さず、机に突っ伏して惰眠を貪るような強者であり、教師泣かせの問題児のひとりでもあった。彼が同学年の問題児の代表格である根津と大きく違う点は、滝浦は誰かを巻き込んで行動するのではなく、放浪癖がある一匹狼タイプだということだ。
ちなみに、彼も茉尋が脳内でしたためている隠れイケメンリストに載っている。滝浦はふわふわの緩い天然パーマが一番の特徴で、他に太眉と垂れ目の下の泣きぼくろが印象的だった。同級生の男子とは思えないほど品がある気怠げな色気は、寝起き直後にしか見られないため、茉尋はクラスメイトの特権として享楽し、マイナスイオンを放出する滝浦に感謝を込めて心の中で合掌していた。授業中は斜め後ろの席から彼の幼い寝顔をこっそり見ては、母親のような気持ちで癒されている。滝浦が授業時間になっても姿を現さない時は、勉強のモチベーション低下に影響を及ぼすほど、水野は滝浦の隠れファンであった。(なお、水野は公共の場で黄色い声を上げるタイプではない。)
休み時間にはどこかに出掛け、出没スポットも把握させないようなレアキャラ扱いの滝浦が、なぜか鍵がかかっていたはずのこの空き教室に現れたのだ。水野たち三人が驚かないはずがなかった。
「それ」
何を言い出すのやら。滝浦は眉一つ動かさず、水野と金井を指さす。
「金井さんが海野の指示で、水野さんを手籠めにしてるとこ?」
「とんでもない誤解だよ!」
吠えたのは水野だ。クラス内でも会話が少ないことで有名な滝浦との初めての会話がこれだとは。可愛さの欠片もない態度を取ってしまい、水野は速攻で後悔した。
「ふーん……。俺、邪魔だね」
「いや、絶妙なタイミングだったよ」
「そっか」
自分から聞いておいて大して興味なさそうに話す滝浦と、素っ気なく返す冷静な海野。気まずい関係でもないが、なぜかお互い目を合わせない。端から見ると、会話が成り立っているように思えるのだが、水野はふたりの組み合わせに違和感しかなかった。まるでそれぞれ独り言を言っているだけのように愛想はなくて、会話の矢印が相手に向かっていないのだ。
滝浦は水野の訝しげな視線を感じたのか、彼女を一瞥すると、すぐに三人に背を向ける。
「なんか楽しそうだし、俺は別の場所で寝るよ。じゃあね」
「えっ? 待って──」
水野が伸ばした手は空を切る。
彼の登場に関して疑問は尽きない。滝浦は引き戸の向こうで、どこまで自分たちの話を聞いていたのだろうか。まあまあ騒いでいたので、三人の話し声が聞こえないはずがないのだ。そして、水野が金井の対応に困っていたあの絶妙なタイミングで、どうして入室しようと決断したのか。そもそも彼はどうやって鍵を開けたのだろう。
「騒がしかったのかな? 滝浦くんはこの環境が気に入らなかったんだね」
すぐそばで金井の声が聞こえる。水野は金井を腕から引き剥がすのを諦めていた。
それよりも金井に言いたいことがある。
「ねえ、何かとんでもない誤解をされたような気がするんだけど。修羅場とか、手籠めって言ってたのに『楽しそう』ってどういうこと? リンチより厄介な誤解だよ」
金井は滝浦に水野との仲を誤解をされようが特に気にしていないようだが、水野は違う。ぜひとも美丈夫の滝浦には、認識を正してもらいたいものだ。水野が自信を持って言えるのは、金井にいかがわしいことはしていないし、されてもいないということだ。彼女が相手ならば、自分は清らかな身であると言える。
「放っておいていいんじゃない? 彼、憶測だけで変な噂を言いふらすタイプじゃないでしょ。滝浦くんはわざわざ他人との諍いのために動かないし。彼は基本、食べるか寝るかの二択さ」
答えたのは、空き教室の扉の鍵をかけ直していた海野だった。
滝浦が馬鹿にされているが、イケメンの味方である水野でもフォローのしようがない。選択肢に勉強が入っていないところが滝浦くんっぽい、と水野も率直に思ったからだ。
「あ、それにバスケと水泳も追加で。滝浦くん、興味ある遊びや勝負事には稀に本気を出すみたいだから」
滝浦は普段は脱力気味で飄々としているが、ごくたまに目をギラつかせる時がある。
あれは体育の授業の時だった。女子生徒が体育館の反対側で怠そうにバスケをする中、出番がない女子生徒たちの視線は隣のコートの男子に向けられていた。注目されていたのは、学年一の男前を誇る片山たちの学級カースト一軍グループだった。その一部の男子が給食の人気メニューのプリン獲得と、バスケットボールやコートの片付けをすることを賭けてバスケ勝負をしていた。面倒臭がりな滝浦は後者の理由から参加し、帰宅部ながら大健闘する。なんと、長身を活かして相手のパスをカットし、華麗にディフェンスを突破して美しいシュートまで決めたのだ。
スピードだけでなく、滝浦の気怠げな目の奥に潜む熱い炎が燃えて彼の雰囲気を神秘的且つ威圧的なものにしたのか、滝浦は相手チームの誰も自分とボールに触れさせなかった。
「もう! 茉尋ちゃんってば! 私を放っておくくせに、何で滝浦くんまでよく見てるの!?」
「イケメンだから」
「水野さん、ぶれないね」
海野は水野の面食いぶりと、その異様な観察眼に感心しつつ呆れたが、金井は自分に靡かない水野の嗜好が気に食わない。
何を思い立ったのか、ふくれっ面だった金井は表情を変え、水野の頬に手を添えて瞳を潤ませつつ小首をかしげた。
「もっと私に夢中になってよ……」
「ごめん。私、騒がしくないイケメンが好きだから」
一刀両断。金井はたしかに可愛いが、残念ながら彼女は水野の性愛の対象には当てはまらない。水野は興味のないこと(自分の性癖に刺さらないもの)には容赦がない。その拒絶はいっそ清々しいくらいだ。
水野があまりにも味気ない返事をするものだから、海野はつい口の端を上げた。水野に執着ぎみの金井との温度差がありすぎる。いつもはこちらを振り回す金井だが、想い人が自分の言動でちっとも思い通りに動かないことに、さぞや困っているに違いない。これを機にちょっとへこたれて大人しくなってほしいものだ。
海野は愉快そうに意地悪な笑みを浮かべて、金井に声をかけた。
「金井、残念だね。水野さんは過去一の強敵だよ」
「私に全く靡かないのは初めて……。最高! ゾクゾクする!」
「勘弁してよ……」
「見誤った。あっちもこっちも重症だ」
恋は盲目。水野はへこたれない金井の驚異の精神力と対峙して疲弊する一方だ。かたや海野は彼女たちの色恋沙汰を、そばにいながら他人事として静観するだけだった。
「そういやさ、海野は何のためにここに呼び出されたの? 関係ないっちゃ、関係ないよね?」
「そういえば、何でだろう?」
当たり前に三人で話していたが、金井の告白劇において海野は第三者の立場だ。今更になって疑問に思うくらいには、水野はすっかり度重なるイレギュラーな状況に慣れていた。
「海野は立会人だよ。私が茉尋ちゃんから言質を取るから、正式に恋人になったっていう証人になってもらうつもりだったの」
「計画的犯行だ……。何でか私が告白にオーケーしてる前提だし、それ何て羞恥プレイ? 海野にこの告白現場を見られた上、私の片山くんへの気持ちもばれる羽目になるなんて……恥ずかしすぎる」
水野は金井が面倒な存在であることをはっきりと認識した。しかも、それが海野にとってもだろうということも理解した。
海野と金井は奇妙な主従関係にある。しかし、海野の金井への接し方を見るに、海野は金井に意外と遠慮せず、ずばずばと物を言う。金井も気を許しているようで、心置きなく我儘を言って困らせているようだ。海野というひとりの人間に興味が湧いた今、ふたりの幼馴染らしい近い距離感が少しだけ羨ましかった。
「ていうか海野、人の記憶の操作もできるんだね。てっきりあの海水の触手は、物理攻撃だけだと思っていたよ」
「僕は海の子の中でも、ちょっと特殊でね。僕の能力については話すと長くなるから、知りたければまた今度話すよ」
相変わらずミステリアスな男だ。彼を深掘りしてみたいと思うのは、単なる好奇心である。
興味深そうに目を輝かせた水野の視線を受け流し、海野は普段と変わらぬ様子で金井に目を向けた。
「金井、さっき君が話したのは半分本気で、半分冗談だろ? 君は僕が片山くんに能力を使ったのかを確かめたかったんだ。だから僕もここに呼んだ。そうだろう?」
「うん。隠す気はなかったし、誤魔化すつもりもなかったよ」
「回りくどいことを……。またいつもの悪い癖か」
海野は頭を抱えた。金井は昔から、自分の言動一つで人が狼狽える様を楽しむ節があるのだ。
ふたりを見て水野は思った。海野も自分も、厄介な女の子に気に入られたと。できるなら、クラス替えからやり直したいものだ。
「で? 金井、このあとどうやって教室に戻るんだ? 僕たち少なくとも松木さんからは、あらぬ誤解を受けていそうなんだけど?」
「誤解って?」
金井だけが状況を分かっていない。水野は仕方なく説明役を買って出た。
「私たちが片山くんをおかしくさせた原因で、今、あなたに問い詰められているってこと」
「そんなの気にしない、気にしない。まだ話し足りないし、このまましれっと私と一緒に教室に戻ろうよ。今日から仲良くしようね、茉尋ちゃん」
水野の左腕に腕を絡ませる金井は上機嫌だ。
ここで黙っていないのが水野である。不穏な未来を察して不快感を露わにした水野は、飛び退くように金井の腕を引き剥がした。
「いやいや! いきなりおかしいから! 私たちほとんど接点ないから! それにね、私はあの問題児だらけの教室で、平穏にひっそりと生きたいの!」
「もう無理だと思うよ。僕が言うのもなんだけど、僕たち水を被った件でただでさえ目立っているから。服装だってこの通り、僕らふたりだけみんなと違うじゃんか」
「そうだ! ペアルックずるい!!」
「いや、そんなバカップルみたいな意図はないし。それにこれ、ただの体操服だからみんな一緒だよ? あと離れてほしいな」
金井はしぶとい。肩を押し退けられても、めげずに水野と腕を組もうと奮闘していた。
そこに水を差したのは、ノックもなく教室の引き戸から顔を覗かせた人物だった。
「言い忘れてた。次、移動教室に変更になったよ。この階の水道設備の緊急点検が入るからだってさ。じゃ、五時間目は二階の視聴覚室に来てね」
「滝浦くん、さっきからどうやって鍵を開けているの?」
タイミング良く欠伸をした滝浦が水野の問いかけに答えることはなかった。
ころっと転がした鈴のような澄んだ声を発した、見目麗しい金井によって空気が変わる。
彼女は顔を曇らせた海野のために話題を変えようとしたのか、それとも単に本題に戻そうとしたのか。不意に金井が右手で水野の左手を握った。
「私はあなたが同じ海の子だから惹かれたわけじゃないよ。茉尋ちゃんを好きになったきっかけが何かははっきりと思い出せないし、私の身体中を満たすこの気持ちの重さをまだうまく伝えられないけど、これだけは言わせて。茉尋ちゃんは優磨くんに選ばれなかったんじゃない。私が彼にあなたを選ばせなかったの」
背筋がぞくっと強張る。水野は金井の狂気を滲ませた瞳に気圧された。
なんて自分勝手な女だ。しかし、自信家の彼女がここまで自分に傾倒している。感じたことのない優越感に水野は戸惑うどころか、こんな感情を抱かせた彼女に畏れを抱いた。
金井に傷つけられたプライドが理解し難いスピードで回復していく。心はじくじく痛むのに、どうしてか彼女を憎めない。これが彼女の魅力だ。金井は人を手玉に取るのがうまい。どうりでみんな金井に弱いわけだ。
金井の我儘は命令ではない。ただの希望だが、それは強力な引力を有し、油断すると金井に全神経が集中してしまう。彼女はこちらに断る意志を持たせないのだ。これが金井の海の子としての能力なのだろうか。
今も彼女の表情にちらりと陰りが見られるだけで、罪悪感を抱くくらいには水野も絆されている。
「冷たくしすぎたせいかな……。私が優磨くんの心を完全に奪ったと思っていたけど、違ったみたい。彼は隣の席の茉尋ちゃんを女の子として、ちゃんと意識していたよ。時々ほんのり好意を滲ませたような優しい視線を向けていたもの」
金井は水野の手を握ったまま、艶のある妖しい笑みを消した。
「だから、茉尋ちゃんは自分が誰からも愛されない存在だなんて思わないでね」
「それ、どういう意味? 私、そんな極端なこと考えてないよ」
話の前半はともかく、後半の内容が不自然だ。実際、水野はそこまで卑屈になっていない。今のはまるで水野に誰かを重ねて見ているような発言にも思える。
金井の瞳は水野に真っすぐに向けられていたが、一瞬だけ横に泳ぐ。本当に束の間の変化だった。再び向けられた焦げ茶の瞳からは何も窺い知ることはできない。
金井は何事もなかったかのように、花のような笑顔を見せた。
「私が言いたかったのは、私も茉尋ちゃんが大好きだよってこと!」
「何でそうなっちゃったの?」
勝手に人の気持ちを決めつけないでほしい。自分本位にも程がある。
変な流れでの金井の告白のせいで、水野の真面目な思考は中断された。このままだと金井に振り回される一方だ。こちらが会話の主導権を握らなければ、体力と気力が削がれてしまう。
ここは話が通じる上に、金井の扱い方が分かっていそうな海野を頼った方がいいだろう。
「ヘイ、海野。ヘルプ、通訳」
「君、僕をロボットとかAIだと思ってない?」
「ずるい! 海野ばかりに構わないでよ」
海野に助けを求めた途端にこれだ。金井に左上腕ごと抱え込まれる。彼女がしっかり腕に巻きついて上から押さえつけているせいか、足も重くて動かしづらい。こちらが背後の引き戸に近付く素振りをちらっとでも見せれば、すかさず反対側に引っ張られる。自慢の怪力を発揮してもいいが、女子相手に乱暴はしたくない。
健康的な柔らかい身体によって退路を塞がれた。何の花の香りだろうか。金井からいい匂いがする。可愛い女子としてアピールも忘れない金井は抜け目がない。
「茉尋ちゃん、私のこと嫌いなの?」
「いや、嫌いじゃないけど……。ちょっと強引な性格が合わないかもしれないなーって」
確信を持って言える。この様子だと、金井は自分から離れる気など一切ない。
「良かった! 嫌いじゃないなら、好きってことだね!」
「全然良くないね! さっきから都合良く解釈しすぎ──」
ここで誰も予想していなかった展開になる。ガチャッ、と開かないはずの扉が開く音がしたのだ。
「……修羅場?」
三人がいる空き教室にやって来たのは、寝心地の良い隠れスポットを探して校内を彷徨う、居眠り小僧の滝浦維月だった。彼は授業中に騒ぐクラスメイトたちを全く意に介さず、机に突っ伏して惰眠を貪るような強者であり、教師泣かせの問題児のひとりでもあった。彼が同学年の問題児の代表格である根津と大きく違う点は、滝浦は誰かを巻き込んで行動するのではなく、放浪癖がある一匹狼タイプだということだ。
ちなみに、彼も茉尋が脳内でしたためている隠れイケメンリストに載っている。滝浦はふわふわの緩い天然パーマが一番の特徴で、他に太眉と垂れ目の下の泣きぼくろが印象的だった。同級生の男子とは思えないほど品がある気怠げな色気は、寝起き直後にしか見られないため、茉尋はクラスメイトの特権として享楽し、マイナスイオンを放出する滝浦に感謝を込めて心の中で合掌していた。授業中は斜め後ろの席から彼の幼い寝顔をこっそり見ては、母親のような気持ちで癒されている。滝浦が授業時間になっても姿を現さない時は、勉強のモチベーション低下に影響を及ぼすほど、水野は滝浦の隠れファンであった。(なお、水野は公共の場で黄色い声を上げるタイプではない。)
休み時間にはどこかに出掛け、出没スポットも把握させないようなレアキャラ扱いの滝浦が、なぜか鍵がかかっていたはずのこの空き教室に現れたのだ。水野たち三人が驚かないはずがなかった。
「それ」
何を言い出すのやら。滝浦は眉一つ動かさず、水野と金井を指さす。
「金井さんが海野の指示で、水野さんを手籠めにしてるとこ?」
「とんでもない誤解だよ!」
吠えたのは水野だ。クラス内でも会話が少ないことで有名な滝浦との初めての会話がこれだとは。可愛さの欠片もない態度を取ってしまい、水野は速攻で後悔した。
「ふーん……。俺、邪魔だね」
「いや、絶妙なタイミングだったよ」
「そっか」
自分から聞いておいて大して興味なさそうに話す滝浦と、素っ気なく返す冷静な海野。気まずい関係でもないが、なぜかお互い目を合わせない。端から見ると、会話が成り立っているように思えるのだが、水野はふたりの組み合わせに違和感しかなかった。まるでそれぞれ独り言を言っているだけのように愛想はなくて、会話の矢印が相手に向かっていないのだ。
滝浦は水野の訝しげな視線を感じたのか、彼女を一瞥すると、すぐに三人に背を向ける。
「なんか楽しそうだし、俺は別の場所で寝るよ。じゃあね」
「えっ? 待って──」
水野が伸ばした手は空を切る。
彼の登場に関して疑問は尽きない。滝浦は引き戸の向こうで、どこまで自分たちの話を聞いていたのだろうか。まあまあ騒いでいたので、三人の話し声が聞こえないはずがないのだ。そして、水野が金井の対応に困っていたあの絶妙なタイミングで、どうして入室しようと決断したのか。そもそも彼はどうやって鍵を開けたのだろう。
「騒がしかったのかな? 滝浦くんはこの環境が気に入らなかったんだね」
すぐそばで金井の声が聞こえる。水野は金井を腕から引き剥がすのを諦めていた。
それよりも金井に言いたいことがある。
「ねえ、何かとんでもない誤解をされたような気がするんだけど。修羅場とか、手籠めって言ってたのに『楽しそう』ってどういうこと? リンチより厄介な誤解だよ」
金井は滝浦に水野との仲を誤解をされようが特に気にしていないようだが、水野は違う。ぜひとも美丈夫の滝浦には、認識を正してもらいたいものだ。水野が自信を持って言えるのは、金井にいかがわしいことはしていないし、されてもいないということだ。彼女が相手ならば、自分は清らかな身であると言える。
「放っておいていいんじゃない? 彼、憶測だけで変な噂を言いふらすタイプじゃないでしょ。滝浦くんはわざわざ他人との諍いのために動かないし。彼は基本、食べるか寝るかの二択さ」
答えたのは、空き教室の扉の鍵をかけ直していた海野だった。
滝浦が馬鹿にされているが、イケメンの味方である水野でもフォローのしようがない。選択肢に勉強が入っていないところが滝浦くんっぽい、と水野も率直に思ったからだ。
「あ、それにバスケと水泳も追加で。滝浦くん、興味ある遊びや勝負事には稀に本気を出すみたいだから」
滝浦は普段は脱力気味で飄々としているが、ごくたまに目をギラつかせる時がある。
あれは体育の授業の時だった。女子生徒が体育館の反対側で怠そうにバスケをする中、出番がない女子生徒たちの視線は隣のコートの男子に向けられていた。注目されていたのは、学年一の男前を誇る片山たちの学級カースト一軍グループだった。その一部の男子が給食の人気メニューのプリン獲得と、バスケットボールやコートの片付けをすることを賭けてバスケ勝負をしていた。面倒臭がりな滝浦は後者の理由から参加し、帰宅部ながら大健闘する。なんと、長身を活かして相手のパスをカットし、華麗にディフェンスを突破して美しいシュートまで決めたのだ。
スピードだけでなく、滝浦の気怠げな目の奥に潜む熱い炎が燃えて彼の雰囲気を神秘的且つ威圧的なものにしたのか、滝浦は相手チームの誰も自分とボールに触れさせなかった。
「もう! 茉尋ちゃんってば! 私を放っておくくせに、何で滝浦くんまでよく見てるの!?」
「イケメンだから」
「水野さん、ぶれないね」
海野は水野の面食いぶりと、その異様な観察眼に感心しつつ呆れたが、金井は自分に靡かない水野の嗜好が気に食わない。
何を思い立ったのか、ふくれっ面だった金井は表情を変え、水野の頬に手を添えて瞳を潤ませつつ小首をかしげた。
「もっと私に夢中になってよ……」
「ごめん。私、騒がしくないイケメンが好きだから」
一刀両断。金井はたしかに可愛いが、残念ながら彼女は水野の性愛の対象には当てはまらない。水野は興味のないこと(自分の性癖に刺さらないもの)には容赦がない。その拒絶はいっそ清々しいくらいだ。
水野があまりにも味気ない返事をするものだから、海野はつい口の端を上げた。水野に執着ぎみの金井との温度差がありすぎる。いつもはこちらを振り回す金井だが、想い人が自分の言動でちっとも思い通りに動かないことに、さぞや困っているに違いない。これを機にちょっとへこたれて大人しくなってほしいものだ。
海野は愉快そうに意地悪な笑みを浮かべて、金井に声をかけた。
「金井、残念だね。水野さんは過去一の強敵だよ」
「私に全く靡かないのは初めて……。最高! ゾクゾクする!」
「勘弁してよ……」
「見誤った。あっちもこっちも重症だ」
恋は盲目。水野はへこたれない金井の驚異の精神力と対峙して疲弊する一方だ。かたや海野は彼女たちの色恋沙汰を、そばにいながら他人事として静観するだけだった。
「そういやさ、海野は何のためにここに呼び出されたの? 関係ないっちゃ、関係ないよね?」
「そういえば、何でだろう?」
当たり前に三人で話していたが、金井の告白劇において海野は第三者の立場だ。今更になって疑問に思うくらいには、水野はすっかり度重なるイレギュラーな状況に慣れていた。
「海野は立会人だよ。私が茉尋ちゃんから言質を取るから、正式に恋人になったっていう証人になってもらうつもりだったの」
「計画的犯行だ……。何でか私が告白にオーケーしてる前提だし、それ何て羞恥プレイ? 海野にこの告白現場を見られた上、私の片山くんへの気持ちもばれる羽目になるなんて……恥ずかしすぎる」
水野は金井が面倒な存在であることをはっきりと認識した。しかも、それが海野にとってもだろうということも理解した。
海野と金井は奇妙な主従関係にある。しかし、海野の金井への接し方を見るに、海野は金井に意外と遠慮せず、ずばずばと物を言う。金井も気を許しているようで、心置きなく我儘を言って困らせているようだ。海野というひとりの人間に興味が湧いた今、ふたりの幼馴染らしい近い距離感が少しだけ羨ましかった。
「ていうか海野、人の記憶の操作もできるんだね。てっきりあの海水の触手は、物理攻撃だけだと思っていたよ」
「僕は海の子の中でも、ちょっと特殊でね。僕の能力については話すと長くなるから、知りたければまた今度話すよ」
相変わらずミステリアスな男だ。彼を深掘りしてみたいと思うのは、単なる好奇心である。
興味深そうに目を輝かせた水野の視線を受け流し、海野は普段と変わらぬ様子で金井に目を向けた。
「金井、さっき君が話したのは半分本気で、半分冗談だろ? 君は僕が片山くんに能力を使ったのかを確かめたかったんだ。だから僕もここに呼んだ。そうだろう?」
「うん。隠す気はなかったし、誤魔化すつもりもなかったよ」
「回りくどいことを……。またいつもの悪い癖か」
海野は頭を抱えた。金井は昔から、自分の言動一つで人が狼狽える様を楽しむ節があるのだ。
ふたりを見て水野は思った。海野も自分も、厄介な女の子に気に入られたと。できるなら、クラス替えからやり直したいものだ。
「で? 金井、このあとどうやって教室に戻るんだ? 僕たち少なくとも松木さんからは、あらぬ誤解を受けていそうなんだけど?」
「誤解って?」
金井だけが状況を分かっていない。水野は仕方なく説明役を買って出た。
「私たちが片山くんをおかしくさせた原因で、今、あなたに問い詰められているってこと」
「そんなの気にしない、気にしない。まだ話し足りないし、このまましれっと私と一緒に教室に戻ろうよ。今日から仲良くしようね、茉尋ちゃん」
水野の左腕に腕を絡ませる金井は上機嫌だ。
ここで黙っていないのが水野である。不穏な未来を察して不快感を露わにした水野は、飛び退くように金井の腕を引き剥がした。
「いやいや! いきなりおかしいから! 私たちほとんど接点ないから! それにね、私はあの問題児だらけの教室で、平穏にひっそりと生きたいの!」
「もう無理だと思うよ。僕が言うのもなんだけど、僕たち水を被った件でただでさえ目立っているから。服装だってこの通り、僕らふたりだけみんなと違うじゃんか」
「そうだ! ペアルックずるい!!」
「いや、そんなバカップルみたいな意図はないし。それにこれ、ただの体操服だからみんな一緒だよ? あと離れてほしいな」
金井はしぶとい。肩を押し退けられても、めげずに水野と腕を組もうと奮闘していた。
そこに水を差したのは、ノックもなく教室の引き戸から顔を覗かせた人物だった。
「言い忘れてた。次、移動教室に変更になったよ。この階の水道設備の緊急点検が入るからだってさ。じゃ、五時間目は二階の視聴覚室に来てね」
「滝浦くん、さっきからどうやって鍵を開けているの?」
タイミング良く欠伸をした滝浦が水野の問いかけに答えることはなかった。
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