愛を生かすための呪い

藤崎 柚葉

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第一章・第一話

奪われた言葉と与えられる愛

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 伝えたい言葉はいつだって喉の奥に貼り付いているのに、簡単には表に出てこない。だからこそ、彼は今も彼女を強く想っている。例え彼自身が神に嫌われていようが、奇跡というなけなしの希望にすがるしかなかったのだ。
 廉斗れんとは恋人である沙奈さなの前で、早急に愛の証明をしなければいけない。それも、究極の愛だ。
「廉斗くん、自分を憎まないで」
 佐奈は廉斗が破り捨てたメモ用紙の向こうで、液晶画面越しにそう言った。彼女は廉斗の凍えた心を温めようとして、穏やかな微笑みをたたえている。しかし、離れた場所にいるふたりは互いにどこか寂しそうで、その心に灯った火は今にも消えてしまいそうなほどか細い。
 沙奈は市立病院の感染症病棟の一室に、廉斗は同じ病院の面会室にいた。ふたりは病院から渡された専用タブレット端末を使って、オンライン面会をしている。
 沙奈は時より苦しそうに咳をするが、笑顔は絶やさなかった。対して、廉斗の表情は途中からずっと暗いままだ。
 廉斗が悔しそうに目線を落とした先には、自分が破り捨てたメモ用紙が散らばっていた。真っ白なメモ用紙に文字は一つもない。それでも、廉斗は足元から目を離そうとはしなかった。
 なぜ廉斗は貴重な面会時間にそんな態度をとるのか。沙奈はそれを十分に理解していたからこそ、終始一貫して明るく振る舞っていた。それが尚更に、廉斗が自己嫌悪を抱く結果へと導いていた。
 廉斗は沙奈との会話の途中で、持参したメモ用紙に何かを書こうと、何度かボールペンをメモ帳に押し当てていた。それなのに、廉斗の手は小刻みに震えるだけで、何も書こうとしない。
 いや、のだ。
「そんな顔をしないでよ。あなたの愛情は、ちゃんと私に伝わっているから」
「本当に? 昔はよく『言葉にして欲しい』なんて言っていたじゃないか」
「形じゃない愛だってあるよ」
 すぐに強がるのは彼女の悪い癖だ。沙奈は廉斗のために優しい嘘をつく。
 廉斗にとって、それはたまらないほど愛おしく、胸が引き裂かれるほどに残酷な仕打ちでもあった。
「大丈夫。私にはちゃんと伝わっているから」
「僕にはその自信がないよ。ああ、本当にどうして……」
 こんなに好きなのに。どうして、僕だけが、愛する人に「愛してる」と言えないんだろう……。
 廉斗は呪われた自分を心の底から恨んだ。



 彼が受けた呪いの始まりは、雨の匂いをまとった風が止んだ頃のこと。それは穏やかな日常で起こった。
八百万やおよろずの神様だって?」
「そう。日本では、万物ばんぶつのものに神様が宿っていると考えられているの。海外の一神教とは真逆で、おもしろい考えだよね」
 ふたりは港町にある、外装がガラス張りの屋内緑地公園にいた。この施設では、四季折々の花や新緑、紅葉などを楽しむことができる。そんな自然が溢れる中で、子どもの楽しそうな笑い声が聞こえていた。
 今日は色々な顔を見せる植物に癒やしを求めて訪れたが、昔は廉斗もここで姉妹と仲睦まじく遊んだものだ。  
 元々、この施設には人工的に作られた小川があった。その川に置かれた岩に上がって向こう側に渡り、小道を少し歩けば、知らない植物の世界が広がっていたのだ。幼かった廉斗にとって、ここは身近なアスレチックパークであり、冒険の場でもあった。
 今でこそ、休憩所に子ども向け遊具があったり、小川の水が抜かれてイベント用のステージを増設されてしまったが、それでも愛着ある場所には変わりなかった。
 園内を一通り一緒に見て回ったが、佐奈はここで何を感じたのだろうか。
 佐奈は大きな瞳いっぱいに深緑の光を受け止め、楽しそうに言った。
「例えば、さっき見た『けやき』の木とか、『さつき』の花とかにも、こんな小さい神様がいたりして」
「へえ。よく植物の名前を覚えているね」
「なんとなく気になったから。もし、あそこに神様がいるのなら、どんな姿なのかなって思ったんだ」
「何かお願い事でもする気?」
「そんなんじゃないよ。お礼を言いたくてさ」
 茶化す廉斗に、沙奈は微笑みを浮かべて答えた。
「きっと、身近な神様が私たちを見守ってくれているから、私は今あなたといられるんだよ」
 沙奈は時々大袈裟に物を言うが、廉斗は決してそれが嫌ではなかった。なぜか沙奈の言葉は、ストンと胸に落ちるのだ。
 沙奈のおおらかな性格は、何度も廉斗に安らぎと、心の平穏を与えてくれた。
 廉斗は訳あって自分の家族とは疎遠状態だ。姉と妹ですら、連絡は取れていない。人付き合いは得意ではないため、交流関係も狭い。それでも気の合う友人が数人いるので、廉斗はまだ恵まれた方だろう。
 その友人の中に、沙奈がいた。
 出会ったのは高校生の頃。人生のどん底にいた自分に寄り添ってくれたのが、目の前にいる彼女だったのだ。
「ねえ、廉斗くん。あなたと一緒に眺めているこの景色には、どんな神様がいると思う?」
 施設の二階にあるベンチに座っていた沙奈が、横から廉斗の顔を覗く。廉斗は沙奈に促されるように、辺りの景色を見回した。
 この二階には、一階と違って目立つ遊具や植物がない。代わりにベンチが何個か置いてあるだけだが、外装がガラス張りのお陰で、港町の様子を少し高い場所から見ることができる。それに、転落防止用のコンクリートの腰壁の上には色々な種類の木が頭を覗かせていて、地上にいる時とは随分と違った景色だ。
 なんだか、自然と一体になれている気がする。
 施設の利用者は下にいるので、二階ではより静かに過ごせるのは嬉しい誤算だった。
 遠くで揺らぐ波の動きは穏やかだから、きっと今はそんなに風は強くないはず。それなのに、この施設には葉っぱの匂いと、潮の香りがふわりと漂っている。少し空気が湿っぽい気がするのは昔からだ。
 廉斗は思う。こんな風にゆったりと過ごす時間を、退屈だなんて感じないとは……。
 自分に新鮮な景色を見せてくれた彼女こそ、神様に近い存在なのかもしれない。沙奈がいなければ、廉斗は大学生になってから、こんな風に何気ない日常の中で、心の赴くままに感情を動かしたことなんてなかった。自分の変化に驚くしかない。
「神様か……。僕は神様なんて信じられないけど、君のことは何よりも大切にしたいと思っているよ」
「ありがとう。私も廉斗くんが大切だよ」
 不意を突かれてキョトンとした表情を見せた沙奈だったが、嬉しそうに微笑みながら、想いに応えるように廉斗の手に触れた。
 ごく自然な流れで重なった手に、廉斗の胸が温かくなる。
 ──こんな気持ちになるのは君だけだ。
 幸いにも、二階には人がいない。
 廉斗は急に沙奈が愛おしくなって、柄にもなくストレートに愛を伝えようとした。
 その時、廉斗は自分の異変に気付く。 
「…………!」
「廉斗くん。どうしたの?」
 伝えたい想いが話せない。声に出そうとしても、変な音が口から空気となって抜けるだけだった。
 廉斗のそんな様子に不安を感じた沙奈が顔を近付けると、廉斗は重なっていた沙奈の手から抜け出して、自分の喉に手をかけた。
「廉斗くん!?」
「沙奈……。僕は……!」
「何? 何か言いたいのね?」
 驚きながらも沙奈は、廉斗の丸まった背中に手を当ててフォローする。
 世話を焼きながらも続きを聞こうと待ってくれている沙奈のため、廉斗は必死に声を出す。だが、やはり声にならない。
 自分の意思通りに身体が動かない。それに廉斗は焦る。
 ──好きだよ……。
「大丈夫、急かさないから……。廉斗くんのペースでいいよ」
 ──君が好きなんだ。本当に、心の底から……。
 彼女に想いを伝えたい。今まで貰ってばかりだったからこそ、言葉にしてあげたいのに……。
 喉が熱くなるだけで言葉にできない。それが悔しくて、もどかしい。
 廉斗は首にかけた手の上に、更に自分の手を重ねた。どうにかして声を捻り出そうと、力を込めて肌をつねる。
「無茶しないで」
 ちょうど息苦しくなったところで、沙奈の手が廉斗の行動を止めた。
「なんとなくだけど、気持ちは伝わったから。ね?」
 沙奈の濡れた瞳を見て、少しずつ冷静になった廉斗は自分の喉から手を離す。
 混乱していたのは、自分だけではなかったのだ。
「理由は分からないけど、廉斗くんは急に何かを話せなくなったんだよね?」
「ああ……」
 情けない。急に話したいことが話せなくなってしまったことも、パニックになったことも。
 なぜ、急にこんな事が起こったのか……。
 廉斗は膝の上で固く組んだ両手に力を入れた。
「私は廉斗くんがさっき何を言いたかったのか、分かっているつもりだけど……。廉斗くんはきっと、それが私にちゃんと伝わっているのか不安なんだよね?」
 廉斗が言葉を返す前に、沙奈は再び廉斗の手を握る。
 廉斗は何かを言いたそうな沙奈の話を聞くため、前屈みになった態勢を元に戻した。
「じゃあさ……」
 キョロキョロと辺りを見回してから、沙奈は顔を寄せた。
「これが答え合わせだけど……正解だったかな?」
 不意打ちで唇に感触があった。
 沙奈の大胆な行動に、廉斗は驚くしかなかった。
「えっ? あっ、ええ?」
「あれ? 不正解だった?」
 いたずらに笑った沙奈に、廉斗は頭が追いつかない。
 廉斗が狼狽えている間にも、沙奈は次の行動に移る。
「廉斗くんが声に出せないのなら、私が代わりに証明してあげる。だから、廉斗くんも行動で……口移しでいいから、伝えたいことを教えて」
 そう言うと同時に、沙奈は触れていた背中から腕を伸ばして廉斗に抱きついた。小柄な沙奈では、男性の平均身長である廉斗の背中は広い。
 手が回されていない部分があるにも関わらず、廉斗は今、沙奈の温かさに全身が包まれていた。
 ──ああ、僕はなんて情けない男なんだ。いつも君に愛情を返せない。
 廉斗は沙奈の優しい誘導に胸が苦しくなる。
 今こそ、健気な彼女の愛情に応えてあげたい。
 廉斗が小さな背中に腕を回すと、今度は沙奈の全身が自分とは違う温かさに包まれた。いつもより強い抱擁に、たまらず沙奈は顔を上げる。
 いつも深い愛情を与えてくれている沙奈の、何かを待ち侘びているような瞳に、廉斗は胸の内から熱い想いが込み上げていた。
 どうか、自分のこの行動が、彼女に伝えられない言葉の代わりになってほしい。
 一片でもどうか、伝わりますように……。
 ──愛してるよ。
 廉斗が震える唇を重ねると、沙奈の唇から潮の香りがした。
「……しょっぱいね」
 沙奈は涙を誤魔化すように笑っていた。その笑顔は海面の光よりも美しく、彼の胸の中で花火のごとくはじけてきらめく。愛の言葉を失った廉斗にとって、最愛の彼女との何気ないはずの時間が、最も尊ぶべき瞬間に変わったのだ。
 目に見えなくても、形として残されていなくても、愛は確かに存在する──。そんな究極の愛を若いふたりが掴むには、今のままでは経験が足りなかった。ふたりが水平線の彼方にある光に触れるには、各々おのおのが暗い過去を乗り越える必要があったのだ。
 建物の構造上、今は美しい海に背を向けているふたりだが、普段のふたりからみて、母なる海はおそれを感じさせるほどあまりにも広い。それは、自分という存在の価値の低さを強く自覚させるものでもあった。
 誰かが隣にいても、どこか心が満たされない。だからこそ、ふたりには自分を求めてくれる最愛の人が必要不可欠だった。空虚感に怯える弱い自分が、打算的な考えで、愛する人と過ごす時間を増やそうと欲張っていたのだ。両者は己の潜在意識で欠けた心の隙間を埋めたがり、共々相手を引き寄せてしまう。その絶妙な関係はまるで張り詰めた糸のような均衡を保っていて、またもつれた糸の如く危うく見える。それは、いつか切れてしまいそうな縁だった。
 互いを思い合う今のふたりは、手放しで幸福を享受きょうじゅできる心の余裕があるように見えたが、じつそれぞれ肺に負の感情で染まった黒い水が溜まっていた。その重さに身体と心が耐えきれず、自らの過去に溺れて藻掻もがき苦しむふたりの未来を海は見据えていたのだ。
 全ての生命の源である海は、彼らと共鳴するようにやがて薄暗い雲に覆われていく。
 更にこの年、極悪非道な手口で世界を巻き込む大事件が起きる。そこでは誰もが歴史の単なる目撃者ではなく、物語を動かす当事者になってしまう。つまり、それは呪縛に苦しむ彼らも例外ではなかった。
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