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36 シエキ
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それから数日の間は、特段変わった事もなく日々は過ぎた。
女学校でも桃香を見かけることはあったけれど、向こうから接触してくることはない。
(私が居なくなっても、別に気にならないって事だよね)
羽立野家は三葉を手放す気がないと弘城は言っていたが、それならばとっくに桃香が声をかけてくるだろう。
けれど、気を抜いたそんな時こそ危険なのだと三葉は思い知る。
教員室に呼ばれて廊下を歩いていた三葉は、ふと、背後に冷たい空気を感じて身震いした。
「なんだろう」
今日は晴れていて、雲一つない青空が広がっている。なのにこの廊下は、奇妙に冷え冷えと感じる。
先程まで聞こえていた女生徒達のざわめきも聞こえず、しんと静まりかえっている。
いや、どこからかカチカチと小さな音が響く。金属音とも違い、虫の羽音でもないその音は不安な気持ちを増幅させる。
「三葉」
「っ…桃香さん」
突然背後から声をかけられ、三葉は飛び上がらんばかりに驚いた。
「桃香様、でしょ。もう忘れたの?」
脛を思いきり蹴飛ばされ、三葉は痛みに顔を歪めた。
「失礼しました。桃香様」
羽立野家に居た頃、三葉と桃香が顔を合わせることは殆どなかった。けれど運悪く廊下ですれ違ってしまうと、桃香はあれこれと三葉の至らなさをあげつらい蹴り飛ばして去って行くのが恒例だった。
カチカチ、と今度は耳元で乾いた音が聞こえた。
振り返ってもやはり音の元となるような物はなにもない。
冷たい風が吹きつけ、気付くと二人の周囲には誰もいない。
「勝手に出て行ったこと、お父様が怒ってるわ」
「申し訳ございません」
やはり気づいてたのだと分かったが、それなら何故今まで放っておかれたのかと疑問が残る。
しかし桃香に問うても、返答は望めないだろう。
「婚約したなんて嘘までついて。殿方と出歩くための嘘なんでしょう?」
「え?」
「夜に殿方と親しげにしてるのを、買い物に出た女中が見かけたのよ。学校が終わると、すぐどこぞへ行くへを眩ませたかと思っていたら。まさかそんな大胆な事をしてただなんてね」
「それは……」
(ホンさんのお店に行った日だ)
しかし誤解を解くためには大神の名を出す必要がある。
(弘城さんにこれ以上迷惑はかけられない)
幸いだったのは、目撃した女中が大神の顔を知らない点だ。
「黙るってことは、正解なのね。下品なところは、母親に似たのかしら? はしたない女」
いやらしく口の端を上げる桃香に、三葉は唇を噛んで耐える。
「お父様が知ったら、どうするかしら? 家名を傷つけた娘なんて、恥でしかないもの。良くて商家の妾……値が付くのなら女郎屋にでも売り飛ばすかもね」
仮にも女学校の生徒とは思えない下品な言葉に、三葉は絶句する。と同時に、叔父がまだ桃香に真実を話していないと気づく。
弘城の話が本当なら、三葉が大神家に保護された時点で叔父の行った犯罪は公にされる。叔父が父を殺し羽立野家の乗っ取ったと公表されれば、窮地に立つのは叔父一家だ。
(口封じに遠くへ売るつもり?)
しかし続いた桃香の言葉は意外な物だった。
「――でも追い出される前に、羽立野家の役に立ってもらうわ」
耳元に顔を寄せる桃香からは、甘い腐臭のような香りが漂う。
「お金を家に入れれば、羽立野家を出てもいいわ。最近わたしも彩愛様に教わって、投資というのを始めたの」
「え?」
なんでも桃香は、彩愛が帝都で経営するカフェに投資をしているというのだ。
カフェ自体はそう珍しいものではなく、女性が自立して稼げる場として定着しつつある。
意外とまともな提案に、三葉はきょとんとして桃香を見つめた。
「私が桃香様が投資をしているカフェで働くという事ですか?」
「そうよ。言うことを聞くなら、お父様には秘密にしてあげるわ」
どちらにしろ、三葉に拒否権はない。
三葉が突然姿を消せば、弘城は心配するだろう。弘城だけではない、江奈や歌子だって三葉の行方を捜すに違いない。
そうなれば当然、羽立野家とのゴタゴタに巻き込むことになる。
(また迷惑をかけてしまう)
色々な考えが頭を駆け巡ったその時、足首に違和感を覚えて視線を落とす。
すると右の足首に、黒い何かが絡みついていた。
「っ……?」
「逃げようなんて思わない事ね」
それが小さい蛇の骨だと気づいた三葉は、咄嗟に振り払おうとした。けれど絡みつくそれは、嘲笑うようにカチカチと音を響かせ肌に食い込む。
さっきからずっと聞こえていた音は、蛇が動く度に骨が立てているものだと分かり背筋がぞわりとする。
「彩愛さんからいただいた「シエキ」と言うの。これがお前を見張っているわ」
そのまま午後の授業には出ず、桃香に連れられて女学校を後にする。閉じているはずの門は開いており、出て行く二人を見とがめる教師もいない。
いや、何人かとすれ違ったが、あの耳障りな「カチカチ」という音が鳴ると、教師は三葉と桃香がそこに居ないかのように無視して通り過ぎるのだ。
違和感を覚えながらも三葉は黙って桃香に従う。
女学校の側に停まっていた車に乗り込むと、運転手は桃香が指示しなくとも車を動かす。
(見たことのない人だわ……彩愛さんのお家の運転手かしら?)
羽立野家では屋敷内だけでなく、庭木の手入れや車磨きなどの雑用も命じられていたので、使用人の顔は覚えていた。けれどハンドルを握る若い男の顔に見覚えはない。
車は暫く走ると、繁華街の外れで停まった。
「さっさと降りなさい」
大人しく車から降りて、三葉は桃香の後に続く。飲食店や芝居小屋の立ち並ぶその一角は、賑やかだがどこか退廃的な空気が漂っている。
「この店よ」
連れて行かれたのは一等地に建ち一際目立つカフェだった。赤いレンガが特徴的な二階建ての建物は、西洋風で洒落ている。
(……普通のお店ね)
「お前には今日から住み込みで働いてもらうわ」
「……はい……」
桃香が扉を開けて中に入ると、店主らしい中年の女が急いで駆け寄ってくる。
「新しい女給よ。こき使ってやって」
「かしこまりました。お嬢様――では、夜の仕事も?」
「ええ、客は沢山入れてあげて」
媚びた笑みを浮かべる女店主に引き渡された三葉を一瞥して、桃香が店を出て行った。
***
「彩愛さんから頂いたシエキ、素晴らしいわ」
待たせていた車に乗り込むと、桃香は袖口から蛇の骨を出して頭部を撫でてやった。
黒く変色した骨は、桃香の腕を上って首に絡みつく。
ホテルでの騒ぎの後、一人姿を消した三葉に気づいたのは数日後の後だった。のうのうと女学校に姿を現した三葉を連れ戻したかったのだけれど、何故か桃香は近づくことができなかったのだ。
そんな桃香に、彩愛はこの「シエキ」という蛇の骨をくれたのだ。
これは奉られた神ではないのかと桃香は疑問に思った。そもそも神排をした彩愛が骨とはいえ動物を操るなど、神排信仰への冒涜ではないだろうか。
しかし彩愛は「これは神排をより広めるために必要なモノだから、大丈夫」と桃香を諭し、使い方を教えてくれた。
シエキの扱い方は簡単で、特別な力など持たない桃香でも簡単に扱えるようになった。
「やっぱり彩愛さんは素晴らしい方だわ」
実際にシエキを使ったところ、こうして三葉を簡単に連れ出せたではないか。
「もしかしたら神排に傾倒するばかりで行動しないお父様より、彩愛さんの方がずっと頼りになるのかも……」
それならそれで、父を見限ればいい。
今まで考えもしなかったことが、ふと妙案のように頭に浮かぶ。シエキを使うようになってから、とても頭が冴えるのだ。
「そうね、お父様なんて気にしなくていいんだわ。これからは彩愛さんを信じましょう」
くすくすと笑いながら一人呟く桃香の耳元で、シエキがカチカチと音を立てた。
女学校でも桃香を見かけることはあったけれど、向こうから接触してくることはない。
(私が居なくなっても、別に気にならないって事だよね)
羽立野家は三葉を手放す気がないと弘城は言っていたが、それならばとっくに桃香が声をかけてくるだろう。
けれど、気を抜いたそんな時こそ危険なのだと三葉は思い知る。
教員室に呼ばれて廊下を歩いていた三葉は、ふと、背後に冷たい空気を感じて身震いした。
「なんだろう」
今日は晴れていて、雲一つない青空が広がっている。なのにこの廊下は、奇妙に冷え冷えと感じる。
先程まで聞こえていた女生徒達のざわめきも聞こえず、しんと静まりかえっている。
いや、どこからかカチカチと小さな音が響く。金属音とも違い、虫の羽音でもないその音は不安な気持ちを増幅させる。
「三葉」
「っ…桃香さん」
突然背後から声をかけられ、三葉は飛び上がらんばかりに驚いた。
「桃香様、でしょ。もう忘れたの?」
脛を思いきり蹴飛ばされ、三葉は痛みに顔を歪めた。
「失礼しました。桃香様」
羽立野家に居た頃、三葉と桃香が顔を合わせることは殆どなかった。けれど運悪く廊下ですれ違ってしまうと、桃香はあれこれと三葉の至らなさをあげつらい蹴り飛ばして去って行くのが恒例だった。
カチカチ、と今度は耳元で乾いた音が聞こえた。
振り返ってもやはり音の元となるような物はなにもない。
冷たい風が吹きつけ、気付くと二人の周囲には誰もいない。
「勝手に出て行ったこと、お父様が怒ってるわ」
「申し訳ございません」
やはり気づいてたのだと分かったが、それなら何故今まで放っておかれたのかと疑問が残る。
しかし桃香に問うても、返答は望めないだろう。
「婚約したなんて嘘までついて。殿方と出歩くための嘘なんでしょう?」
「え?」
「夜に殿方と親しげにしてるのを、買い物に出た女中が見かけたのよ。学校が終わると、すぐどこぞへ行くへを眩ませたかと思っていたら。まさかそんな大胆な事をしてただなんてね」
「それは……」
(ホンさんのお店に行った日だ)
しかし誤解を解くためには大神の名を出す必要がある。
(弘城さんにこれ以上迷惑はかけられない)
幸いだったのは、目撃した女中が大神の顔を知らない点だ。
「黙るってことは、正解なのね。下品なところは、母親に似たのかしら? はしたない女」
いやらしく口の端を上げる桃香に、三葉は唇を噛んで耐える。
「お父様が知ったら、どうするかしら? 家名を傷つけた娘なんて、恥でしかないもの。良くて商家の妾……値が付くのなら女郎屋にでも売り飛ばすかもね」
仮にも女学校の生徒とは思えない下品な言葉に、三葉は絶句する。と同時に、叔父がまだ桃香に真実を話していないと気づく。
弘城の話が本当なら、三葉が大神家に保護された時点で叔父の行った犯罪は公にされる。叔父が父を殺し羽立野家の乗っ取ったと公表されれば、窮地に立つのは叔父一家だ。
(口封じに遠くへ売るつもり?)
しかし続いた桃香の言葉は意外な物だった。
「――でも追い出される前に、羽立野家の役に立ってもらうわ」
耳元に顔を寄せる桃香からは、甘い腐臭のような香りが漂う。
「お金を家に入れれば、羽立野家を出てもいいわ。最近わたしも彩愛様に教わって、投資というのを始めたの」
「え?」
なんでも桃香は、彩愛が帝都で経営するカフェに投資をしているというのだ。
カフェ自体はそう珍しいものではなく、女性が自立して稼げる場として定着しつつある。
意外とまともな提案に、三葉はきょとんとして桃香を見つめた。
「私が桃香様が投資をしているカフェで働くという事ですか?」
「そうよ。言うことを聞くなら、お父様には秘密にしてあげるわ」
どちらにしろ、三葉に拒否権はない。
三葉が突然姿を消せば、弘城は心配するだろう。弘城だけではない、江奈や歌子だって三葉の行方を捜すに違いない。
そうなれば当然、羽立野家とのゴタゴタに巻き込むことになる。
(また迷惑をかけてしまう)
色々な考えが頭を駆け巡ったその時、足首に違和感を覚えて視線を落とす。
すると右の足首に、黒い何かが絡みついていた。
「っ……?」
「逃げようなんて思わない事ね」
それが小さい蛇の骨だと気づいた三葉は、咄嗟に振り払おうとした。けれど絡みつくそれは、嘲笑うようにカチカチと音を響かせ肌に食い込む。
さっきからずっと聞こえていた音は、蛇が動く度に骨が立てているものだと分かり背筋がぞわりとする。
「彩愛さんからいただいた「シエキ」と言うの。これがお前を見張っているわ」
そのまま午後の授業には出ず、桃香に連れられて女学校を後にする。閉じているはずの門は開いており、出て行く二人を見とがめる教師もいない。
いや、何人かとすれ違ったが、あの耳障りな「カチカチ」という音が鳴ると、教師は三葉と桃香がそこに居ないかのように無視して通り過ぎるのだ。
違和感を覚えながらも三葉は黙って桃香に従う。
女学校の側に停まっていた車に乗り込むと、運転手は桃香が指示しなくとも車を動かす。
(見たことのない人だわ……彩愛さんのお家の運転手かしら?)
羽立野家では屋敷内だけでなく、庭木の手入れや車磨きなどの雑用も命じられていたので、使用人の顔は覚えていた。けれどハンドルを握る若い男の顔に見覚えはない。
車は暫く走ると、繁華街の外れで停まった。
「さっさと降りなさい」
大人しく車から降りて、三葉は桃香の後に続く。飲食店や芝居小屋の立ち並ぶその一角は、賑やかだがどこか退廃的な空気が漂っている。
「この店よ」
連れて行かれたのは一等地に建ち一際目立つカフェだった。赤いレンガが特徴的な二階建ての建物は、西洋風で洒落ている。
(……普通のお店ね)
「お前には今日から住み込みで働いてもらうわ」
「……はい……」
桃香が扉を開けて中に入ると、店主らしい中年の女が急いで駆け寄ってくる。
「新しい女給よ。こき使ってやって」
「かしこまりました。お嬢様――では、夜の仕事も?」
「ええ、客は沢山入れてあげて」
媚びた笑みを浮かべる女店主に引き渡された三葉を一瞥して、桃香が店を出て行った。
***
「彩愛さんから頂いたシエキ、素晴らしいわ」
待たせていた車に乗り込むと、桃香は袖口から蛇の骨を出して頭部を撫でてやった。
黒く変色した骨は、桃香の腕を上って首に絡みつく。
ホテルでの騒ぎの後、一人姿を消した三葉に気づいたのは数日後の後だった。のうのうと女学校に姿を現した三葉を連れ戻したかったのだけれど、何故か桃香は近づくことができなかったのだ。
そんな桃香に、彩愛はこの「シエキ」という蛇の骨をくれたのだ。
これは奉られた神ではないのかと桃香は疑問に思った。そもそも神排をした彩愛が骨とはいえ動物を操るなど、神排信仰への冒涜ではないだろうか。
しかし彩愛は「これは神排をより広めるために必要なモノだから、大丈夫」と桃香を諭し、使い方を教えてくれた。
シエキの扱い方は簡単で、特別な力など持たない桃香でも簡単に扱えるようになった。
「やっぱり彩愛さんは素晴らしい方だわ」
実際にシエキを使ったところ、こうして三葉を簡単に連れ出せたではないか。
「もしかしたら神排に傾倒するばかりで行動しないお父様より、彩愛さんの方がずっと頼りになるのかも……」
それならそれで、父を見限ればいい。
今まで考えもしなかったことが、ふと妙案のように頭に浮かぶ。シエキを使うようになってから、とても頭が冴えるのだ。
「そうね、お父様なんて気にしなくていいんだわ。これからは彩愛さんを信じましょう」
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