うさぎは狼の愛の匂いがわからない

多賀りんご

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12 優しい人

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 ラグナルやレオと話した夜、リネアが執務室で仕事をしていると、聞き覚えのある足音が徐々に近づき、トントン、と扉を叩く音が聞こえた。

 訪ねてきたのは、イアンデだった。
 イアンデがこの部屋に来るのは初めてで、リネアは内心驚きながら出迎える。

「わざわざこちらまで足を運んでいただいてすみません。えっと、では、いつもの、報告を」
「ああ」

 イアンデは言葉少なに頷き、リネアに勧められるがままに静かにソファに腰掛けた。

 普段はリネアがイアンデの執務室に行っている。いつもと違う状況に戸惑いながらも、それを悟られぬようなるべく淡々とイアンデへの報告を終えた。

「……以上です。今日の帳簿付けが少しまだ残っていて、作業に戻ってもいいですか?」
「わかった」

 リネアはぺこりとお辞儀をして、執務机に戻った。

 しかし報告が終わっても、イアンデは帰ろうとはしなかった。

 リネアは帳簿に落とした視界の端で、こっそりイアンデを覗き見る。
 大きな体のイアンデが座っているせいで、なんだかソファが小さく見えた。イアンデは姿勢良く座ったまま、まっすぐ前の壁を見つめている。白い耳をピンと立たせた後姿からは、ピリピリとかすかな緊張感が漂っていた。
 動かない体とは対照的に、尻尾がシュッ、シュッとソファの表面を擦る音が聞こえてくる。

 どこかそわそわと落ち着かない様子から、リネアはイアンデがこの部屋にわざわざ来た理由についての確信を深めた。

(イアンデ様は、私の仕事が終わるのを待ってくれている。それって、やっぱり……)

 リネアは慌てて仕事の手を早めた。
 作業を終わらせ急いで立ち上がると、イアンデが座るソファに駆け寄った。イアンデの隣にささやかな距離をあけて、ちょこんと腰を下ろす。

「あの、お待たせしました」
「仕事はもういいのか?」
「はい」

 イアンデは少しだけ表情を緩ませると、リネアの腰に腕を回した。力強く抱き寄せられて、少しあけたはずのイアンデとの距離が、瞬く間に消え去る。ぴたりと体が密着すると、リネアは息を呑んだ。

「……例の、重ねづけ、ですよね……?」
「そうだ」

 愛し合う番が行うという、狼獣人の特別な行為。

 イアンデは律儀にも、先程のアドバイスをそのまま実践しようとしてくれている。目的のために仕方がないとはいえ、一体どんな気持ちで自分に触れてくれているのだろう?

(イアンデ様には、抵抗はないのだろうか?)

 正直、リネアには抵抗があった。イアンデと出会うまで、このように他人に触れてもらったことは一度もなかった。長く婚約していたレンナートでさえ、手すら握ったことはなかったのだから。

 どうしたらいいかわからず、イアンデに抱きしめられたまま、身を縮こませていることしかできなかった。彼のトクトクと鳴る穏やかな心臓の音と、静かな呼吸の音だけがすぐ傍から聞こえる。

 落ち着いた様子のイアンデとは違い、リネアの胸はドキドキと脈打ち始め、呼吸が荒く乱れていく。急激に高まる緊張のせいなのか、熱いイアンデの体にすっぽり包み込まれているせいなのか、背中がじんわりと汗ばんでくるのを感じた。

 リネアの緊張は限界に達しようとしていた。そんなリネアの変化に気づいているのか、いないのか、イアンデはリネアを抱き込んだまま静止している。この状態は、一体いつまで続くのだろう? できればそろそろ、解放してほしいと思った。

「あの……少し、長くないですか……?」
「そうか?」

 遠回しに意思を伝え、イアンデの胸を少し押して離れようと試みるも、回された腕の力が強くびくともしない。そしてなぜか逃げようとするリネアを捕まえるように、イアンデはさらに抱き寄せる腕の力を強めてきた。分厚い胸に押し付けられた頬が、むぎゅう、と潰れるのを感じた。

「あの……? 長いと、お伝えしたんですが……」
「イルヴァとエリク殿のためだろう? 長い方が効果が出ると思う」
「……そう……なんですか?」
「それに、王宮に行くまでしばらく日がある。重ねづけはこれから毎日しなければならない。だからリネアには、できればもっと慣れてほしい。もう少し、頑張れるか?」

 慣れるとは? 頑張るとは……?
 それを意味することを想像し、リネアは顔がますます熱くなる。
 戸惑う気持ちを込めてイアンデを見上げたものの、彼はリネアの答えを促すように、少し首を傾げるだけだった。

(そうだ。頑張らないといけない。できることはなんだってしようと、決めたじゃないか)

 リネアはバクバクと巨大な音をたてる心臓の音を飲み込むようにして、こくりと頷き同意を伝える。
 イアンデの腕の力が再び強まり、きつくその胸に抱き寄せられた。力無く傾いた長耳に、イアンデの鼻がすり、と押し付けられるのを感じた。

「どうだ? 大丈夫そうか?」
「……はい。でも、少しだけ、くすぐったいです。耳」
「不快ではないか?」
「……たぶん、大丈夫、です」
「よかった。リネアはなんだか、いい匂いがするな」
「え? に、匂い、ですか? そうですか、よかったです。嫌な匂いじゃ、なくて」

 スンスンと耳に鼻を寄せられながら、直接匂いを嗅がれていると知り、リネアは内心気が気ではなかった。
 湯浴みで洗っているとはいえ、狼獣人の嗅覚は自分とは比べものにならないほど敏感なのだ。イアンデは一体、そんな場所からどんな匂いを感じ取っているのだろう? リネアは心の中で「うわぁ、うわぁ」と声にならない悲鳴を上げ続けていた。

 けれど「匂い」と聞いたら、どうしても意識してしまう。スン、と吸い込んだ空気の中に、イアンデの匂いがふわりと混じる。その匂いが、自分のどんな感情を呼び覚ますかにはじめて気付いた瞬間、リネアはその気持ちを、心の中だけでそっと呟いた。

(イアンデ様こそ、とても、いい匂い、な気がします)

 兎獣人の自分でも、これだけ近ければさすがにイアンデの匂いがはっきりとわかる。初夏の草原に吹く風のような、爽やかなのに、あたたかい、なんだか落ち着く匂いだった。

(この匂い、好きだ)

 イアンデの胸に顔を埋め、すうっと胸いっぱいに息を吸い込んだ。しかもこうして触れ合っていると、どんどんその匂いが強まっていくのだから堪らない。好きな匂いに体中を満たされて、幸せな気持ちがじわじわと広がる。その安らぎに似た感情の中に、緊張や抵抗がゆっくりと溶けて消えていくのを感じた。

 首を、つつつ、と親指の腹でなぞられて、リネアは思わずピク、と身を反らせた。
 その指を追いかけるように、イアンデの熱い唇が、リネアの肌を這う。柔らかくあたたかな、その心地良さに身を預けていると、唇で触れた場所すべてを丁寧に舐められる。気持ちが良くて、頭の奥がじんと痺れた。

 ――私は今、イアンデ様に匂いをつけられている。
 彼が愛する人にするのと、同じように。

 そう思うと、たまらない気持ちが込み上げた。こらえていた唇から、思わず「ふ」と吐息が漏れる。

 イアンデの耳がピクリと立ち、呼吸が僅かに荒くなる。熱い息が首に触れ、その肌に齧り付くように、口が、舌が、先の尖った歯を這って、リネアはぞくりと体を震わせた。

(……食べられているみたい)

 興奮した息遣いの中、ぐる、と本物の狼のように喉を鳴らしたイアンデは、耐えるように唇を離し、リネアの瞳を覗き込んだ。その金色の瞳は暗く、獰猛な光を発している。なんだかいつもとは別人のように見えて、リネアは少し怖くなった。

「イアンデ様……?」

 不安になり名を呼べば、腕の力が強まり再び抱きしめられる。ドキドキと壊れそうに心臓が鼓動して、気が遠くなりそうになった。

 既に余裕なんて何もないのに、この先に進むことなんてできるのだろうか? 結婚して番になったら、もしかしてこれ以上のことをするのだろうか?
 ただでさえ今、心臓が破裂しそうなのに、そんなことをされたら、この心臓は本当に壊れてしまうかもしれないと思った。

 この先どれだけ回数を重ねても、この行為に慣れることなんてできる気がしなかった。

「リネア……」

 囁かれた名が、耳の奥で響く。それは紛れもないイアンデの声で、リネアはほっと安堵の息を吐いた。
 優しい声色だった。まるで自分は本当に愛されているのかもと、錯覚してしまいそうなほどに。

 こんな自分の思いつきの希望に応えようとしてくれて、力を尽くしてくれて。
 無理にこんなことをさせて申し訳ないという思いが、じわじわと胸の内に込み上げた。

 リネアは今日、ようやく気づいた。
 イアンデは、馬鹿みたいに真面目な人なのだ。国のために、こんな自分なんかと愛し合う番のフリをしようと、全力で努力してくれるくらいに。
 そしてイアンデは、ただ真面目なだけでも、忠義に厚いだけでもなかった。

 ――イアンデ様は、優しい人だ。

 こんなふうに大切な者にするように触れてくれて。本当に愛する者のように抱きしめてくれて。
 リネアの胸に、なんだか泣きたくなるような感情が押し寄せた。イアンデの気持ちを想像し、後ろめたい気持ちが胸を掠める。
 自分ばかりが、いい思いをしている、と感じた。

 この優しさに甘えてしまっていいのかと戸惑いながら、そっとイアンデの首元におでこを擦り付ける。けれどその心地よさに抗いきれずに、目の前のあたたかな胸に顔を埋めたのだった。

 この日から、イアンデとリネアの「重ねづけ」の日々が、始まった。
 イアンデは毎夜リネアのもとにやって来た。
 そして抱きしめ、匂いと噛み痕の両方をつけながら、優しく触れてくれたのだ。


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