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44 忍び寄る影
◆◆◆
グレースはドスドスと音を立てながら早足で歩いていた。そして歩調に合わせるように呪詛の言葉を吐く。
むかつく、むかつく、むかつく、むかつく!
帝国人の平民と帝国人の公爵令息。
思えば初対面のときから気に食わなかった。エカチェリーナ様の死なんて気にする素振りも全く見せずに、のほほんと学園生活を謳歌して。あまつさえ、あの女は皇女殿下の婚約者であるリーズ王国の王太子殿下に臆面もなく近付いて。
絶対に、許せない!
彼女はどんどん校舎から離れていく。
今日はもう授業どころではなかった。むかむかとした気持ちが胃の奥底から上がってくる。吐き出してすっきりするのなら、今すぐにでもここで全てを出してしまいたい気分だ。
忌々しい帝国人たち……あの二人の顔を思い浮かべるだけで激しく心が乱されて、どうにかなりそうだ。
「あら、パッション伯爵令嬢じゃない? こんなところでどうなさったの? もう授業中でしょう?」
グレースが顔を上げると、帝国人とはまた別の嫌いな人物と目が合った。王太子殿下の婚約者候補のフローレンス・フォード侯爵令嬢である。
「……フローレンス様こそ、どうされたのですか? もう完全に遅刻ですよ」と、彼女は嫌味を込めた質問で返す。
この女のことも気に食わない。
まだ正式に決まっていないのにエカチェリーナ様を差し置いて、王太子殿下の婚約者面をして。
周囲は侯爵令嬢のことを褒め称えるが、単に自己顕示欲の強い性悪な女じゃない。こんなのが未来の王太子妃だなんて、あたしは絶対に認めない。
「あぁ、わたくしは家の用事があったので予めに許可をいただいていたのよ。ご心配、ありがとう?」と、侯爵令嬢はくすりと笑う。なんだか馬鹿にされたような雰囲気にグレースは気色ばんだ。
「どうしたの? なにを怒っていらっしゃるの? わたくしで宜しければ相談に乗るわよ?」と、侯爵令嬢は怒る彼女に追い打ちを掛けるように、素知らぬ顔で言う。
「別に……なんでもありませんので」
グレースが侯爵令嬢を避けて足を進めようとした折も折、
「ひょっとしてリナさんのこと?」
「……っ!!」
図星を指された一言にグレースは硬直した。その時ちょうど太陽が雲に隠れて、暗い影がじわじわと彼女を侵食していく。
「あら、その様子だと正解のようね。……実はわたくしも彼女には困っているのよ」と、侯爵令嬢は軽く息を吐いた。
「困っている……?」
「そうなの。言い辛いけど、リナさんは平民だから令嬢のマナーやルールを知らないでしょう? だから、現に王太子殿下やストロガノフ公爵令息に身分不相応にも纏わり付いているわ。おまけに平民が王弟殿下のご令嬢の家庭教師や付添人だなんて……。このままでは国中の貴族はもちろん、王家にまで悪い影響を及ぼす可能性があるわ。あなたもそう思わない?」
「…………」
グレースの固くなっていた筋肉が少しだけ解れた。
この女、意外に分かっているじゃない。そうよ、全てがあの帝国人の平民に責任があるのよ。平民が調子に乗ってズカズカと土足で貴族の世界に入って来たのがそもそもの原因なんだから……。
侯爵令嬢は彼女の沈黙を肯定と捉えて話を続ける。
「あの子はなにも知らない振りをして、わたくしたち貴族の世界をどんどん破壊していっているわ。しかも、王家の伝統や規律までも。今現在もあの子のせいで学園の風紀が乱れているしね。これはわたくしたち貴族が見て見ぬ振りをしてはいけないことだと思うの。彼女の行為がどれほど危険なものか、一度あの子自身が同じような体験をしてみないと分からないかもしれないわね。……それこそ大切なものを失う経験とか、ね?」
「そうかも……しれません」
グレースがやっと返事をした。彼女の瞳は揺らいでいた。
侯爵令嬢は微かに笑みを浮かべて、
「それを自分で気付いて成長してくれるといいんだけど……ほら、リナさんは頭が良いから機会を与えたら自身で学ぶことができる子だと思うの。ずっと平民として生きてきて学園で初めて貴族の世界に足を踏み入れたから、舞い上がっているだけだと思うから。冷静になればきっと身分差を自覚できるはず。だから、わたくしたちはもう少し見守りましょうか? ね、伯爵令嬢?」
「…………はい」
侯爵令嬢は既製品の学園の制服がまるで夜会のドレスかと錯覚させられるような優雅な足取りで去って行った。
グレースはその場に一人ぽつねんと取り残される。灰色の影がみるみる黒く滲んでいった。
それからグレースは、ふらふらと王立公園まで歩いて行き、ベンチに座ってぼんやりと空虚な時間を過ごした。
頭の中には水害のときの思い出やエカチェリーナ様のこと、学園に入学してからの出来事、帝国人、平民、そして平民……それらのことがぐるぐると駆け巡って彼女を刺激する。なんだか目眩がした。
「フローレンス様の言う通りだわ……」
侯爵令嬢の言い分はごもっともだと思った。
あの平民はたった一人であたしたち貴族の世界を踏みにじった。あの女は涼しい顔をして、あたしたち貴族から奪っていく。そして……エカチェリーナ様の大切な人までを。
これは、看過できない問題だ。
このまま放置していれば、あの女は王太子殿下にもっと擦り寄って籠絡して……考えたくもないが、殿下の愛妾なんかになる未来もあるかもしれない。それこそ、エカチェリーナ様への最大の侮辱だ。ご自身は婚姻できずに、同じアレクサンドル人の平民が元婚約者と閨をともにするなんて。
侯爵令嬢はもう少し見守ろうと言った。だが、そんな悠長に構えて良いのだろうか。
今日だって公爵令息と仲良く登校していたし、欠席している間は王太子殿下と公爵令嬢が見舞いに来たと聞いた。平民なんかのために、わざわざ王族が……?
そんなの、間違っている。
あたしたち貴族が今すぐにでもあの女を矯正しなければならないんだわ。
グレースは顔を上げた。
「大切なもの……」
そしておもむろに立ち上がり、学園へと戻って行く。
黒い影はたちまち彼女を支配して、胸の中に渦を巻いた。
◆◆◆
侯爵令嬢はニヤリと歪んだ笑みを漏らした。
上手く種をまけた。邪魔者たちは潰し合って、同時に消えればいい。
立場を弁えない平民と、エカチェリーナ派の伯爵令嬢。王太子妃として貴族世界を支配するために、不穏分子は今のうちに全て拭い去らなければ。
暗い影は集約されるように、するすると彼女の中に入って行った。
グレースはドスドスと音を立てながら早足で歩いていた。そして歩調に合わせるように呪詛の言葉を吐く。
むかつく、むかつく、むかつく、むかつく!
帝国人の平民と帝国人の公爵令息。
思えば初対面のときから気に食わなかった。エカチェリーナ様の死なんて気にする素振りも全く見せずに、のほほんと学園生活を謳歌して。あまつさえ、あの女は皇女殿下の婚約者であるリーズ王国の王太子殿下に臆面もなく近付いて。
絶対に、許せない!
彼女はどんどん校舎から離れていく。
今日はもう授業どころではなかった。むかむかとした気持ちが胃の奥底から上がってくる。吐き出してすっきりするのなら、今すぐにでもここで全てを出してしまいたい気分だ。
忌々しい帝国人たち……あの二人の顔を思い浮かべるだけで激しく心が乱されて、どうにかなりそうだ。
「あら、パッション伯爵令嬢じゃない? こんなところでどうなさったの? もう授業中でしょう?」
グレースが顔を上げると、帝国人とはまた別の嫌いな人物と目が合った。王太子殿下の婚約者候補のフローレンス・フォード侯爵令嬢である。
「……フローレンス様こそ、どうされたのですか? もう完全に遅刻ですよ」と、彼女は嫌味を込めた質問で返す。
この女のことも気に食わない。
まだ正式に決まっていないのにエカチェリーナ様を差し置いて、王太子殿下の婚約者面をして。
周囲は侯爵令嬢のことを褒め称えるが、単に自己顕示欲の強い性悪な女じゃない。こんなのが未来の王太子妃だなんて、あたしは絶対に認めない。
「あぁ、わたくしは家の用事があったので予めに許可をいただいていたのよ。ご心配、ありがとう?」と、侯爵令嬢はくすりと笑う。なんだか馬鹿にされたような雰囲気にグレースは気色ばんだ。
「どうしたの? なにを怒っていらっしゃるの? わたくしで宜しければ相談に乗るわよ?」と、侯爵令嬢は怒る彼女に追い打ちを掛けるように、素知らぬ顔で言う。
「別に……なんでもありませんので」
グレースが侯爵令嬢を避けて足を進めようとした折も折、
「ひょっとしてリナさんのこと?」
「……っ!!」
図星を指された一言にグレースは硬直した。その時ちょうど太陽が雲に隠れて、暗い影がじわじわと彼女を侵食していく。
「あら、その様子だと正解のようね。……実はわたくしも彼女には困っているのよ」と、侯爵令嬢は軽く息を吐いた。
「困っている……?」
「そうなの。言い辛いけど、リナさんは平民だから令嬢のマナーやルールを知らないでしょう? だから、現に王太子殿下やストロガノフ公爵令息に身分不相応にも纏わり付いているわ。おまけに平民が王弟殿下のご令嬢の家庭教師や付添人だなんて……。このままでは国中の貴族はもちろん、王家にまで悪い影響を及ぼす可能性があるわ。あなたもそう思わない?」
「…………」
グレースの固くなっていた筋肉が少しだけ解れた。
この女、意外に分かっているじゃない。そうよ、全てがあの帝国人の平民に責任があるのよ。平民が調子に乗ってズカズカと土足で貴族の世界に入って来たのがそもそもの原因なんだから……。
侯爵令嬢は彼女の沈黙を肯定と捉えて話を続ける。
「あの子はなにも知らない振りをして、わたくしたち貴族の世界をどんどん破壊していっているわ。しかも、王家の伝統や規律までも。今現在もあの子のせいで学園の風紀が乱れているしね。これはわたくしたち貴族が見て見ぬ振りをしてはいけないことだと思うの。彼女の行為がどれほど危険なものか、一度あの子自身が同じような体験をしてみないと分からないかもしれないわね。……それこそ大切なものを失う経験とか、ね?」
「そうかも……しれません」
グレースがやっと返事をした。彼女の瞳は揺らいでいた。
侯爵令嬢は微かに笑みを浮かべて、
「それを自分で気付いて成長してくれるといいんだけど……ほら、リナさんは頭が良いから機会を与えたら自身で学ぶことができる子だと思うの。ずっと平民として生きてきて学園で初めて貴族の世界に足を踏み入れたから、舞い上がっているだけだと思うから。冷静になればきっと身分差を自覚できるはず。だから、わたくしたちはもう少し見守りましょうか? ね、伯爵令嬢?」
「…………はい」
侯爵令嬢は既製品の学園の制服がまるで夜会のドレスかと錯覚させられるような優雅な足取りで去って行った。
グレースはその場に一人ぽつねんと取り残される。灰色の影がみるみる黒く滲んでいった。
それからグレースは、ふらふらと王立公園まで歩いて行き、ベンチに座ってぼんやりと空虚な時間を過ごした。
頭の中には水害のときの思い出やエカチェリーナ様のこと、学園に入学してからの出来事、帝国人、平民、そして平民……それらのことがぐるぐると駆け巡って彼女を刺激する。なんだか目眩がした。
「フローレンス様の言う通りだわ……」
侯爵令嬢の言い分はごもっともだと思った。
あの平民はたった一人であたしたち貴族の世界を踏みにじった。あの女は涼しい顔をして、あたしたち貴族から奪っていく。そして……エカチェリーナ様の大切な人までを。
これは、看過できない問題だ。
このまま放置していれば、あの女は王太子殿下にもっと擦り寄って籠絡して……考えたくもないが、殿下の愛妾なんかになる未来もあるかもしれない。それこそ、エカチェリーナ様への最大の侮辱だ。ご自身は婚姻できずに、同じアレクサンドル人の平民が元婚約者と閨をともにするなんて。
侯爵令嬢はもう少し見守ろうと言った。だが、そんな悠長に構えて良いのだろうか。
今日だって公爵令息と仲良く登校していたし、欠席している間は王太子殿下と公爵令嬢が見舞いに来たと聞いた。平民なんかのために、わざわざ王族が……?
そんなの、間違っている。
あたしたち貴族が今すぐにでもあの女を矯正しなければならないんだわ。
グレースは顔を上げた。
「大切なもの……」
そしておもむろに立ち上がり、学園へと戻って行く。
黒い影はたちまち彼女を支配して、胸の中に渦を巻いた。
◆◆◆
侯爵令嬢はニヤリと歪んだ笑みを漏らした。
上手く種をまけた。邪魔者たちは潰し合って、同時に消えればいい。
立場を弁えない平民と、エカチェリーナ派の伯爵令嬢。王太子妃として貴族世界を支配するために、不穏分子は今のうちに全て拭い去らなければ。
暗い影は集約されるように、するすると彼女の中に入って行った。
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