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第十六話(三)
しおりを挟むそのとき、彼の足元に何か紐状のものが絡み付く感触がした。見ると、黒々とした大量の髪の毛のようなものが、足首から上へ上へと巻き付いていっている。
「水刃!」
彼はすかさず妖術を放ち、数十本の鋭い水の刃でそれを切り刻む。細かく切られて床に落ちたそれらは、黒煙となって春菜の身体に戻っていった。
紫流の険しい顔が、ますます不快感で歪む。
「これは……邪の力だな!?」
邪――それは、霊力でも妖力でも神力でもない、ただの無。
あるいは、ただの悪意の塊。
邪は無機質に生物を悪に染めて呑み込む。そこに目的などという感情は持ち合わせていない。
ただ目の前にあるものを黒に変え、魂ごと消滅させるだけだ。
「あら? よく分かったわねぇ。無能だと思ってたけど、意外に頭が回るのね」
「黙れっ!! 貴様、何が目的だ? なぜ、光河様に近付いた!?」
春菜は少し目を瞬いたあと、あどけない表情で答えた。
「別にこれといった目的なんてないわ。わたしのような素晴らしい人間が、龍神の花嫁になるべきだって思っただけよ。
――あぁ、そうだわ。強いて言えば……」
にわかに、春菜の瞳の色が変化した。それは真っ黒で、ただの『無』だった。
だが、その中に禍々しい憎悪がうずまいているのが見て取れて、紫流はぞくりと背筋が凍った。
「強いて言えば……姉が苦しんで苦しんで苦しんだ果てにどん底のどん底の地獄に堕ちて、それからも永遠に苦しみ続ける姿が見たいわ」
「っ……。貴様は…………!」
おぞましい感覚が彼の全身を駆け抜けて、総毛立った。目の前の生き物は、もはや人間ではなく、常軌を逸したなにかだった。
春菜は「きゃはは」と声を上げて笑う。
「そうよ。姉を苦しめるためにも、白龍も黒龍も、わたしのものにしなきゃ。あの女の目の前で二人から愛の言葉を捧げられるのよ。最高でしょう?」
「水刃・百連!」
次の瞬間、紫流を取り囲むように百の水の刃が顕現し、春菜へと飛んでいった。鋭い刃は水中を泳ぐように流れていく。
「貴様は光河様の花嫁になるべき者ではなかった! ……いや、存在すべきではなかった!」
刃の群れは春菜に直撃した。水飛沫が舞って、小さな彼女の影が隠れる。
仕留めた、と彼は確信したが――……。
「あなた……龍神の花嫁に手を上げるなんて、覚悟はできているのね……?」
眼前には、無傷の春菜が立っていた。
「馬鹿な……攻撃は当たって……」
信じられない光景に、彼は大きく目を見開く。
いくら龍神の花嫁になれる霊力を持っているとはいえ、相手は人間だ。しかも霊力が弱まりつつある今、龍族の彼が負けるはずがない。
春葉は驚愕する紫流の顔がおかしくて、くすくすと笑いだした。
そして、おもむろに懐から巾着を取り出す。するすると紐を解いて、中身が露わになった。
「これ、なぁんだ?」
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