夢魔

木野恵

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ページを閉じて、春まで眠って

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 本の虫と気さくなやつと三人で一緒に、狐の名前をもらうタイミングを伺っていると、あの子が母親から蜂について口を酸っぱくしながら教え込まれている様子が見えた。

 それだけでなく、あの子の周りの子が蜂に刺されて痛い目に遭っている出来事まであって、心配でたまらなくなった。

「確かに、蜂って危ないよなあ。凶悪な顔してる奴は多分心配ないが、可愛らしい顔してる奴もいるから蝶々とかに触る感覚で捕まえようとしたら危ないぞ」

 気さくなやつの言葉は最もだと思った。

 あの子は動物を捕まえるのが本当に大好きで、猫ですら捕まえようと追いかけまわしてしまうくらいだ。

 ミミズにトンボ、蝶々にトカゲ、カエルになめくじ、かたつむり、バッタとコオロギ、カブトムシやクワガタムシ、とにかく目につく生き物なんでも……いや、犬や蛇以外の生き物ならなんでも捕まえようとしていたくらいだ。

「近寄ると危ないリストに蜂も入れるべきだね。とびきり怖い夢を見せないと」

 そう言いながらどんな悪い夢を見せるか考えていると、月の子がひょっこりと顔を出した。

「久しぶり。この三人最近よく集まってるよね。ずっとあの子のこと見守ってるの?」

 月の子は少し感心したように話していて、思わず誇らしげになってしまう自分がいた。

「僕は一途なんだ。ずっと見守るつもりでいる。たとえ結ばれなくても、あの子が他の誰かと結ばれても、ずっとずっと応援していたいんだ」

 最後の方は自分で話していてちょっぴり切なくなったけれど、それでも気持ちが揺らいだりしなかった。

 そんな僕の気持ちに気づいてか、月の子は少しだけ悲しそうな顔をしたけれど、すぐに無表情になって、気さくなやつと本の虫に目を向けた。

「じゃあ、他の二人はどういうつもりで? いつくらいから?」

 月の子の質問にどう答えるか悩んだのか、本の虫と気さくなやつはお互いの顔を見てから月の子へ一緒に視線を向けた。

「どこからどう話すべきか。俺らは恋路の応援かな。うーん、いつからだったか」

 気さくなやつが考え込んでいると、本の虫がいつも抱えている本と別の本を取り出して開き、月の子にみせていた。

 本のカバーが雪の結晶と何かの種を思わせるデザインでできていて、なんとなくあの子が頭に浮かぶものだった。

「あれ? もしかして……」

 あの子の生活記録を本に書き残していたのかと聞こうとする前に、本の虫が内容を僕にも見せてくれた。

 本の中身はというと、絵日記のようにあの子の生活している様子や記憶を本に記録していて本当によくできていた。

 しかも、絵日記の部分があの子を第三者視点から見た映像記録のようになっていて、文字を読まなくてもどんな風に出来事が起こっていたのかを詳細に映していて思わず感動してしまった。

「そういうことなら任せてよ。うちって植物毒だけじゃなくて動物毒にも詳しいから」

 月の子は張り切って蜂の怖い夢を作るのに協力してくれたけれど、難しくて伝わるのかどうか首を傾げてしまう出来栄えになった。

「上手く伝わるかな?」

 不安を口にしていると、月の子はにっと口元をほころばせて自信満々そうだ。

「あの子って賢いんでしょう? この夢を見たらなんとなくでも怖いって感じるはず。あの子の賢さを試させてもらう目的も兼ねて見せてみようよ!」

 自信たっぷりに話してくれているけれど、はたして伝わるのかどうか……。

 本の虫はそれを聞いて中身を確認し、少し渋い顔をしていたが多分伝わらないからセーフと感じたのか許可をだしていた。

「……禁忌? じゃない?」

 少し不安になりながらも、月の子が作った悪夢を見るあの子のことを見守った。

 怖い夢にうなされているあの子の手を握ってあげられたらいいのにな。

 月の子が思った通り、あの子はなんとなくでも怖がっていて蜂に対する警戒心を高めてくれた。

「すごいな、あれで伝わるんだ……」

 心から感心していると、月の子は頬を赤らめながらあの子をみていた。

「私の見込んだ通りだ! また今度夢に遊びに来てくれた時一緒に遊んでいい? 遊びたい! 遊ばせて! 仲良くなりたい!」

 人が大嫌いで、人見知りで、いつも遠巻きに見ているだけで輪に参加しようとしない月の子が珍しく興味を持っただけでなく、積極的に関わりたがるのなんて初めて見た。

 そういえば、今日も自分から声を掛けてきていつもと様子が違ったなあ。

 のんきにそんなことを考えていると、本の虫が渋い顔をしているのが目に入った。

「……禁忌だった」

 本の虫が眉間にしわを寄せているのをみて、月の子は慌てて両手を振っていた。

「もうこっそり教えないからっ。この子の賢さよくわかったし、今度はそういうの見せないから」

 珍しくテンションが高い月の子を見ていて、もしかすると今まで寂しかったんじゃないか、話が合わなくて、話せる人がいなくて輪に入ろうとしなかっただけなんじゃないか。

 そんなことを思っていると、こちらに背を向けうさぎのようにぴょんぴょん跳ねてから振り向いた。

「あの子がきたら絶対教えてね! ……できれば二人で遊びたいな。たくさんお話したいことができた!」

 顔を赤くしながらもじもじしていて、思わずうなずいてしまった。

 本当は僕も二人きりでお話したりしたいんだけど、月の子はまだあの子と二人で遊んだことがないから……。

「わかった。心から楽しめるといいね!」

 月の子がこんなにはしゃいでいるのが珍しくて、嬉しくて、あの子に友達ができるのも嬉しくて自然と出た言葉だった。

 僕はまた今度で良い。

「うん! ありがとう! いつもありがとうね、優しい人。いつかお礼させてよね」

 月の子はトマトや林檎のように顔を赤くしながらどこかへ去っていった。

「いいのか? あの子と過ごす貴重な時間をあげちまってさ。三人で一緒に遊べばいいのに、なんでわざわざ二人で遊びたがるんだろうな。お前というクッションがいれば仲良くなりやすいだろうに」

 気さくなやつが不思議そうに言うのに対し、本の虫は無表情に答えていた。

「デリカシーゼロ」

「悪かったな、デリカシーなくて」

 二人のやり取りを見て思わず笑ってしまっていると、気さくなやつが眉をひょいと上げながら尋ねてきた。

「お前にはあいつがどうして二人で会いたいかわかるか? 俺には悪いがさっぱりだ。隠そうとされたらさっぱり読めないからな」

 そういって首を左右に振っているのに対し、少しだけ俯いて考えてから答えた。

「女の子同士の会話とか……? 僕たちの輪に入れなかった理由があって、それがあの子相手なら気楽になれて、もしかすると理解者になってくれる期待があるんじゃないかなと。わからないけどね。月の子があんなにはしゃぐんだから、似たようなところ、通じ合えそうな何かがあったんじゃないかな」

 真剣に考えて答えると、気さくなやつは口笛を鳴らした。

 本の虫は感心したように顎に手を当て「おー」なんて声をあげながら褒めてくれた。

「デリカシーある」

 顔が熱くなるのを感じながら頭をかいて笑っていると、気さくなやつが複雑そうな笑みを浮かべて黙っていた。

 どこかひっかかる……。

 しかしそれがなにかはわからない。わからないけれど、デリカシーがあるかどうかを素直に喜んでいいのかどうか考え込んでしまうのだった。

「さ、キツネの名前、キツネームをいただくために様子見再開しようぜ」

 首を傾げていると、気さくなやつが手をパンパンと鳴らし、あの子の様子を再び三人で見守った。

 あの子は怖かったことも辛かったことも気にしていないのか、楽しいことに満ち溢れた生活を心から楽しんでいた。

 もしかすると、一喜一憂しているのは僕だけで、あの子は、まったく辛くもなんともないのだろうか。

 あの子は大好きだと言ってくれたけど、それも本当は全然気にも留めていないんじゃないか。

 そんなことを考えはじめると寂しさに胸がつぶれそうだったそのときだ。

「久しぶり! みんな元気ー?」

 セラピストが久々に顔を出して挨拶してくれた。

「三人ともずっとあの子を見守ってるんだね。あの子のこと、本当に大好きなんだね」

 にこにこしながら話してくれるので、セラピストと話すときはいつも心が穏やかになれる。

「そうなんだ。あの子のことが本当に大好きで……」

 話していると胸がチクリと痛んだ。

 振り向いてくれなくてもいい、誰かと結ばれるのを応援する形になってもいい。だったら、この胸の痛みは一体何だろう?

 本当はあの子と結ばれたい気持ちを捨てきれずにいるのだろうか、それともほかの……?

 どのみち僕は夢魔、精神世界の住人で、あの子は人間だ。どのみち結ばれはしないんだ。

 そうやって自分に言い聞かせるけれど、胸の痛みは増すばかりで治まることを知らなかった。

 苦しいなあ……。

 苦しくてたまらなくて、どうにかして痛みをおさめたかったのに、おさめ方がまったくわからなかった。

 せめて、どうしてこんなに痛くて苦しいのか、理由と原因がはっきりしてくれたらいいんだけどな。

 黙り込んでしまったせいで、セラピストがとても心配そうな顔と雰囲気を出しながらじっと見つめていた。

「あはは、なんでもないよ」

 心配してくれる気持ちは嬉しかったけど、本当に何でもない。これは僕の問題だ。

 気をそらすためにあの子の話題を振ろうとしたけれど、セラピストは真剣そのもので口を開く前に遮られてしまった。

「とっても苦しそうで痛そうだよ。一人で抱え込まないで? 話だけでも聞くよ。話せば楽になれることはあるし、もしかしたら、自分じゃ気づけなかったことも他の人が聞いたらわかることかもしれないよ? 客観的視点による解決策!」

 セラピストは聞く気満々だし、そうやって気遣いをしてくれているのに反故にすることはできなかった。

「じゃあ、お願いしようかな。しんどくなったり、難しすぎると思ったり、わからなかったら遠慮なく言ってね。苦しんでまで寄り添ってもらっちゃうと辛いから」

「わかった! それじゃ、聞かせてもらえるんだね?」

 セラピストは目を輝かせながら、僕が口を開くまで黙って待ってくれている。

 抱え込んだ胸の傷を一緒に背負ってもらうのが申し訳ない気持ちと、聞いてもらえることが素直にありがたい気持ち、断れなかったうしろめたさ、話を聞けるのを嬉しそうにしてもらえたことによる安心感とが同居し、ないまぜになっている心を抱きしめながら、今自分がどうしてこんな気持ちなのか原因がわからないということを素直に話そうと思った。

「どうしてこんなに苦しいのか、理由も原因もわからないんだ」

 話はこれで終わってしまうかもしれないという切なさと、どこから話せばいいのかが本当にわからないという混乱した気持ち、セラピストならば上手に聞いてくれるかもしれないという期待とが混ざりながら発した言葉だった。

 セラピストは真剣な面持ちで考え込んでいる。

「わからないことを話せって言われても説明するのが難しいものね。じゃあ、その気持ちを抱くまでに何を考えていたのか、何を思っていたのか、何をしていたのか、なにがあったか、ゆっくり思い出してお話してみることはできるかい?」

 そう言いながら、セラピストは白紙の紙とペンをどこからともなく取り出し、いつの間にか用意された机の上にそれを置いた。

 さらに気の利いたことに、椅子二脚も用意されていて、そのうち一つを引いてどうぞと手で示してくれた。

 いつの間にか本の虫と気さくなやつがいない空間に来ていることにも気がつき、本気でカウンセリングしようとしてくれているんだとわかって心が少しあたたかくなった。

 促されるまま腰かけ、ゆっくり思い出していると、目の前にそっと紙とペンをワンセット差し出してもらえた。セラピストの方にも白い紙とペンがワンセット置いてあり、お互いメモをとって話し合おうということなのだとわかった。

 ゆっくり思い返していてふと気になったことがあり、セラピストに確認をとろうと思い立った。原因がなんであっても、酷く責められたり距離を置かれないかどうかが心配になったからだ。

「もし、この相談で理由や原因がわかっても、何か悪いことが起きたりとかそういうのはないよね?」

 あの子を思っていて苦しくなったことをあの子のせいだと断じていじめたりしないか、あの子に気づかせるために何かしようとされないか、いろいろなことが心配になった。

「大丈夫だよ。うーん、君がどうしたいか次第だからね、最終的に。その様子だと理由と原因に思い当たったんじゃないかな?」

 セラピストが穏やかににこにこ微笑んでくれているけれど、それに対して頷けるような頷けないような、複雑な気持ちだった。

「それがね、そうと言えるような言えないような状態なんだ。あの子のことを思っていると胸が苦しくて痛くて。大好きであることに間違いはないのに、他の誰かと結ばれても大好きだし応援したいって気持ちなのに、どういうわけか苦しいんだ。悲しくて切なくてむなしくて、痛いんだ。どうせ僕たちは結ばれることのない、住む世界の異なる人間だって、わかっているのに、わかってるし割り切っているはずなのに」

 せっかく用意してくれた紙もペンも使うことはなく、溢れだした気持ちを止めることはできなかった。

「わかっていても、辛くて苦しいんだね。それは。原因も理由も君の中にないんじゃないかな? 原因は、わかっている君じゃなくて、あの子の方にあるんじゃないかな? 君は割り切っているし理解していると仮定するけど、あの子の方はどうだろう? 君の気持ちに気づいていないのが苦しいんじゃない?」

 セラピストは真剣に考え、眉間にしわを寄せながら考えて慎重に答えてくれた。

「相手に気づかれないまま自分の気持ちに折り合いをつけるのが辛いんじゃないかな。本当は気持ちを知ってほしいのに、相手は一つも気づいていないのが苦しいんじゃない? これは一緒に君とあの子を見てたから思ったことなんだけどね。君の気持ちの大きさはすごいけど、あの子は鈍感なのか全然気づいてすらいないように見えて……。他のいろいろなものよりは特別な扱いを君にしているってわかってるけれど……僕たちも一緒に見ていて少し切ないからあんまりこなくなったというか……」

 最後の方はぼそぼそと話すような調子だったので苦笑してしまった。

「だから最近、君も月の子も色惚けも見かけないんだ」

 気まずい様子でそう呟くと、セラピストも苦笑いになってゆっくり頷いた。

「君はそんなにあの子のこと大好きで愛してるのに、気づかれてないのって切ないじゃん? 一緒に見守ってて辛くて……」

 これにはぐうの音もでなかった。

 辛いのは自分だけじゃなく、周りで支えてくれているみんなも同じだったということらしい。

 何も言えずに黙ってしまっていると、セラピストがしばらく考え込んでいる様子を見せてから口を開いた。

「あの子に気持ちを伝えちゃったらどう?」

 知ってほしいはずなのに気づかれたくない気持ちがわいてきて首を縦に振ることができなかった。

「怖い?」

 そんな様子を見たセラピストの問いかけに迷わず頷くと、優しい笑みを浮かべながら受け止めてくれた。

「否定されるの、受け取ってもらえないの、一番怖くて辛いことだもんね」

 静かに頷くと、セラピストはうんうんと一緒に頷いて共感してくれた。

 勇気を出して実行はできないけれど解決策が見つかり、自分の本音に気がついたからか、少しだけ心は軽くなったように思えるけれど、問題が解決できていないからかまだ痛んだ。

「君に勇気の魔法をあげるよ。あの子が怖がってる犬の姿で一緒に遊べたんでしょう? だったらきっといけるよ。あの子がどういう大好きとして受け取るかがわからないけれど、きっとうまくいくから。協力するし、ちょっとずつ勇気を出してみる練習するのはどうかな。蜂さんのこと警戒した状態だけど好きになれるよう、君を蜜蜂として登場させて可愛くて癒される夢を見せてみようと思うんだ。犬と同じで、怖がってる生き物なのに君が夢に出た時とても仲良くなれたら自信になると思うんだけど、出てくれる?」

 セラピストの提案は魅力的だったし、いきなり気持ちを伝えろというわけではなかったので快くうなずいた。

「よし、じゃあ早速見せよう。まずは本の虫と気さくなやつのところに戻るのが先だけどね。ごめんね、急にここに連れ込んじゃって」

 セラピストがあははと笑いながら指をパチンと鳴らして元の場所へと戻った。

 元の場所に戻ると、気さくなやつと本の虫が驚くでもなく、ようやく戻ってきたかと言って迎えてくれた。

 セラピストのカウンセリング空間はすごく便利だけど少しだけ怖い。プライバシーが守られていいけれど、招かれた側はいつの間にか迷い込んでいるようなものだ。

 しかし、一緒にいた人たち、つまり外側からはそこに特別な空間があると認識できるし、カウンセリング中だと一目でわかる表示があるから心配かけずにすむ。

「どうだった?」

 開口一番気さくなやつが心配そうに声をかけてくれた。

「すごく助かった」

 どう答えたものか悩み、結局最もシンプルな返事をすることにした。

 気さくなやつは少しだけ安心したように微笑んでいる。本の虫はその後ろで無表情なまま本をぎゅっと抱きしめていた。

「これから優しい人とあの子に可愛らしい蜂の夢を見せようと思うんだ! とっても素敵な花畑に蜜蜂さんがあの子を招待する夢だよ! あの子に蜜蜂さんを看病してもらって、治った蜜蜂さんが神秘的な花畑にご招待して一緒に遊ぶ夢なんだ」

 セラピストの提案に本の虫は表情をほころばせ、気さくなやつはにっこりと笑った。

 禁忌に触れていない夢の内容だったからか、本の虫はこれ以上なく嬉しそうだ。

「……名案」

 本の虫は夢を編む手伝いに積極的に参加していた。

「なんかいつになく上機嫌だな。もふもふだけじゃなくて蜂も好きだったのか? そういや、ミツバチとかクマバチもモッフモフだったな?」 

 そんな様子を見た気さくなやつは茶化すような調子で話しかけている。

 ご機嫌な様子を崩さないまま本の虫は肘鉄を気さくなやつに食らわせ、気さくなやつは最小限のダメージですむように体を逸らして耐えていた。

「ったく、この暴力女が」

「……禁忌野郎」

「ああはいはい、いつも禁忌破ってすいませんねえ~」

「セラピストは禁忌少ない。嬉しい」

「はいはい……禁忌禁忌うるさいなあ。そんなに禁忌が好きならキンキでも食わせてやろうか?」

 そんな二人は夫婦漫才をしているようで、見ていて思わず笑ってしまうのを止められなかった。

 しまったと思ったけれど、セラピストも気さくなやつも、本の虫だって僕の笑顔を見るとにっこりと微笑んでくれた。

「……えへへ」

 照れくさくて、照れ隠しに笑うと、みんな安心したように笑ってくれるのが温かいけど、少しだけ申し訳なくもなるのだった。

 心配、かけてたんだろうな。

 みんなで織り成す夢はとても可愛くて癒しの多い物になった。

 夢が完成し、怪我する蜜蜂は僕が、花畑で出迎える仲間の蜜蜂を三人が担当することにした。

 

 夜になり、あの子が眠りについたら早速夢の中へと招待した。

 それはもう幸せな夢だった。

 あの子は怪我をしているのが蜜蜂とはいえ蜂だからか警戒していたけれど、刺されないよう工夫しながら僕をつまみあげ、砂糖水を作ってちょっとずつ飲ませてくれた。

 そのあとは秘密の花園、蜜の溢れる楽園であの子と甘い香りに包まれながら穏やかに過ごした。

 楽しそうに笑いながら一緒に蜜を飲んで、仲間の蜜蜂とブンブン飛び回りながら花畑を満喫している夢。

 幸せだと思った。ずっと続けばいいのに。

 そんな気持ちを抱けば抱くほど時間はあっという間に過ぎ去っていく。

「どう? 自信、もてたかな?」

 セラピストが心配なのか、上目遣いで尋ねてくる。

「うん。あの子にとって、僕は多分特別なんだって、思えるよ。でも、やっぱりあの子が14歳、16歳になるまでは思いを告げることもなにもしないでおこうって気持ちは変わらないんだ。ありがとうね、自信をつけさせてくれて。もし見守るのが辛いならそれまで……」

 言葉の続きを遮るかのように、セラピストがこれ以上ないくらいの笑顔を見せてくれた。

「最後まで言わなくたって……。君は誰よりも優しいから……。必ずまたくるからね。だいたい10年後くらいだね? 君のアプローチを僕にも手伝わせてもらえるかい?」

 セラピストの申し出はすごく嬉しくて思わず頷いてしまいそうだったけれど……。

「見守ってくれてるだけで嬉しい。見守りながら気さくなやつや本の虫と談笑しててほしい」

「わかった! 上手くいくことを願ってるよ! それじゃ……また話を聞いてほしくなったら呼んでほしいな。10年後じゃなくても、飛んでくるから」

 セラピストは手を振ってどこかへ行ってしまった。

「良かったな、応援してくれる人ができて」

 気さくなやつが声を掛けてくれた。本の虫はその後ろで少しだけ微笑んでいる。

 ゆっくりと頷き、微笑むとにっこりと二人が笑い返してくれて心が温かくなる。

 それからも、来る日も来る日もあの子を三人で見守った。

 保育所で飼っているウサギに興味を持って、抱っこしようとしたけれど、わざわざあの子が抱っこしようとしたウサギを奪い取りに来た子と喧嘩になり、先生も相手の子を優先させたし、引っ張られるウサギが可哀想だからと手放す事件があった。

 本当はウサギを抱っこしたかったのに、我慢して他の楽しいことをしていたけれど、ウサギをちらちら見て気にしていた。

 女の子の集団はウサギ小屋と柵の中を占拠していて、あの子が興味を持って近寄ろうとすると、こっち来るなといったり、触るとウサギが可哀想と言って散々だった。

 今度ウサギを抱っこできる夢でもどうかと考えていたけれど、かえって寂しい気持ちにさせる気がして提案もなにもできなかった。

 相談があってしばらく経ったある日のこと、心配したのか、10年後と言わずセラピストがちょくちょく顔を見せては立ち去り、本当にたまに色惚けが顔を出しては立ち去った。月の子はといえば、あの子はまだ遊びに来ないのか、二人きりで遊べないのかとしきりに顔を出していたけれど、あの子はなかなかこちらへ遊びに来てくれなかったので、寂しそうに立ち去ることばかりだった。

「いっそ、二人きりの夢でも作って見せようかな」

 月の子がそう呟いてからはめっきり見なくなった。二人で遊ぶのに良い夢を考えて一生懸命作っているところなのかもしれない。

 そんなある日のことだった。

 あの子の弟が曾祖母からの意地悪でお菓子を与えられなかったときのことだ。

 あの子がもらったお菓子を弟にあげようとし、曾祖母に歯向かっている様子が見えていた時のことだった。

 あの子の兄貴分のような振る舞いに胸を打たれてもっと好きになったのに対し、本の虫は無表情だけどどこか切なさを感じる表情を浮かべ、気さくなやつは渋い顔をしていた。

 あれ? 二人ともどうしたんだろう?

 首を傾げていると、気さくなやつはどこかへ行き、本の虫は目を伏せて本棚を召喚したかと思えば一冊取り出して読み始めた。

 二人の様子がおかしくてどこか不安で、何か思い出せそうで思い出せない自分に歯がゆさを感じながら、あの子を見守り続けた。

 キックボードにトランポリン、ローラーブレードにいろいろな運動と遊びを息を切らして遊んでいるあの子を見ていて微笑ましかったけれど……。

 なにかすごく大切な、懐かしいような、心が苦しくなるような思い出が……僕の中で眠っているのか、置き去りにしてしまったのか、わからないけれどすごく大切なことに違いないのに……思い出すことができない。

 本の虫と気さくなやつだけは記憶がある。そういう根拠のない確信と、自分だけ覚えていない歯がゆさを抱えながらあの子の行く先を見守るのはさすがに堪えた。

 自分だけ仲間外れのようで、これだけ思っても伝わることのない気持ちを抱き続けて、孤独感が少しずつ増してくるのだった。

 その孤独感を頭を振ってどこかへ押しやり、あの子に気持ちを伝えるのを我慢すると決めたのは自分だと言い聞かせていたある日のこと。

 あの子が幼稚園に通うようになったときのことだ。

 ある女の子が髪の毛を染めていて、あの子が心から綺麗だと思って褒めていたけれど、付きまとっているやつがあの子の黒髪を褒めるだけなら良かったのに、髪を染めている子を罵倒していて孤立させられていた。

 あの子は心から綺麗だと、おしゃれだと思って褒めていたというのに……。

 そのせいで、いや、それだけのせいではなかったけれど、あの子はつっかかられて、遊びの中で理不尽に挟み撃ちにされるようになったし、付きまとわれていじめを受けるようになった。

 挟み撃ちにされてすぐに遊びから退場させられそうになった時、あの子は最初諦めていたけれど、助けようとしてくれる人に助けを求めていた。

 助けを求められる時に誰かにお願いするのは良いことだ。抱え込むことよりもずっと良い。

 自分と重ねながらあの子の行動をこの場所から褒めていたけれど、助けを求めた結果、あの余計なことをするやつ、付きまとってくるやつが、格好いい行動した人を非難し、あの子が助けを求めたと素直に言い出せないように釘を刺して言いづらいように外堀を埋めていき、見ていて本当に不愉快で最低なことばかりをしていた。

 格好いい人を蹴落として自分を持ち上げようとしているのかと思ってしまうほどだった。

 本当に余計なことばかりして、差別的なことばかり言ってあの子を巻き添えにして、本当に、本当に許せなかった。いや、許せない。

 助けを求めるのが悪いことのように、助けてと言われたことを聞き間違いだと、頭がおかしいからだと言って、あの子が嘘をつくように仕向けているかのような弁舌を垂れていて舌を引っこ抜いてやりたい気持ちがおさまらなかった。

 素早く挟み撃ちにしている子を退場させて、あの子を抱きかかえて走り逃げるなんて、すごく男らしくて格好良かった。僕も参考にしたいくらい。

 現実世界では干渉できなかったけれど、あの子を助けてくれた恩は忘れないし胸に刻みたい気持ちで溢れていた。例えあの子が素直に言えなくても、忘れてしまっても、僕は大事に記憶にしまって覚えておくし、次があれば必ず味方をさせてほしい。

 そっと胸に誓った出来事だった。余計なことをするやつのほうはいつか必ず痛い目に遭わせてやるからなという気持ちでいっぱいだった。

 そのうち、通学路の帰り道で石に興味を持って、好きになってよく拾い集めるようになっていた。

 拾った石の物語を作って、弟や仲良くしてくれている子たちに語り聞かせて夢を広げているのを聞いていて楽しくなれるのだった。

 キラキラした白くてところどころ透明な石、真ん丸な石、卵のような形をした石、いろいろな種類の石。

 あの子の拾い集めた石は僕にとっても宝物で、あの子の物語を添えて一緒に大事に記憶にしまい込んでおきたいものばかり。

 あの子はとにかくたくさんの遊びをした。

 とても楽しそうに山遊びをしていたし、からかわれて追いかけていて、一人で遊んでいるよりなんだかずっと楽しそうだった。

 山遊びは楽しいことばかりではなくて、突き落とされて転げ落ちている子を目の前で見たことだってあった。

 蝉が羽化する瞬間も見たし、蛇が目の前を通り過ぎて頭から血の気がおりていたこともあったね。

 いつも山で遊んでいる子たちと近所の子を連れて冒険と称し、あちこち歩き回った末に神社で白い蛇を見つけてみんなで石を投げつけているのを見たことだってあった。

 あの子が蛇を見つけてみんなに知らせ、みんなで石を投げて殺していた。

 そんなことのために蛇を感知できるようにしたわけじゃなかったんだけどな。

 胸が痛んで悲しくなる出来事だった。

 ちょうどよくセラピストが様子を見に来ていた時の出来事だったので、横からセラピストが夢を見せる提案をしてくれた。

「白い蛇の優しくてあたたかい夢をみんなで見せるのはどうかな?」

 ずっと黙って傍で見守っていてくれた本の虫と気さくなやつは迷わず首を縦に振っていた。僕ももちろん、反対する理由なんて一つもなかった。

「蛇だから悪いってわけじゃない。脅威があるから殺していいわけじゃない。クマみたいに人里に降りて被害がたくさん出るならわかるけれど、蛇は本当は臆病であらかじめいるのを知らせていたら襲ってこないって教えてあげないとね。蛇の種類によって違うんだろうけどさ、このあたりにいる蛇にそういう子はいないのだから」

 セラピストの言葉に異論はなかった。

「……ギリギリ禁忌じゃない」

 本の虫からのギリギリセーフ判定ももらったので、四人でせっせと夢を紡ぎ始めた。

「ついでに、君に主人公の白い蛇をつとめてもらいたいんだけどいいかな?」

 セラピストが僕をまっすぐ見つめながら提案してくれて、前に蜜蜂の夢を見せた時のことをまだ続けようとしてくれているのがわかって心があったまった。

「うん。覚えていてくれて、続けようとしてくれたんだね。ありがとう」

 素直に礼を言うと、セラピストはにっこりと微笑んでくれた。

 白い蛇があの子と仲良くなって、いろいろな場所で助け合いながら遊ぶ夢。

 あの子は白い蛇をとても良く気に入って、気に入った分、酷い罪悪感を抱くようになってしまった。

 その様子を見ていて、ウサギの夢を見せなくて良かったとも思わされるのだった。きっと、現実とのギャップで寂しさを感じさせてしまっただろう。

「ま、罪も害もない蛇を殺したんだから、罪悪感を抱かせておくのは悪いことじゃあないだろうよ」

 気さくなやつの放った言葉には反論できなかった。

 できれば重く受け止めすぎず、適度な罪悪感を抱けますように。

 心配性な親の気持ちが痛いくらいわかる。心配で心配でたまらない。罪悪感に押しつぶされてしまわないかとにかく心配でならなかった。

 そんなある日、あの子が自分がしたわけじゃないのに、喧嘩を仲裁するために自分がやったと嘘の証言をする出来事があった。

 あの子は楽しいことが心から好きになったらしくてとった行動だったらしいけれど、思った以上にきつくてもう二度としたくないと心に決めていた。

 ああ、君は本当に優しい子だね。でも、僕からももう二度とそんなことしないと約束してほしい気持ちでたまらなかった。

 見ているこっちも辛いよ……。

 あの子を目の敵にして突っかかるようになった恋路を応援されている子は、浴衣の一件の話を聞いてむかつくと言っていじめたり意地悪をするようになった。

 あの子は何も知らないだけだし、あの子が悪いんじゃなくて意地悪してくる子の差別的な保護者の問題じゃないか……。

 何もしてやれない自分がもどかしくてたまらなかった。禁忌なんてなければいいのにな。

 そのうち、子ども会という催しで出されたお弁当の中に、酒が飛んでいないハンバーグが入っていたらしく、あの子がべろべろに酔ってしまう出来事があった。

 それがわざとだったのかどうかなんて周りを調べていなかったからわからないけれど、ただひたすら心配な出来事だった。

 これからは何かあった時、なにかがあるとき、あらかじめ君の周りのことを調べる必要がありそうだね。

 心の中でそっと誓った。君のためなら、君の安全を守るためならなんでもすると。……禁忌を破ることになろうとも。

 周りの子どもたちはというと、そんなんじゃ酔わないとか、その程度で酔ったの? とか言って、あの子のことを弱い扱いしていて憤慨しそうだった。

 酒に強いから偉いわけでもなんでもないだろうに! もし意図的になにか盛られてたのだとしたらどうするんだ!!

 うちの子はなあ! 誰よりも心が強くて優しくて懐がでかいんだぞ!

 そう言い返してやりたかったけれど、ここから干渉できることがあるとしたら、照明を点滅させたり、微弱な電磁波を起こして悪戯したり、相手が眠った時に悪夢を見せられる程度のこと。

 いつか本の虫から聞いた話によると、僕たち夢魔や亡くなった人間の魂は電気信号でできていて、この精神世界も電子世界に等しい物なのだと。だから、自分ができることをそれで知ることができた。たいしたことは残念ながらできないみたいだけれど。

 歯がゆかった、あの子の傍にいてあの子のことを擁護できたらよかったのに、できることがもっとあればよかったのに。

 言葉にできない悔しい気持ちを歯を食いしばって耐えていると、あの子がビンゴで大当たりを引いてたくさんのプレゼントが入った大袋を嬉しそうに抱きかかえていてそんな暗い気持ちはどこかへ吹き飛んでいった。

 やったね! おめでとう!

 あの子の嬉しそうな顔が、楽しい思い出が僕にとって何よりの癒しだった。

 そのうちあの子は小学一年生になった。

 成長を見守っている身としては、あの子が一つずつ階段を上がっていく様子をわかりやすい形で見ることができていいシステムだと心から思った。

 そんなある日のことだ。

 あの子が集合場所と呼ばれている、学校への登校斑が集まる場所にいたときのこと。

 意地悪してくる子が集合場所の前を通りがかった時、あの子に付きまとってくる嫌なやつに暴力的な接し方をされたせいで、怒ったあの子の兄が声を荒げていた。そしてそのあと、意地悪な子が兄に耳打ちをする出来事。

 良い子じゃないと本当にやったことになるという冤罪の理不尽なルールを教えている出来事だった。

 本当に余計なことばかりをするやつめ!!!

 付きまとってくるやつが余計なことしなければ巻き込まれることなんてなかっただろうに! 怒りではらわたが煮えくり返った瞬間だった。忘れもしない。

 それ以来、あの子は登校中後ろから怖いことを呟かれ続けたし、あんなに大事にしていた弟は何も知らないから意地悪な子の兄に懐いて協力するようになってしまった。

 あの子にとって、家で唯一の味方だった弟。

 あの子の居場所は学校にも家にもなくなって本当に孤立してしまうきっかけだった。

 そうして、良い子じゃないと認定され、地域の人から意地悪をされ始めたある日のことだ。

 親が御馳走してもらえると聞いてあるお店に連れて行ってくれたけれど、お前に出す飯はないと酷い罵詈雑言を受けて泣く泣く家でご飯を食べることになった出来事、クラスでいろいろな人から罵詈雑言を浴びせられたこと、近所の幼馴染が意地悪な子から直接耳打ちされて何をしてこんな目に遭っているのか教えられて一緒に罵詈雑言を浴びせられてショックだったこと、誰も味方してくれる人がいなくて孤独だったこと……。

 見ていて辛かったし、あの子に罵詈雑言を浴びせた全員許す気はなかった。全員殺してやる、呪ってやるという気持ちを抑えることは難しかった。

 なのに、それなのに、あの子は意地悪してくる子がどうしてそんなことをするのか知ろうとしていた。

 自分と同じように本音を言えないんじゃないか、親に言われてやっているだけなんじゃないか、本当は着たかった浴衣を着れなくて心から悲しくて寂しかったんじゃないか、そんなことばかりを考えていた。

 憎い気持ちよりも、相手を知りたい、相手が好きな物を好きでいられるようになってほしい想いが勝っていて、それなら僕は余計なことをするべきじゃないんじゃないかと、呪いたい気持ちを胸の内に留めておこうと思わされていた。

 あの子が、そう思うなら、そう思っているなら……。

 あの子はすでに同じ目に遭って、同じ想いをしていたからあの子のことがわかっただけだったのに、同じ目に遭わされそうになっていた。

 そんなことする必要なんてないのに……。

 胸が痛くて苦しかった。人の愚かさに反吐がでそうだった。

 気さくなやつも本の虫も、一緒に見守っていて渋い顔をしていた。

 あの子が英雄的な行動をとるたびに、誰よりも優しい気持ちを抱くたびに、二人はすごく渋い顔をしているのが不思議でならなかった。

 僕自身も、頭が痛くて……。

 あの子のまっすぐで優しい行動のせいか、意地悪な子は混乱していて、あの子がひどい目に遭わされることを最終的に気遣って心配してくれていた。

 あの子が正しかったんだ……。

 そう思わざるを得ない出来事だった。

 悪いのは周りの大人や子供、人間どもであって、意地悪な子は何も悪くなんてない。

 夢魔なのにわからなかった、気づけなかった、気づこうとしなかった。意地悪な子のことを見抜いたあの子に心から敬意を表したかったある日の出来事。

 あの子が心から気にかけていたあの子は引越してどこかへ行ってしまったし、あの子はどこかへ行くのを惜しんでいたというのに、引っ越したから安心している、いじめが終わると思っていると言いがかりをつけられいじめは継続されていた。

 もういじめられる意味も理由もないだろうに……。

 意味も理由もないのにいじめが続いているからか、言いがかりをつけられたからか、家に帰ったあの子が大泣きしながら死にたいと両親の前で打ち明けていた。

 心がぐちゃぐちゃで悲しみ一色で何も読めなかった。

 気遣いなあの子だから、死にたいという前酷く躊躇していた。両親が悲しむと思ったから、悲しんで欲しくないと思ったから言うのを我慢しようとしていたけれど、耐えきれずに本音を零してしまっていた。

 弟からしたらあの子のせいで肩を掴まれて揺すられ、酷いストレスに晒されたのだから何を言っているんだと思ったことだろう。

 僕はずっと見守っていたから、あの子がいつか折れてそうなってしまうんじゃないかと心配でたまらなかった。だから、ついにこの日が来てしまったのだと、苦しくてたまらない気持ちを抱えながら固唾をのんで見守った。

 母親は一緒につられてすすり泣きをしていた。父親は口を堅く結んで何か考え事をしているようだった。

 さすがの僕も見ていられなかった。じっとしていられなかった。あの子が本気で死ぬつもりだとわかって、いてもたってもいられなかった。

「どうしよう、あの子が死んじゃう。本気で死のうと考えているんだ! どうしよう……あの子が死んだら僕は……僕も一緒に死ぬ。存在している意味なんてない。僕もあの子の魂と運命をともにする」

 傍で一緒に見守っていた気さくなやつに泣きついていた。

 自分じゃどうしようもなかった。僕にはただ夢を見せたり電気をどうこうしたりするくらいしかできない。

 気さくなやつなら、本の虫ならなんとかしてくれると、なんとなくそう思ってお願いしてみただけだった……。

「まだ死んでないだろう? それに……俺に任せていいのか? どう転んでも知らないぞ……?」

 怒りで手をわなわなと震わせている気さくなやつはとても怖かった。本の虫は静かに目を閉じ、首を横にゆっくりと振っていた。

「……あの子が死なないなら、自殺しないなら、生きていてくれるなら構わない!」

「どんな手を使ってでもか?」

 一瞬躊躇した。

 気さくなやつが一体何をしようとしているのかまったくもってわからなかった。何をする気なのかわからなくて躊躇う自分は正しかったのか、間違っていたのか……。

「……うん」

 何が正しかったかなんて何もわからない。

「……しばらくどこかで心を癒しておいで。これから起きることは知らなくていい」

「それはできないよ。僕はあの子のことを見守りたい。戻ってきたら死んでたなんてことになったらどうしたらいいか……」

「俺が信用できないか?」

 それを言われたら黙ってしまう自分が少し情けなくも思うのだった。

「悪いようにはしない。死なないように、力強く生きられるようにするだけだ」

 嘘はついていないようだった。

 本の虫も気さくなやつの後ろでゆっくり首を縦に振っている。

「お前も、ずいぶん心がやつれてしまっただろう? ずっと、あの子を見守り続けるのは、一緒に苦しみを背負うのと同じことだからな……。セラピストの元を訪ねて話を聞いてもらってくるといい」

 逆らおうと思えなかった。僕も疲れて消えたいくらい擦り切れていたから。

「死んでたら、あとからでも追いつけるよね」

「……そうならないよう努力する」

 気さくなやつの好意に甘えて、心からの信頼を示して、セラピストの元へと向かうことにした。



 俺は優しいあいつの好きなあの子が嫌いになり始めていた。

 英雄にでもなりたいのか? と、胸倉をつかんで問いただしたいくらいには怒りがわいておさまらなかった。

 あいつがどんな想いで見守っていると思っているんだ。少しは自分を大事にしたらいいのに……。

 英雄になったところで結末なんて知れている。

 物語に描かれているような祝福などはないし、民衆は自分で考えることを放棄する。そうやって都合よくこき使われて都合が悪くなれば様々な責任を追及されてそのうち殺されるだけだ。

 あいつは実は善人でもなんでもなかったのだと、こいつは実は悪いやつだったから当然の報いをたった今追及されているだけなのだと。

 英雄になんてなるな、ならなくていいんだ。

 どれだけ相手を思いやっても、どれだけ相手の心が理解できて寄り添おうとしても、報われることなどなく、踏みにじられ、虐げられているのを見て、そら見たことかと鼻で笑ってしまいそうなのを精一杯我慢した。

 お前の優しさも気遣いも道具のように便利に使われて消耗されるだけだ。

 その上、人間どもはしなくても良いことをあの子へしていて不愉快極まりなかった。

 人間は愚かだ。自分が一番可哀想だと思っているから、相手が同じ目に遭っていて理解を示してくれていることに気づきもしない。人間は愚かだ……。

 そんなある日、あの子が死にたいと両親に打ち明けていて更に怒りがわいてきておさまらなかった。

 言わんこっちゃない、言わんこっちゃない!

 英雄になんてならなくていい。なる必要はない。なるとしても物語やこちら側、精神世界だけにしておけばいいというものを……。

 痛々しくて、愚かしくて見ていられなかった。

 それなのに、優しいあいつはあの子のことをますます好きになっていくばかりで……。

 放っておけなかった。

 あいつが泣きついてきたとき、思わずあの子を直接殴り飛ばせたらどれだけいいことかと考えてしまった。

 人の気を知りもしないで。

 かといって、優しいあいつの願いをむげにはできなかった。

 あいつの目の前で特別な何かをすると、記憶のページが開いてしまうからセラピストの元へと向かわせることにした。

「さて、これなら大丈夫だな。どうする? 綴じるか? それとも、俺に任せるか?」

 本の虫と作戦会議ならぬ悪巧み、解決策の相談を始めた。

「……無理。綴じてもすぐ開く。周りが邪魔」

「そうか……ならば、分割するのはどうだ」

 本の虫は眉間にしわを寄せて本をぎゅっと抱きしめた。

「……正気? 優しいやつが悲しむかも」

 正気も正気、大まじめだった。

 黙ってうなずくと、本の虫は眉間にしわを寄せたまま目をぎゅっと閉じた。

「記憶。書き留める」

「ああ、頼む。大変な思いをさせるな……」

「書くの好き。問題ない」

「そうか」

 本の虫の協力も得られるわけだ、遠慮なくぶった切るぞ。

 ちょうどよく、父親が吸精ができそうな精神状態へと追い込んでいて、口の端をあげずにいられなかった。

 あの子の精神が、魂がぐらぐら揺れて不安定なところを狙い、いつしか手に入れた剣を取り出した。

 あいつが好きなのはあの子の英雄な部分、優しい部分、清い部分だ。孤高で高潔な部分の魂。

 もしかすると、野生児で乱暴な部分だけが残れば、あいつの気持ちも離れていくかもしれない。

 そんな下心を否定はしない。だって、見守っていて辛くて、痛々しくて、これ以上傷ついてほしくなかったから……。

 魂を真っ二つに分断した。白と黒、清い心と邪悪な心。

 ぴったり綺麗に真っ二つにできる物事がないように、魂も白の中に黒があり、黒の中に白がある、まさに陰陽太極図のような分かたれ方をした。

 そのうち、清い心が多い方を精神世界へと連れ込んだ。

 きょとんとしているあの子を、花に囲まれた清く美しい湖へと招き入れた。

「わあ、綺麗」

 両目から大粒の涙を流しながら感嘆の声をあげているあの子を見ていると、さすがに躊躇する自分がいた。

「だれ?」

 夢で鍛錬しただけあってか、俺の気配に気がつき振り向くあの子は怯えた表情をしている。

 そういえば、こいつは俺のこと妙に怖がっているな?

「俺だ。優しいあいつから気さくなやつって呼ばれているやつだよ。覚えているか?」

 怯えたまま口を閉ざしているあの子を見ていて、もう一つ聞きたいことができた。

「……優しいあいつのことは怖いか?」

 黙ってあの子は首を横に振る。

「色惚けやセラピストはどうだ?」

 これも黙って首を横に振っていた。

「……本の虫や月の子はどうだ?」

 あの子はまたしても黙って首を横に振った。

 ほう、これは興味深いが……。

「誰かにこのことを話したか?」

 あの子は怯えたまま首を横に振った。

 それは好都合だな。

「じゃあ、どうして俺のことが怖いかわかるか?」

 ゆっくりと首を横に振っていた。

 やるなら今だな。俺の読みが正しければ、この小娘は本能的に、なんとなく、俺の正体に気がついている。俺だけでなく他のやつらのことも。

 話されたら、気づかれたらすべてが終わる。俺たちのほのぼのした平和な世界が……。

「そうか。……ここはな、湖の中に人魚が暮らしているんだ。驚かせないようにそっと覗いてみると良い」

 俺の言っていることを疑いもせず、あの子はそうっと湖の淵に近寄り、中を覗き込もうとしていた。

 そのすきに、いつしか手に入れた杖を取り出し、あの子の背中を素早く小突いて突き落とした。

 みるみるうちにあの子の魂は凍り付いていき、湖の中へと勢いよく落ちて沈み込んでいった。

 氷の棺に包まれながら眠りにつくあの子は安らかに目を閉じ、もう瞳から涙が流れ落ちることはなかった。

 そのままゆっくりと湖の底へと沈んでいき、浮かんでくることはなかった。

「おやすみ。小さな英雄の卵。そしてもう二度と英雄など目指さないでくれ」
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