夢魔

木野恵

文字の大きさ
上 下
53 / 53
あちら側

自己卑下

しおりを挟む
 人影が見えてから本のお姉さんが何か言いたそうにしつつ考え込んでいた。

 どうしたんだろう?

 首を傾げていると、私の手を取って手の平に絵を描き始めた。

 最初はウサギ、その次にパレットと筆を描いていた。

 うさぽん? うさぽんがどうしたんだろう?

 首を傾げていると、お姉さんは一つ頷いた後、雲の絵、雪だるまの絵、牛乳の絵を手の平に描いていった。

 あとがしばらく残って伝わるようにと思ったのか、少し強めに手の平を指でなぞっている。

 何を伝えたいんだろう? 全部白い?

 うっすらと気づくことがあった。

 自己卑下に陥りそうになりながら記憶を思い返していて気付いたことだった。

 昔、差別主義者に取り囲まれて「なんか言え」と言われたことがあったような気がする。

 教室にそいつが来た後だったかな。

 私は自分のことを責めている真っ最中で、ろくに話を聞いてなかった。

 その時確か……。

 困りながら黙って、自分のことをずっと責めていたから頭の中が真っ白だった。

「白い人っていつからされてる表現なの?」

 お姉さんは少し困った様子で黙っている。

「……」

「昔、頭の中が真っ白になるくらい自分のことを責めてたことがあって……話をろくに聞いてなかったんだ。何か聞かれた気がしたけれど、適当に自分のこと悪く言ったことがあって」

 ぽつりぽつりと呟くと、お姉さんは悲しそうにうなずいた。

「え……」

 お姉さんは少し怒った顔をしている。

「そのあとなんかめっちゃ褒められた気がしたんだ。それから自分のことを責めるのは褒められるのかなって。……もしかして」

 お姉さんは悲しそうな顔をした。教えたら禁忌になることなのかな? それとも、本当は教えたくないことだろうか。

「……あなたは自分に残酷」

「つまり都合よく自分への悪口を使われたんだ」

 お姉さんは顔を真っ赤にして怒っていた。

「……あなたは状況を理解してなかった。……話ほとんど聞いてなかった。……昔から……落ち込むと……ぼーっとして返事が適当」

「そっか……盛大にやらかしたな」

「……運が悪い。目をつけられたせい」

 お姉さんはそういいながら目を逸らした。

 自分を嘲笑うことがやめられなさそうだった。

 ああ、一人きりになって良かったな。

 周りに余計なのがいなければ変に誤解を受けないし、自分のこと悪く言っててもその言葉を利用されることなんてないのになあ。

 そんなことを思うと、お姉さんはまた怒ったような顔をした。

「……自分への悪口! ……それも原因」

 酷く怒った様子でほっぺたを引っ張られた。めちゃくちゃ痛い!

「た、たしかに……自分に対して情け容赦ない悪口言っちゃったのを変に悪用されただけだもんね……」

 反省しながら引っ張られたほっぺたをさすると、お姉さんはまた手に絵を描いてくれた。

 眼鏡? と……漫画かな?

 先輩のことが頭に浮かんだ。

「……聞いててどう?」

「なんとなく伝えたいことがわかったけれど……確認して良い? 自己卑下のこと?」

 お姉さんは何度も頷いた。

「……どうだった?」

 考えるまでもなく、胸が痛んだ。痛くて苦しい。

「聞いてて辛かったよ。大好きな人が自分のこと悪く言ってるの」

「……周りも同じ。……私も辛い……覚えておいて」

 お姉さんはすごく怒った様子だ。自分のことも含めて悪口を控えるようにとのことなんだろうな。

 自分の向けた悪口を良いように利用されて……。利用することしか考えていない人はなんでもかんでも自分たちに都合の良いように捉えてしまうから。

「……はい」

「……自分のこと……大事にして」

 思わず正座しながら聞きたくなるような言葉だった。

「……あなたも含まれる。……『みんな』に。……たとえ周りがいれなくても……自分だけはいれてあげて……『みんな』の中に。……戦え。……あなたの知る戦いはいじめ。……あなたは差別主義者じゃない。……あなたは優しい。……自分に厳しすぎただけ……利用されてただけ……これは誤解を解く戦い」

 本のお姉さんはいつになく怒っている。どうしてそんなに怒っているのか聞きたくても、本人が知りえないこと、気づいてないことを教えたら禁忌だから、ヒントを出すのにかなり苦労しているのだろう。

 申し訳ない気持ちがあるのと同時に、そこまでされたらやらないわけにはいかなかった。

「でもどうせ誰も味方はいないよ」

 口に出して言うと頭をひっぱたかれた。めちゃくちゃ痛い。

「……昔からそう。諦めるな……戦え……私は数に入らないの?」

 お姉さんが顔を真っ赤にして怒った。確かに、味方は一人もいないわけじゃなかったね。

 昔ならいざ知らず、今では数人の顔が浮かぶ。

 大人になってから知り合った人々。

 実家を出てから大学で知り合った一部の先生、実家を出るきっかけをくれた人、他にもいろいろな人たちの顔が。

 他にもいるのかな。

「……戦え」

 お姉さんは穏やかに微笑みながら繰り返した。

 戦いに付きまとう嫌なイメージが少しだけ拭われていく。

 私が知っている戦いはいじめだと言われたからか、戦いに対するイメージが少しずつ変わってきた。

 お姉さんが鼓舞してくれながら、ヒントをくれながら自分の話したかった事、誤解されてそのままほったらかしたことを紐解いていくことが戦いだとするなら、自分の中で渦巻いていたネガティブな感情の正体を知っていくことが戦いなら、これは悪くないものだと思えた。

 気持ちの変化を読まれたのか、お姉さんはまた微笑んでいた。

「……死ぬのはあなたが先。……私はずっと隣にいる。……ひとりにさせない……後から私も死ぬ」

 そう言いながら手を握ってくれて、プロポーズでもされたような気分になってしまった。

 こうやって浮かれるから失敗したり、思ってもないような捉えられ方するんだよなあ。

 頭に花が咲いたような気分になりながら、お姉さんがくれた理想的な言葉を胸に何度も繰り返した。

 死なれるのが怖い、死なれるのが嫌だ。死なないでほしい。

 そんな私の気持ちと意思を汲み取ってくれた言葉だった。

 死なれるのは嫌だけどひとりぼっちは寂しい。

 お姉さんは傍に最後まで付き添ってくれて、先に死んだりしないで見届けてくれるというのだ。

 死なれたときの悲しみを知っているから、それはきっととてつもなくつらいことなのだと想像がつく。それをしてくれるなんて、愛じゃないかな。

 嬉しくてあたたかい言葉と、握ってくれた手の優しさで心がとけそうになりながら、優しく握り返した。

 手を握るとき、人は同じくらいの強さで握り返すと、ちょうどいい心地になれる。

 優しさを同じくらいで返すのは難しいけれど、強すぎても弱すぎてもしっくりこないけれど、手を握る強さは相手に合わせて調整して変えて落ち着かせられるんだ。

 もらった言葉を反芻しながら、少しだけ苦笑いした。

 これはお姉さんのような人が言ってくれたからあたたかいんだろうな。

 一緒に住んでいた友人の顔が頭に浮かんで思わず笑ってしまった。

 あいつがいったらただのクズにしか聞こえないだろうなんて思えてしまって。

 お姉さんはそれを読んだのか、一緒になって笑っていた。

「……良い友達」

 間違いない。

 図々しくて、ずぶとくて、良くも悪くも気にしなくて、人の心に土足でずかずか入り込んできて、本のお姉さんも面白がった変わり者。

 一緒にいるのはしんどかったけれど、離れて友人でいる分には困らないやつ。

「……見てて辛かった。……悪い人じゃない。……でも一緒にいてほしくない」

 お姉さんは少し複雑そうな顔をして俯いた。

 私もそう思うよ。

 一緒に笑いながら空を見上げて、人影が近づいてくるのを眺めた。

「……自分の悪口、一級品。……もう言わないように」

 眺めていると、不意にお姉さんから釘を刺されてしまった。

 反省しながら頷くと、お姉さんは続けてこういうのだ。

「……何かあってぼーっとする。……何の気なしに返事をする。……誰でもそう。……誰でもする。……悪口も……でも、自分を傷つけない努力はして」

「はい」

 頷いてからガツンと沈んでいると、お姉さんが空いている手で頭を撫でてくれた。

 あたたかくて、柔らかくて、優しい手の平。

「……落ち込んでもいい。……でもあなたは……落ち込みすぎる。……程よくするように」

 言われながら、程よく落ち着けるよう頭にエレベーターを思い描いた。

 今が何階で、どこまでなら沈んでいいかをイメージに置き換えて2、いや、3階分沈ませてみた。

 するとお姉さんは嬉しそうに頭を撫で続けてくれて、沈ませたはずの気分が上がってくるのだった。

 そうして頭を撫でてからお姉さんがどこかへしまっていた本を取り出し、宙に浮かせてパラパラとめくっていた。

 そして中身を見て少し考え込んでいる。

 次はなんだろう。誤解を解くためのリストなのかな?

 中身が何か私には一つも見えなくて、見せる気もないのかこちらから見えないような角度でお姉さんは本を読んでいる。

「……まあいっか。これで充分」

 私が最近よく使う口癖をお姉さんが口に出したので思わず笑いそうになった。いや、盛大に笑った。声を出して!

「……そのうち」

 顔を赤くしながらお姉さんがそう言って本を閉じ、肩に頭を預けてきた。

 昔、小学生の頃こうやっていろいろな人が肩に頭を乗せてきたっけかなあ。

 懐かしい気持ちになりつつ、お姉さんの頭をそっと撫でると、すごく嬉しそうに、それでいて穏やかな笑みを浮かべて目を閉じていた。

 初めて会った時、お姉さんは泣いていて、頭を撫でたらもっと泣いちゃって……。

 本当の始まりの夢が頭に浮かんでくる。

 たくさん頭を撫でてもらえて知った温かさと安心感。

 お姉さんもきっと、こんな風に心が温かくて穏やかになれたんだろうな。

 こちらに飛んでくる人影を警戒しながらも、これが最後かもしれないなんてネガティブに思いながらも、繋いでくれた手の温かさと穏やかな一時に身をゆだねているのが心地よかった。

 そして不意にこういうのだ。

「……痩せなさい」

「え」

 唐突な言葉に驚いていると、お姉さんがお腹を優しく撫でてきてポンと打った。

「……もっとかっこよくなるよ」

 顔を真っ赤にしていると、お姉さんはしたり顔で笑った。

「……16くらいの体型……一番好き」

 そういわれたらなんだか照れくさいだけじゃなく、痩せようと思ってしまって……。でも別に私は格好良くないし格好悪い方だぞ。

「結婚する?」

 冗談だけど、なんとなくそういう言葉が口から出ていた。

 そうするとお姉さんは不意打ちだったのか声を出して笑って、頷いている。

「……しよっか」

 なんだか意味深な笑みを浮かべていて、首を傾げながら痩せてみるか―なんて気楽に思っていると、お姉さんはさらににっこりと笑うのだった。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...