楽園 空中庭園編

木野恵

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機会と離別

居場所

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 当然のようにいじめは続いた。おまけに、井村先生が辞職する以前よりもきついものになっていたのは気のせいでもなんでもなかった。

 殺される……。

 トイレに連れ出され、着いた頃には加藤が張っておいたと思われる洗面台の水に顔を乱暴に押し込まれた。

 いきなりのことだった。

 抵抗する間もなく、アッと言う間に突っ込まれたので鼻を強く打ってしまったらしいということに、水から頭を引っ張りあげられたときに気付いた。

 水からあがると鼻がじんじんと痛み、熱を持ち、生温かいものが流れ落ちてきた。

 鏡をぼんやりとみてみると、流れたものが血であるということに気付き、さらに恐怖心を掻き立てられる。

 井村先生が辞職してから、いつものような精神的に苦しむいじめから、身体的にも苦しめられるいじめが混じるようになった。

 井村先生と何があったのか……。

 井村先生は笹倉のために頑張っていたというのを、拾った資料の内容でなんとなく想像できる。

 ただ、なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのかがわからなかった。

 井村先生の一件とは何も関係のないことでいじめているのだろうか。

 水につけられ、あげられを繰り返され酸欠状態のぼんやりした頭で必死に考えてみても心当たりなんて思い浮かばない。



 笹倉は肩で息をしながらしばらく休憩時間を作った。悠木が必死に抵抗をしたためかなり疲れていた。

 休憩している笹倉の傍らで加藤は度が過ぎているのではないかと、笹倉をおどおどと見つめながら気遣っている。

 井村のことが気に食わなかったという生徒が新たに五人取り巻きとなって七人になっていたが、この状況を見て興奮している者と、笹倉に対し畏怖の感情を抱いている者がいた。

「悪い……俺おりるわ」

 加藤と同じ時期から取り巻きをしている生徒がそういってトイレから出ていこうとした。俺も、と続いて新入りの取り巻きが三人出ていこうとする。

「おい、お前ら、降りるのは勝手だが他言したらどうなるかわかってるだろうな」

 笹倉がドスの利いた低い声で脅しにかかる。

 出ていこうとした四人は少し足を止めた。新入り三人はとても怯えた様子で、助けを求めるかのように古参の取り巻きを見つめている。

 古参の取り巻きが新入り三人に頷いてみせ、代表として笹倉に歩み寄り宣言した。

「わかってるよ。このことは誰にも言わない。井村をはめて辞職に追いやったことも、いじめのこともすべて黙ってやる。その代わり、俺たちには何もするな。交換条件だ、笹倉。俺は、お前が名前を笑われてたことを知っていたし、井村みたいな偽善者が嫌いだったから一緒につるんできていた。だが、お前はやりすぎている。精神的苦痛はよくわかるよ、笹倉。だけどお前、暴力はいかんだろ……」

 それを聞いていた笹倉は拳を握りしめ、震わせながら、怒りに満ちた声で言い放った。

「交換条件はのんでやる。だけどな、お前に何がわかる。精神的苦痛がわかるって? 二度とそんな知ったような口を利くな。お前に何がわかるっていうんだ。それ以上知ったような口を利けば、お前に関しては例外で苦しめてやるからな。わかったならさっさとどっか行け」

「知ったようなこと言って悪かったな笹倉」

 代表をした少年は深くため息をついた。

 少し残念そうな表情を浮かべ、笹倉を悲しそうに見つめた後、残りの三人に頷いて見せ、トイレを後にした。

 笹倉の元に残ったのは加藤と、悠木がいたぶられる様子を見て興奮していた古部魔咲ふるべ まさきの二人だった。



 古部もまた、無責任な親の犠牲者の一人なのだった。井村事件で笹倉のことを知り、笹倉に近づき今に至る。

 加藤は古部を横目に捉えつつ、怖いものを感じていた。

 笹倉とも自分とも違う何かがある……。ゆうきの叫び声を聞いてこんなに喜ぶなんて……。

 笹倉はゆうきの叫びを聞いて顔を歪めていた。それでもやめられない理由……抑えきれない怒りと、自分の立場を脅かす資料に対する恐怖が支配しているのを見て取ることができた。

「笹倉くん、今日はもうこれくらいにしない? 笹倉くん、疲れてるみたいだし……」

 加藤は古部が怖いということもあったが、笹倉のことを心から気遣って提案した。こころなしか顔色が悪くなっている気がしたのだ。

 笹倉は黙って頷き、洗面台から力なく栓を抜くと、トイレを後にした。その背中を追って加藤は出て行った。まるで飼い主と飼い犬のような図である。

 トイレに残されたのは古部と悠木の二人。

 悠木はぐったりとしながら宙を見つめていた。たくさん走った後のように、肩で息をしながら。

 古部はその様子をみて悦に浸っていたが、チャイムの音が聞こえるとトイレから走って出て行った。



 チャイムが聞こえてからしばらくして、ようやく動けるほどになったが、教室には戻りたくなかった。

 教室には笹倉と加藤がいる……。

 授業をサボるのには抵抗も罪悪感もあったが、のろのろとトイレを後に屋上へ向かおうと足を進めた。

 間の悪いことに、階段をのそのそと上がっていると、担任に見つかってしまった。

「おい悠木。どうしたんだ、びしょ濡れだぞ。授業はどうした?」

「ごめんなさい、先生。保健室に行こうとして……」

 言ってからしまったと思ったが遅かった。保健室とは反対側に向かっているので嘘だとすぐにばれてしまった。

「ごめんなさいじゃない。保健室はあっちだろう。何も用がないのなら教室に戻りなさい」

 そう告げると、ちらちらと悠木のびしょ濡れになった顔と前髪、制服を見てから職員室のある方向へ振り向きもせず歩いて行った。



 担任がこちらを振り向かないと確信した悠木は再び屋上へ歩みを進めていく。

 どうしても教室には戻りたくなかった。もう放っておいて欲しい。

 屋上に着き、大の字になって寝そべり、広く青い大きな空を体いっぱいに感じた。

 この空のように、心も晴れていくようにすっとし、嫌なことをすべて忘れ去らせてくれた。

 この広い空を自由に飛べたら……。いじめも何もなく、自由気ままに、楽しいときには思いっきり笑って、笑ったことで誰も傷つけることもなく、縛られることなくいられたら。

 青空に一つだけぽつんと浮いた綿雲がゆっくりと流れていき、日の光は強く優しく降り注ぎ、風はそっと撫ぜていく。

 屋上にあがったのは初めてだったが、とても心地よい場所だった。授業中という事もあり、邪魔をする人は誰もいない。

 これまでのことすべてを一時でも忘れることができたからか、空に吸い込まれるような気分で眠りに落ちて行った。



 気がつくと放課後、部活動が始まる直前になっていた。

「あちゃあ……」

 思わず呟き、頭を抱えた。

 でもこれで、今日はもう笹倉たちと顔をあわせずにすみそうだ。

 起き上がり、背中や尻をぱっぱっとはたくと、少し早い足取りで教室へ向かう。

 恐る恐る教室を覗いてみると誰もおらず、少し安堵しながら引き出しとかばんの中身を確認してみる。

 いつものように、筆箱だけがなくなっていた。

 筆箱は今回黒板の上に置かれていたが、ゴミ箱から掃除ロッカー、窓の外の順に探していたため見つけるまでに時間がかかってしまった。

 ようやく筆箱を手にし、荷物を整えて帰路に着く。

 校庭を一生懸命走っている運動部を横目に、みんなで目標をもって何かに打ち込んでいることを羨ましく思いながらゆっくりと歩く。

 本当なら入りたかったが、人付き合いは元から苦手だった上、あの出来事があったから余計に入れなかった。

 いじめられるのではないかという不安と、笹倉と顔を合わせてしまうのではないかという恐怖で思いとどまってしまった。

「こんなはずじゃなかったのになあ……」

 あの時だってそうだった。こんなはずじゃなかったのに……。

 考え事をしながら歩いていると、もう家に着いていた。

「ただいま」

 帰るや否や、母がドスドスと足音を立てながら玄関までやってきた。

「おかえりなさい、裕樹」

 心なしか怖い顔をしている。どうしたというのだろう。

「担任の先生から聞いたわよ。授業、サボったらしいわね。いったいどこで何をしていたの?」

 母の話によると担任から連絡があったそうだ。

 今日一日ほとんどの授業をさぼり、ずっとどこにいるかわからずみんな心配していたのだという。

『みんな心配していた』と聞き、思わず鼻で笑ってしまった。

 本当に心配しているのなら、教室に誰かいてもおかしくないだろうに……。誰も自分を探してはいなかったし、筆箱も隠されたままだった。何がどうあろうと僕が悪者だ。

 話を聞いていると悲しくなり、自室に向かおうとするのを母がやかましく後ろで咎めている声が聞こえたが無視して籠った。

 何も知らないくせに……。

 部屋に入り、布団にこもっているとドアの向こうから母と父が二人そろって、授業はサボるなだとか、『心配かけたみんな』にちゃんと謝れだとか好き放題言うだけいってドアの前から離れていった。

 正直、学校なんかもう行きたくない。ずっとずっと耐えていたが、もう限界だ。疲れちゃった。

 親が寝静まったのを確認してからお風呂に入りご飯を食べる。

 親とも顔を合わせたくなかった。

 いじめられ始めてから幾度か学校に行きたくないと打ち明けたが、一つも聞いてくれず、推測といえるほど推測していないような勝手な推測と物言いで休むことを許してくれなかった。

 誰か助けて……。



 ある日のことだった。

 いじめが堂々と教室で行われるようになり、その光景が『当たり前』となったある日のことだ。

 いつも持っている本を取り上げられ、ボロボロにされそうになった時、ついに自分の口から、やめて! と叫び声があがった。

 本だけは、本だけはやめて欲しかった。悠木の心の依代になっていた本だった。しかし現実は残酷で、無残にも本は傷めつけられ、ゴミ箱へ放り投げられていった。

 ボスンという、本がゴミ箱にナイスシュートされてしまった音が教室に響き渡り、悠木は自分の中で何かが崩れ去っていく感覚に気がついた途端、いじめられ始めてから初めてで涙を流した。

 教室は一気に騒々しくなり、悠木に対して、お前が悪いんだぞ! と野次を飛ばす人もいれば、興味なさそうに自分たちは自分たちで違う話題を楽しむ人もいたが、悠木を助けようとする人は一人としていなかった。

 自業自得。

 いるだけで誰かの邪魔になる。

 昔から、そういう扱いなのだ。

 僕がいったい何をしたっていうんだ!

 悲しみの奥底から怒りが込み上げてきた。

 笑ったのは自分だけじゃないじゃないか。笑ったのは一度きりだろうが。名前を笑っただけでなぜここまでされなければならない?

 頭が真っ白になり、気がつくと教室が静まり返っていた。

 ワンテンポ遅れて聞こえてきた鈍い音と、拳が何かに強くぶつかり感じた鈍い痛みにハッと気がついた頃には、笹倉をかばったらしき加藤が吹き飛んでいた。

 教室で女子の悲鳴が響き渡り、笹倉はいきなり自分の前に飛び出て殴られた加藤に驚き、遅れて怒りを露わにしながら悠木に殴りかかろうとしている。

 すべてがスローモーションに見え、自分だけが素早く動いているという錯覚に陥りつつ、自分を殴ろうとする笹倉の拳をギリギリで避け、反撃をしようとしたその時だ。

 担任が、何もしないくそったれの担任が教室の戸を開けて制止してきた。

「やめなさい!」

 格好がついたのは止めに入るところまでで、結局近寄ることなく教室の入り口に立ち尽くした。止めに入る勇気はないらしい。

 悠木にはどっちが責められるかわかっていた。

 こいつが先生ぶって偉そうに注意してくるのはいつも僕の方だ。

 笹倉は担任の登場でいつものように笑いながら見下してくるかと思ったが、なりふり構わず加藤に駆け寄り、怪我の状態を確認しにいったので驚かされた。 

 自分本位だと思っていたのに。加藤のことがそんなに大事なのか……。

「悠木、お前いい加減にしろ! お前が原因だ。なぜ加藤を殴って笹倉を殴ろうとした」

 案の定、担任は悠木を嗜めた。

「先生! 僕は……」

「言い訳をするな! みっともない。お前に発言権なんてないんだよ!」

 絶句した。

 僕は大切な本をボロボロに傷められただけでなく、ゴミ箱に捨てられたんだ。

 歯を食いしばり、言いたかった言葉を心の中で呟く。

 抑えられない怒りが捌け口もなく頭の中でぐるぐる回り続け、悔しさとやるせなさ、言葉にできないたくさんの気持ちに飲まれながら走りだした。担任の怒声を背中に浴びたが、そんなもので止められるはずがなく、ただひたすら、屋上を目指して突っ走った。



 屋上には誰もおらず、ようやく気が休まる場所に辿りつけた悠木はうずくまった。

 それまで止まっていた涙が堰を切ったように溢れ出してきてすすり泣いた。

 どこにも自分の居場所なんてない。

 誰も、自分自身ですら信じられない、頼れない。

 僕はまた余計なことをしてしまったのだ。どうして昔からそうなのだろう。

 笹倉の名前を笑ったこともそうだ。

 あのまま大人しくしていればよかったのに……。わかってた、わかっていたけど、本に手を出されたら居ても立ってもいられなかった。

 屋上にひとりぼっちでいても寂しくないどころか落ち着くのに、教室のように人が周りにいる場所で孤独を感じるのはなぜなのだろう。

  誰も居ない時は、本当に一人ぼっちだけれど、空や鳥、大地、木とか大自然に思いを馳せることができるから心は寂しくない。

 でも、周りに人がいるのに除け者にされて、つらくて、悲しくて、心が寂しいから孤独を感じるのかな。いや、ひょっとしたら、誰かがいるからこそ孤独があって、最初から一人ぼっちだったなら孤独なんてものを知りもしないんじゃないかな。

 少し悟ったようなことを考えながら、いつものように大の字で寝そべり、大きな空に思いを馳せる。今日は風が少し強めで鳶が鳴きながら飛んでいるのが見えた。

 僕もあんな風に空を飛びたいな。

 いつもは気分を一新して空に思いを寄せることができるが、さっきまでの嫌なことがどうしてもこびりついて離れなかった。

 本をボロボロにされ、ゴミ箱へ綺麗に放物線を描きながら落ちていくシーンがずっと頭に浮かんでは胸に突き刺さる。

 捨てられた本はサン・デクジュペリの書いた『星の王子様』だった。

 小学生の頃から好きでよく読んでいる本。もちろん、他の本も読むが、定期的に読みたくなって読んでいるとびきり大切で大好きな本だったのに。

「なんでこんな日に読んでいたのか……」

 自分の不運を心から呪った。どうして今日に限ってあの本を持っていたのだろう。

 いつもブックカバーをつけてきているから、赤の他人には同じ本を持っているようにしか見えなかったのだろうが、毎日違う本を読んでいたのだ。ひとりぼっちなだけでなく、勉強はほどほどにできていたし、特に目指しているものもないから、一日もあれば本を一冊読めてしまうので、日替わり状態だった。

 読みかけの本を捨てられるのも耐え難いが、大切な、かけがえのない本だったから、言葉にできない辛い気持ちを拭えないままだった。

 空を見ている目から涙がこぼれ、ガバっと起き上がりながら目元を乱暴にゴシゴシと拭う。

 起きたときにポケットから転がり落ちた携帯が振動しているのに気づき、ポケットから取り出して見てみると母からの電話だった。

 どうせ担任が親に告げ口でもしたのだろう。親のことだから話を聞きもしないで一方的に僕を悪者扱いするに決まっている。

 携帯の着信を無視し、またしばらく横になるが、さっきよりも空に思いを馳せることもできないまま、黒いモヤモヤした気持ちがぐるぐると頭の中で回り続けた。

 目を閉じ、消えろ消えろと叫んでも消えることなく悠木を苦しめ続けるのだった。



 少し気分が落ち着き、そっと目を開けるとあたりは夕焼け色に染まっていた。そろそろ帰らないと。

 帰るってどこへ?

 学校にいたくない、家にも帰りたくない。自分の居場所はどこにあるのだろうか。

「僕はどこにいけばいいの」

 誰もいない屋上に、ポツリとつぶやいた言葉は虚しく響いて消えた。



 結局、家に帰ることにしたのだが、案の定、親は僕の話なんて聞かないで一方的に責めてきた。

 そんな子に育てた覚えはないだの、人を殴っちゃいけないこともわからないのかだの、わかりきってることばかり言ってくる。今まで人を殴ったことないことくらい知ってるくせに。

 殴るのは悪いことだ、そんなことはわかってる、わかってるよ……。

 どうして殴ってしまったのか、そこまで追いつめられる状況になっていたのかなんて誰も気にかけなんてしない。教師もクラスメイトも親でさえも。

 僕は人を殴る異物として学校中に知られることになった。

 自分たちがした仕打ちのことなんて棚に上げて、僕は暴力を振るう人として扱われるようにもなったんだ。それでもいじめはなくならず、僕のこと知りもしなかった人まで変な目で僕を見るようになったり、見かけるたびにひそひそと、あることないこと話し出されてしまうようになり、今まで以上に居心地の悪い生活が始まった。

 まだ短い人生で、おそらくまだまだ長く続く人生の通過点にすぎないのだろうけどそれでも、この理不尽な世の中に、自分の人生に絶望してしまった。
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