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1章
影の序章 - 虚塔への招待 -
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薄暗い書斎に、紙をめくる微かな音が響いていた。神藤葉羽は肘掛け椅子に深く腰掛け、手にした文庫本に視線を落としている。書棚には古今東西のミステリー小説が整然と並び、窓の外からは柔らかな春の陽光が差し込んでいた。しかし、葉羽の意識は書物の中の迷宮に囚われ、周囲の景色は彼の視界から消え去っていた。
葉羽は高校二年生にして、その名を知らぬ者はない天才と称される少年だった。特に数学と物理においては他の追随を許さず、学年トップの成績を常に維持していた。だが、彼を真に突き動かすのは、論理的思考への飽くなき探求心と、ミステリー小説への深い愛情だった。日常の些細な出来事からも、彼は推理の糸口を見つけ出そうとし、その思考は時に周囲を驚かせるほどの洞察力を見せる。
「葉羽君、また推理小説?」
優しい声が葉羽を現実へと引き戻した。顔を上げると、幼馴染の望月彩由美が心配そうな表情で立っていた。彼女は淡いピンク色のワンピースを身に纏い、春風に揺れる花のように可憐な姿だった。
「ああ、彩由美か。今、面白いところなんだ。もう少しで犯人が分かる…」
葉羽はそう言いながらも、すぐに本を閉じてテーブルに置いた。彩由美は彼の性格をよく理解していた。読書に熱中している時に邪魔されるのを嫌うことを知っていたからだ。
「でも、たまには外に出て気分転換するのも大事だよ?今日はいい天気だし、近くの公園にでも行かない?」
彩由美の提案に、葉羽は少し考える素振りを見せた後、穏やかに微笑んだ。
「そうだね。ずっと座りっぱなしだったし、少し歩いてくるのもいいかもしれない。」
二人は連れ立って屋敷を出た。葉羽の住む豪邸は広大な敷地を有し、手入れの行き届いた庭には色とりどりの花が咲き誇っていた。しかし、その広さゆえに、どこか寂しげな印象を与えることもあった。両親は海外赴任中で、広い屋敷に住んでいるのは葉羽一人だったのだ。彩由美はそんな葉羽をいつも気にかけていた。
公園までの道を歩きながら、彩由美はふと思い出したように話し始めた。
「ねえ、葉羽君。昨日テレビで見たニュース、知ってる?孤島の天文台で、変な事件があったって…」
「天文台?ああ、確か…」
葉羽は彩由美の言葉に興味を示した。事件の概要は既にニュースで知っていたが、彩由美がわざわざ話題にするということは、何か気になる点があったのだろう。
「その天文台って、昔から幽霊が出るとか、変な噂があるところらしいんだけど…亡くなった人、精神錯乱状態だったんだって。何か恐ろしい幻覚を見て、逃げ回ってるうちに…」
彩由美は言葉を濁した。事件の詳細を語ることに躊躇しているようだった。
「幻覚…か。現場の状況は?」
葉羽の探求心に火がついた。彼は立ち止まり、彩由美の方を真剣な表情で見つめた。
「詳しいことは分からないけど…でも、ニュースで流れた現場の写真、なんだか変だったの。景色が歪んでるっていうか…うまく言えないんだけど…」
彩由美の言葉に、葉羽の脳裏に一つの仮説が浮かび上がった。視覚の歪み…それは彼の知的好奇心を刺激するキーワードだった。
「彩由美、その島に行ってみないか?事件の真相を確かめたいんだ。」
唐突な葉羽の提案に、彩由美は驚いた表情を見せた。
「えっ?でも、危ないかもしれないよ?それに、どうやって行くの?」
「心配ない。僕が必ず君を守る。それに、あの島への定期船が出ているはずだ。調べてみるよ。」
葉羽の言葉には、確固たる決意が感じられた。彩由美は不安を感じつつも、彼の強い意志に抗うことはできなかった。彼女は葉羽の幼馴染として、そして彼に密かに想いを寄せる少女として、彼の傍にいることを選んだのだ。
数日後、二人は島へと向かう定期船に乗っていた。海は穏やかで、春の陽光が水面をキラキラと輝かせていた。しかし、島が近づくにつれ、空気が重く沈んでいくような感覚を覚えた。島全体を覆うように立ち込める霧が、不吉な雰囲気を醸し出していた。
「ねえ、葉羽君…やっぱり、やめた方が…」
彩由美の不安げな声に、葉羽は優しく微笑んだ。
「大丈夫だよ、彩由美。僕がいる。」
その言葉に、彩由美は少しだけ安心した。しかし、彼女の胸の奥に潜む不安は、完全には消え去らなかった。
島に到着した二人は、まず港近くの小さな食堂で昼食をとることにした。店主の老婆は、二人が虚塔へ行くことを知ると、露骨に嫌な顔をした。
「あの塔には近づかん方がいい。祟りがあるって昔から言われとる…」
老婆の話によると、虚塔はかつて星を観測するための天文台だったが、ある事件をきっかけに閉鎖されたという。それ以来、島では奇妙な出来事が相次ぎ、人々は虚塔を恐れるようになったらしい。
「事件…ですか?どんな事件だったんです?」
葉羽の問いに、老婆は口を噤んだ。深く話すことを拒んでいるようだった。
「…とにかく、あの塔には近づくな。命が惜しけりゃな。」
老婆の警告を背に、二人は虚塔へと向かった。霧が立ち込める山道を歩きながら、彩由美は不安を隠せない様子だった。
「葉羽君、本当に大丈夫なの?あの老婆の話、なんだか不気味だったけど…」
「大丈夫だよ。それに、ああいう話こそ、僕たちの興味をそそるじゃないか。」
葉羽は冗談めかして言ったが、内心では老婆の話に何か引っかかるものを感じていた。事件、祟り、幻覚…これらのキーワードが、彼の推理の糸を刺激する。
やがて、霧の中に巨大な建造物が姿を現した。それが虚塔だった。古びた石造りの塔は、見るからに異様な雰囲気を放っていた。塔の頂上にあるドームは黒ずんでおり、まるで巨大な怪物の目のようだった。
二人は重い扉を開け、塔の内部へと足を踏み入れた。中はひんやりとした空気が漂い、不気味な静寂が支配していた。壁には無数の亀裂が走り、床には埃が厚く積もっている。長い間、誰も足を踏み入れていないことが窺えた。
「…なんだか、嫌な感じ…」
彩由美は不安そうに呟いた。彼女の言葉に、葉羽も同感だった。この塔には、言葉では言い表せない不穏な空気が満ちていた。
その時、二人は奇妙な音を耳にした。それはまるで、遠くから聞こえてくる低いうめき声のようだった。音の発生源を探そうと、二人は塔の奥へと進んでいく。
進むにつれて、音は次第に大きくなっていった。同時に、周囲の空気が冷たくなり、何かに肌を撫でられているような感覚を覚えた。彩由美は葉羽の腕に縋り付き、恐怖に震えていた。
「葉羽君…怖い…」
「大丈夫だ、彩由美。僕がついてる。」
葉羽は彩由美を励ましながら、慎重に歩を進めた。音の発生源は、塔の地下へと続く階段の下にあるようだった。
二人が階段を下り始めると、突然、強い風が吹き抜けた。同時に、目の前が歪み、景色が波打つように揺れた。
「きゃあっ!」
彩由美の悲鳴が響いた。彼女の視界に、何かが映ったのだ。それは、黒い影のような、人の形をした何かだった。
「どうした、彩由美!」
葉羽は彩由美を抱き寄せ、周囲を見渡した。しかし、そこには何もいなかった。風も止み、景色も元に戻っていた。
「今…黒い影が…」
彩由美は恐怖に震えながら、葉羽の腕にしがみついた。葉羽は彼女の言葉を否定しなかった。彼自身も、一瞬、何かの気配を感じたのだ。
「…とりあえず、地下に行ってみよう。この塔に隠された秘密が、そこにあるはずだ。」
葉羽は不安を押し殺し、再び階段を下り始めた。彼の脳裏には、ある疑問が浮かんでいた。この塔で起きていることは、本当にただの幻覚なのだろうか? それとも、もっと恐ろしい何かが潜んでいるのだろうか?
階段を下りきると、そこには広大な地下空間が広がっていた。巨大な機械のような装置がいくつも並び、壁には複雑な配線が張り巡らされている。薄暗い空間に、機械の稼働音だけが響き渡っていた。
「これは…一体…」
葉羽は目の前の光景に言葉を失った。これらの装置が何のために作られたのか、想像もつかなかった。
彩由美は恐怖に震えながら、葉羽の腕にしっかりと掴まっていた。彼女の視線は、部屋の隅に置かれた古びた木箱に釘付けになっていた。
「葉羽君…あれ…」
彩由美が指差す方を見ると、木箱の蓋が少しだけ開いており、中から何か黒いものが覗いているのが見えた。
葉羽は警戒しながら木箱に近づき、蓋をゆっくりと開けた。中に入っていたのは、古い写真と手帳だった。
写真は色褪せており、何が写っているのか判別しづらかったが、よく見ると、天文台らしき建物と、その前に立つ人々の姿が確認できた。しかし、写真全体が歪んでおり、人々の顔もはっきりとは見えない。
手帳には、歪んだ文字で何かが書き込まれていた。葉羽は手帳を手に取り、その内容を読み始めた。
「…視界…歪む…影…追ってくる…逃げられない…」
手帳に記されていたのは、断片的な言葉の羅列だった。しかし、その言葉の端々から、書き手が強い恐怖を感じていたことが伝わってきた。
「これは…犠牲者が残したものかもしれない…」
葉羽は呟いた。手帳に書かれた内容と、彩由美が見たという黒い影、そして現場写真の歪み。これらの情報が、葉羽の頭の中で一つの線に繋がろうとしていた。
その時、再び奇妙な音が聞こえてきた。それは、先ほど聞いた低いうめき声とは異なり、もっと甲高い、耳障りな音だった。音は地下空間全体に響き渡り、葉羽と彩由美の鼓膜を揺さぶった。
「うっ…頭が…」
彩由美が苦しそうに頭を抱えた。彼女の顔は蒼白で、冷や汗が額に滲んでいた。
「彩由美、しっかりしろ!」
葉羽は彩由美を支えようとした。しかし、その瞬間、彼の視界も歪み始めた。周囲の景色が波打ち、平衡感覚が失われていく。
「な…なんだ…これは…」
葉羽は必死に意識を保とうとしたが、視界の歪みはどんどん酷くなっていった。そして、彼は見た。
暗闇の中から、ゆっくりと現れる黒い影。それは人の形をしているが、その輪郭は曖昧で、まるで霧でできているかのようだった。影はゆっくりと、しかし確実に、葉羽たちの方へと近づいてくる。
「…逃げろ…!」
葉羽は彩由美の手を掴み、その場から走り出した。背後から、影が迫ってくる気配を感じる。
地下空間を必死に走り抜け、二人は階段を駆け上がった。しかし、影は執拗に追いかけてくる。逃げ場はない。
塔の出口に辿り着いた時、葉羽は振り返った。影はすぐそこまで迫っていた。その姿は、よりはっきりと見えるようになっていた。それは、人の形をした空洞だった。まるで、光を飲み込む黒い穴のようだった。
「来るな…!」
葉羽は叫んだが、影は止まらない。絶望的な状況の中、葉羽は彩由美を強く抱きしめた。
その瞬間、世界が反転した。
次に葉羽が目を開けた時、彼は塔の入口に倒れていた。彩由美も彼の隣に座り込んでいた。周囲には誰もいない。影も消えていた。
「…夢だったのか…?」
葉羽は呟いた。しかし、それは夢ではなかった。彼の全身は冷や汗で濡れ、心臓は激しく鼓動していた。そして、彼の目には、確かにあの黒い影が焼き付いていた。
「葉羽君…あれは…何だったの…?」
彩由美の震える声に、葉羽は答えることができなかった。彼自身にも、何が起きたのか分からなかった。ただ一つ確かなことは、この塔には恐ろしい何かが潜んでいるということだった。
そして、葉羽は直感的に悟った。この謎を解かなければ、自分たちも犠牲者たちと同じ運命を辿ることになるだろうと。
葉羽は立ち上がり、再び塔の内部へと足を踏み入れた。彼の表情には、恐怖よりも強い探求心が宿っていた。
影の謎を解き明かすために。この恐ろしい迷宮から脱出するために。そして、大切な幼馴染を守るために。
葉羽の戦いが、今、始まったのだ。
葉羽は高校二年生にして、その名を知らぬ者はない天才と称される少年だった。特に数学と物理においては他の追随を許さず、学年トップの成績を常に維持していた。だが、彼を真に突き動かすのは、論理的思考への飽くなき探求心と、ミステリー小説への深い愛情だった。日常の些細な出来事からも、彼は推理の糸口を見つけ出そうとし、その思考は時に周囲を驚かせるほどの洞察力を見せる。
「葉羽君、また推理小説?」
優しい声が葉羽を現実へと引き戻した。顔を上げると、幼馴染の望月彩由美が心配そうな表情で立っていた。彼女は淡いピンク色のワンピースを身に纏い、春風に揺れる花のように可憐な姿だった。
「ああ、彩由美か。今、面白いところなんだ。もう少しで犯人が分かる…」
葉羽はそう言いながらも、すぐに本を閉じてテーブルに置いた。彩由美は彼の性格をよく理解していた。読書に熱中している時に邪魔されるのを嫌うことを知っていたからだ。
「でも、たまには外に出て気分転換するのも大事だよ?今日はいい天気だし、近くの公園にでも行かない?」
彩由美の提案に、葉羽は少し考える素振りを見せた後、穏やかに微笑んだ。
「そうだね。ずっと座りっぱなしだったし、少し歩いてくるのもいいかもしれない。」
二人は連れ立って屋敷を出た。葉羽の住む豪邸は広大な敷地を有し、手入れの行き届いた庭には色とりどりの花が咲き誇っていた。しかし、その広さゆえに、どこか寂しげな印象を与えることもあった。両親は海外赴任中で、広い屋敷に住んでいるのは葉羽一人だったのだ。彩由美はそんな葉羽をいつも気にかけていた。
公園までの道を歩きながら、彩由美はふと思い出したように話し始めた。
「ねえ、葉羽君。昨日テレビで見たニュース、知ってる?孤島の天文台で、変な事件があったって…」
「天文台?ああ、確か…」
葉羽は彩由美の言葉に興味を示した。事件の概要は既にニュースで知っていたが、彩由美がわざわざ話題にするということは、何か気になる点があったのだろう。
「その天文台って、昔から幽霊が出るとか、変な噂があるところらしいんだけど…亡くなった人、精神錯乱状態だったんだって。何か恐ろしい幻覚を見て、逃げ回ってるうちに…」
彩由美は言葉を濁した。事件の詳細を語ることに躊躇しているようだった。
「幻覚…か。現場の状況は?」
葉羽の探求心に火がついた。彼は立ち止まり、彩由美の方を真剣な表情で見つめた。
「詳しいことは分からないけど…でも、ニュースで流れた現場の写真、なんだか変だったの。景色が歪んでるっていうか…うまく言えないんだけど…」
彩由美の言葉に、葉羽の脳裏に一つの仮説が浮かび上がった。視覚の歪み…それは彼の知的好奇心を刺激するキーワードだった。
「彩由美、その島に行ってみないか?事件の真相を確かめたいんだ。」
唐突な葉羽の提案に、彩由美は驚いた表情を見せた。
「えっ?でも、危ないかもしれないよ?それに、どうやって行くの?」
「心配ない。僕が必ず君を守る。それに、あの島への定期船が出ているはずだ。調べてみるよ。」
葉羽の言葉には、確固たる決意が感じられた。彩由美は不安を感じつつも、彼の強い意志に抗うことはできなかった。彼女は葉羽の幼馴染として、そして彼に密かに想いを寄せる少女として、彼の傍にいることを選んだのだ。
数日後、二人は島へと向かう定期船に乗っていた。海は穏やかで、春の陽光が水面をキラキラと輝かせていた。しかし、島が近づくにつれ、空気が重く沈んでいくような感覚を覚えた。島全体を覆うように立ち込める霧が、不吉な雰囲気を醸し出していた。
「ねえ、葉羽君…やっぱり、やめた方が…」
彩由美の不安げな声に、葉羽は優しく微笑んだ。
「大丈夫だよ、彩由美。僕がいる。」
その言葉に、彩由美は少しだけ安心した。しかし、彼女の胸の奥に潜む不安は、完全には消え去らなかった。
島に到着した二人は、まず港近くの小さな食堂で昼食をとることにした。店主の老婆は、二人が虚塔へ行くことを知ると、露骨に嫌な顔をした。
「あの塔には近づかん方がいい。祟りがあるって昔から言われとる…」
老婆の話によると、虚塔はかつて星を観測するための天文台だったが、ある事件をきっかけに閉鎖されたという。それ以来、島では奇妙な出来事が相次ぎ、人々は虚塔を恐れるようになったらしい。
「事件…ですか?どんな事件だったんです?」
葉羽の問いに、老婆は口を噤んだ。深く話すことを拒んでいるようだった。
「…とにかく、あの塔には近づくな。命が惜しけりゃな。」
老婆の警告を背に、二人は虚塔へと向かった。霧が立ち込める山道を歩きながら、彩由美は不安を隠せない様子だった。
「葉羽君、本当に大丈夫なの?あの老婆の話、なんだか不気味だったけど…」
「大丈夫だよ。それに、ああいう話こそ、僕たちの興味をそそるじゃないか。」
葉羽は冗談めかして言ったが、内心では老婆の話に何か引っかかるものを感じていた。事件、祟り、幻覚…これらのキーワードが、彼の推理の糸を刺激する。
やがて、霧の中に巨大な建造物が姿を現した。それが虚塔だった。古びた石造りの塔は、見るからに異様な雰囲気を放っていた。塔の頂上にあるドームは黒ずんでおり、まるで巨大な怪物の目のようだった。
二人は重い扉を開け、塔の内部へと足を踏み入れた。中はひんやりとした空気が漂い、不気味な静寂が支配していた。壁には無数の亀裂が走り、床には埃が厚く積もっている。長い間、誰も足を踏み入れていないことが窺えた。
「…なんだか、嫌な感じ…」
彩由美は不安そうに呟いた。彼女の言葉に、葉羽も同感だった。この塔には、言葉では言い表せない不穏な空気が満ちていた。
その時、二人は奇妙な音を耳にした。それはまるで、遠くから聞こえてくる低いうめき声のようだった。音の発生源を探そうと、二人は塔の奥へと進んでいく。
進むにつれて、音は次第に大きくなっていった。同時に、周囲の空気が冷たくなり、何かに肌を撫でられているような感覚を覚えた。彩由美は葉羽の腕に縋り付き、恐怖に震えていた。
「葉羽君…怖い…」
「大丈夫だ、彩由美。僕がついてる。」
葉羽は彩由美を励ましながら、慎重に歩を進めた。音の発生源は、塔の地下へと続く階段の下にあるようだった。
二人が階段を下り始めると、突然、強い風が吹き抜けた。同時に、目の前が歪み、景色が波打つように揺れた。
「きゃあっ!」
彩由美の悲鳴が響いた。彼女の視界に、何かが映ったのだ。それは、黒い影のような、人の形をした何かだった。
「どうした、彩由美!」
葉羽は彩由美を抱き寄せ、周囲を見渡した。しかし、そこには何もいなかった。風も止み、景色も元に戻っていた。
「今…黒い影が…」
彩由美は恐怖に震えながら、葉羽の腕にしがみついた。葉羽は彼女の言葉を否定しなかった。彼自身も、一瞬、何かの気配を感じたのだ。
「…とりあえず、地下に行ってみよう。この塔に隠された秘密が、そこにあるはずだ。」
葉羽は不安を押し殺し、再び階段を下り始めた。彼の脳裏には、ある疑問が浮かんでいた。この塔で起きていることは、本当にただの幻覚なのだろうか? それとも、もっと恐ろしい何かが潜んでいるのだろうか?
階段を下りきると、そこには広大な地下空間が広がっていた。巨大な機械のような装置がいくつも並び、壁には複雑な配線が張り巡らされている。薄暗い空間に、機械の稼働音だけが響き渡っていた。
「これは…一体…」
葉羽は目の前の光景に言葉を失った。これらの装置が何のために作られたのか、想像もつかなかった。
彩由美は恐怖に震えながら、葉羽の腕にしっかりと掴まっていた。彼女の視線は、部屋の隅に置かれた古びた木箱に釘付けになっていた。
「葉羽君…あれ…」
彩由美が指差す方を見ると、木箱の蓋が少しだけ開いており、中から何か黒いものが覗いているのが見えた。
葉羽は警戒しながら木箱に近づき、蓋をゆっくりと開けた。中に入っていたのは、古い写真と手帳だった。
写真は色褪せており、何が写っているのか判別しづらかったが、よく見ると、天文台らしき建物と、その前に立つ人々の姿が確認できた。しかし、写真全体が歪んでおり、人々の顔もはっきりとは見えない。
手帳には、歪んだ文字で何かが書き込まれていた。葉羽は手帳を手に取り、その内容を読み始めた。
「…視界…歪む…影…追ってくる…逃げられない…」
手帳に記されていたのは、断片的な言葉の羅列だった。しかし、その言葉の端々から、書き手が強い恐怖を感じていたことが伝わってきた。
「これは…犠牲者が残したものかもしれない…」
葉羽は呟いた。手帳に書かれた内容と、彩由美が見たという黒い影、そして現場写真の歪み。これらの情報が、葉羽の頭の中で一つの線に繋がろうとしていた。
その時、再び奇妙な音が聞こえてきた。それは、先ほど聞いた低いうめき声とは異なり、もっと甲高い、耳障りな音だった。音は地下空間全体に響き渡り、葉羽と彩由美の鼓膜を揺さぶった。
「うっ…頭が…」
彩由美が苦しそうに頭を抱えた。彼女の顔は蒼白で、冷や汗が額に滲んでいた。
「彩由美、しっかりしろ!」
葉羽は彩由美を支えようとした。しかし、その瞬間、彼の視界も歪み始めた。周囲の景色が波打ち、平衡感覚が失われていく。
「な…なんだ…これは…」
葉羽は必死に意識を保とうとしたが、視界の歪みはどんどん酷くなっていった。そして、彼は見た。
暗闇の中から、ゆっくりと現れる黒い影。それは人の形をしているが、その輪郭は曖昧で、まるで霧でできているかのようだった。影はゆっくりと、しかし確実に、葉羽たちの方へと近づいてくる。
「…逃げろ…!」
葉羽は彩由美の手を掴み、その場から走り出した。背後から、影が迫ってくる気配を感じる。
地下空間を必死に走り抜け、二人は階段を駆け上がった。しかし、影は執拗に追いかけてくる。逃げ場はない。
塔の出口に辿り着いた時、葉羽は振り返った。影はすぐそこまで迫っていた。その姿は、よりはっきりと見えるようになっていた。それは、人の形をした空洞だった。まるで、光を飲み込む黒い穴のようだった。
「来るな…!」
葉羽は叫んだが、影は止まらない。絶望的な状況の中、葉羽は彩由美を強く抱きしめた。
その瞬間、世界が反転した。
次に葉羽が目を開けた時、彼は塔の入口に倒れていた。彩由美も彼の隣に座り込んでいた。周囲には誰もいない。影も消えていた。
「…夢だったのか…?」
葉羽は呟いた。しかし、それは夢ではなかった。彼の全身は冷や汗で濡れ、心臓は激しく鼓動していた。そして、彼の目には、確かにあの黒い影が焼き付いていた。
「葉羽君…あれは…何だったの…?」
彩由美の震える声に、葉羽は答えることができなかった。彼自身にも、何が起きたのか分からなかった。ただ一つ確かなことは、この塔には恐ろしい何かが潜んでいるということだった。
そして、葉羽は直感的に悟った。この謎を解かなければ、自分たちも犠牲者たちと同じ運命を辿ることになるだろうと。
葉羽は立ち上がり、再び塔の内部へと足を踏み入れた。彼の表情には、恐怖よりも強い探求心が宿っていた。
影の謎を解き明かすために。この恐ろしい迷宮から脱出するために。そして、大切な幼馴染を守るために。
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