きみ

ユウリ(有李)

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ばんごう

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 ◇◇◇



「そういえば、うちのクラスに市田っているじゃん?」

 部活の練習が休憩に入るなり、蒸し風呂のような体育館から転げ出したおれたちは、風通りのいい日陰に座り込んで休んでいた。

「え? あ、ああ。いるよな。その市田がなに?」

 本当は市田って名前を聞いた瞬間食いつきたかったのをぐっと抑えて、さりげなさを装いつつタクヤに訊いた。

「あいつ俺と同じマンションなんだけどさ、引っ越すみたいだぜ。今朝、家を出る時、引越し屋のトラックが来てた」

「なんだって!?」

「え?」

「間違いないのか? あの市田さん? 同じクラスの市田ゆか?」

「な、なんだよ急に立ち上がるなよ、驚くだろ。そうだよ、おまえもよく話してた、あの市田だよ。他に市田なんていないだろ?」

「そうだけど。でも、間違いないのか? なんで引っ越し屋のトラックが来てて、それが市田んちだってわかるんだよ?」

「市田んとこの母ちゃんが業者と話してんの見たんだよ。なんか、うちの母親が聞いてきた話だと、市田の両親、離婚したらしいぜ。父親はもう四月には家を出て行ってて、ふたり暮らしには今のマンションは広いからって、市田と母親も引き払うとかって……」

 こっちにはいないって、そういうことだったのか!

 おれは終業式の日の、市田との会話を思い出す。

 てっきり長期の旅行にでも行くんだろうなと思ってた。

 まさか引っ越すなんて。

「おまえんち、確か文具ハシダの向かいのマンションだよな?」

「え? ああ、そうだけど」

「悪い、おれ早退する!」

「あ、おい!」

 おれはタクヤの声を振り切って駆け出した。

 引っ越すなんて聞いてない。

 連絡先だって、知らない。

 このまま市田さんが引っ越してしまったら、もう二度と会えないかもしれない。

 市田さんの引っ越し先を聞いているクラスメイトがいるとは思えないし、担任は個人情報を一生徒に容易く教えてくれたりはしないだろう。

 市田さんがいなくなってしまう前に、会わないと!

 文具ハシダはそんなに遠くない。

 まだいてくれよ。

 そう祈りながら走る。

 マンションが見えた。

 よかった、トラックはまだいる。

 その傍に、眼鏡をかけた小さな人影が見えた。

「市田さん!」

 おれが呼ぶと、市田さんが眼鏡の奥の目を丸くしてこちらを見た。

 市田さんの私服姿を見るのは初めてだけれど、髪は学校にいる時と同じように、ぼさっとしている。

 けれど濃紺の冬服か、白い夏服しか見たことがなかったから、水色のふわりとしたワンピースがとても似合っている市田さんにどきりとしてしまう。

「……向坂くん?」

「あ! あの、引っ越すって、聞いた、から……」

 走り通しだったからなかなか息が整わない。

 それでもしゃべらないと、と気が急く。

「うん。お母さんの、実家に行くの」

「それ、どこ……?」

「Y市」

「Y市って、隣の?」

「そう。隣の」


 行き先が思ったよりも近くで、ほっとする。

 少しずつ、息も落ち着いてくる。

「でも、学校は転校するんだろ?」

「うん」

「市田さん、ずっと悩んでたみたいだったのに、おれなにも知らなくて、ごめん」

「え?」

 市田さんがずれた眼鏡のレンズの向こうで、ぱちぱちと瞬きをする。    

「いつも、なにか考えてる風だったから」

「気づいてたの?」

「いつも見っ……。いや、ほら、隣の席だったから」

 いつも見てたから、なんて言ったら引かれるかもしれないと、慌てて誤魔化す。

「そう……。うん。わたしが考えても、どうにもならないってわかってたけど。それでもどうしても考えちゃって。でも、もう、だいぶん吹っ切れたんだ。向坂くんのおかげかも。いつも、話しかけてくれてありがとう。嬉しかった」

「携帯!」

「え?」

「市田さんの携帯の番号、教えてよ。よければメアドも。おれ、もし迷惑じゃなかったら、時々電話するよ。おれのくだらない話でよかったら、聞いてよ、これからも。それに、なにか悩んでるんなら、おれに話してみなよ。おれ頭よくないしあんま役に立たないかもしんないけど、話を聞くくらいならできるからさ!」

 一気に思ってることを伝える。

 どうしても、このままさよならしてしまうのは嫌だった。

 必死だった。

 市田さんは驚いていたけれど、少しの間をおいてふわりと笑った。

「ありがとう。もし迷惑じゃなかったら、わたしの番号、登録してください」


 よし!


 思わずガッツポーズをしてしまったおれを見て、市田さんがぷっと吹き出す。

 おれもつられて笑った。

 笑いながら、市田さんとまだつながっていられることに心からほっとしていた。

 市田さんの笑顔は、今日もやっぱり可愛いかった。

 うん。

 市田さんにはやっぱり笑顔が似合う。

 おれは改めてそう思った。

 このあと部活に戻ったおれは顧問と先輩にこてんぱんに叱られるわけだけれど、この時の幸せなおれは、そんなこと知る由もなかった。
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