悪役令嬢は執事にだけ溺愛される

桜井ことり

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「あら、これは失礼いたしました。イザベラ様」


放課後の図書室。
静寂が支配する空間に、ルチアの甲高い声が不自然に響いた。
彼女の手には、私が借りようとしていた貴重な古書が握られている。


「……それを、お返しいただけますか。ルチア様」


私は椅子に座ったまま、静かに彼女を見上げた。
周囲には、彼女に同調するいつもの取り巻きたちが、こちらを嘲笑うように眺めている。


「あら、これは学園の備品でしょう? どなたが使ってもよろしいはずですわ。……それとも、公爵家のお嬢様は、独占がお好きなんですの?」


「独占、ですか。面白いことをおっしゃるのね」


私はゆっくりと立ち上がり、ルチアとの距離を詰める。
彼女は一瞬、怯えたように肩を揺らしたが、すぐに強気な笑みを作った。


「……何を、そんなに怒っていらっしゃいますの? 怖いお顔ですわ。これでは殿下が逃げ出してしまうのも、無理はありませんわね」


「殿下のことは、今この場には関係ありませんわ。……ルチア様、その本は非常に脆いものです。乱暴に扱えば、歴史を損なうことになりますわよ」


私が手を伸ばした瞬間。
ルチアは「あっ」と短い声を上げ、わざとらしくその本を床に落とした。
それだけではない。
彼女は近くのテーブルに置かれていたインク瓶を、これまた「偶然」を装って倒したのだ。


「……まあ! どうしましょう! 手が滑ってしまいましたわ!」


床に散らばる黒い染み。
貴重な古書のページが、無惨にもインクに染まっていく。
ルチアは口元を押さえながら、勝ち誇ったような瞳で私を見た。


「イザベラ様が、無理に奪おうとなさるから……。わたくし、怖くて」


「……何事だ、この騒ぎは!」


タイミングよく現れたのは、エドワード殿下だった。
彼は床の惨状と、今にも泣き出しそうなルチアを見て、瞬時に私を睨みつけた。


「イザベラ! 貴様、またルチアに嫌がらせをしたのか! 本を汚してまで彼女を陥れたいのか!」


「殿下……。わたくしは、ただ本を読もうとしただけですのに……」


ルチアが殿下の胸に飛び込む。
殿下はその細い肩を抱き寄せ、怒りに震える声で私を断罪した。


「……もういい。これほどの証拠があって、まだ言い逃れをするつもりか。今すぐ彼女に謝罪し、この場から立ち去れ!」


静まり返る図書室。
誰もが私の失墜を確信した、その時だった。


「失礼いたします、殿下。……少々、宜しいでしょうか」


氷のように冷ややかな声。
いつの間にか私の傍らに立っていたアルヴィンが、優雅な動作で床に膝をついた。


「アルヴィンか。貴様、主人の不始末をどう言い訳するつもりだ?」


「言い訳など、滅相もございません。ただ、あまりに不可解なことがございましたので、確認させていただきたく存じます」


アルヴィンは、汚れた本を汚物でも見るかのような冷徹な目で見つめ、それからルチアに視線を移した。


「ルチア様。……その指先に付着している黒い汚れは、何でしょうか?」


「えっ……。そ、それは、インクが飛び散った時に……」


「妙ですね。お嬢様から本を奪い返そうとした際に倒れたのであれば、ルチア様の立ち位置からして、指先にまでインクがつくはずがございません。……まるで、自らインク瓶を掴んで、ひっくり返したかのような汚れ方です」


アルヴィンが静かに立ち上がる。
その圧倒的な威圧感に、ルチアは一歩後ずさった。


「それに。この図書室には、常に司書の目が届いております。……そちらの司書の方、今の光景をご覧になっていたのでは?」


アルヴィンが視線を向けた先には、震えながら控えていた年老いた司書がいた。
彼はアルヴィンの、有無を言わせぬ視線に屈するように、小さく頷いた。


「……は、はい。ルチア様が、自ら本を落とし、インクを……」


「な、何を馬鹿なことを!」


エドワード殿下が叫ぶが、周囲の空気は一変した。
貴族の子弟たちは、真実がどこにあるかを察し、囁き声を漏らし始める。


「……お嬢様。これ以上、この場に留まるのは時間の無駄でございます」


アルヴィンが私の肩に手を置く。
公衆の面前。
けれど、彼の指は力強く、私の存在を全肯定するように。


「……ええ。そうね、アルヴィン。殿下、お話は済んだようですわね」


私は呆然とする二人を置き去りにし、優雅に図書室を後にした。
背後でエドワード殿下が何かを喚いていたが、もはや心地よい子守唄にしか聞こえない。


廊下に出ると、アルヴィンが私の歩調を少し緩めた。


「……お見事でした、アルヴィン。あの司書、貴方が事前に手を打っていたの?」


「いいえ。ただ、真実を述べるように『お願い』をしただけです」


アルヴィンは淡々と答えるが、その瞳の奥には昏い愉悦が宿っている。


「……お嬢様。あのような女に、貴女の服を汚させるなど、到底許せることではありません。……今夜は、入念に清めなければなりませんね」


彼の声が、急に温度を帯びる。
「清める」という言葉に込められた、執着と情熱。
私は、これから訪れる深夜の密室での時間を思い、密かに頬を染めた。


「……手加減して、と言っても、貴方は聞いてくれないのでしょう?」


「ええ。貴女を独り占めできる唯一の時間を、疎かにするなど……万死に値しますから」


夕闇が迫る校舎。
私たちは影を一つに重ね、闇夜へと消えていった。
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