悪役令嬢は執事にだけ溺愛される

桜井ことり

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「……お嬢様。これ以上、何を待つ必要があるのですか」


公爵邸の奥深く、見事に咲き誇る赤いバラに囲まれた東屋。
ティーカップを置く音が、静寂の中で不自然なほど鋭く響いた。
アルヴィンの声は低く、そして隠しきれない刃のような鋭利さを孕んでいる。


「待つ? 何を言っているの、アルヴィン。計画は順調でしょう? あの二人は今、疑心暗鬼の泥沼に沈んでいるわ」


「計画のことではありません。貴女の、その『婚約者』という立場のことです」


アルヴィンが私の前に立ちふさがる。
影が私を覆い、逃げ場を失わせる。
彼はいつもなら守るべき距離を、今日はいとも容易く踏み越えてきた。


「殿下の不貞は明白。ルチア様の横領と虚飾も、証拠は揃っている。……今すぐ貴女が頷けば、明日にはあの男との縁を切り、自由になれるというのに」


「……何度も言わせないで。中途半端な破棄では、私の気が済まないのよ。公爵家の名誉を傷つけ、私を蔑んだ報いを、公の場で完璧に支払わせるまでは」


私が顔を上げると、アルヴィンの瞳には昏い情熱ではなく、剥き出しの嫉妬が渦巻いていた。
彼は私の肩を強く掴み、そのまま椅子の背もたれに押し付ける。


「……建前はもういい! 貴女があの男を『婚約者』と呼び続けるたびに、私の心は千々に引き裂かれる思いだ! なぜ……あんな男に、これほどまで執着なさるのですか!」


「アルヴィン……、離して。痛いわ」


「痛い? 私の痛みはその比ではない! ……貴女を抱いている時ですら、貴女の指にはあの男との誓いの指輪が光っている。……それが、私には耐え難い屈辱なのです」


アルヴィンの指が、私の左手薬指に触れる。
忌々しげにその銀の輪を見つめたかと思うと、彼は強引にそれを引き抜こうとした。


「やめて! これはまだ、私が『鉄の令嬢』として戦うための武器なのよ!」


「武器なら私がいくらでも用意する! ……お嬢様、いや、イザベラ。貴女は本当に復讐のためだけに、あのような無能な男にしがみついているのですか?」


彼の問いは、鋭い針のように私の胸を刺した。
沈黙が流れる。
バラの香りが、むせ返るほどに濃くなる。


「……違うわ。執着しているのは、私じゃない。……私は、彼らが私から奪おうとした『プライド』を、完璧な形で取り戻したいだけ」


「プライド……。貴女のプライドを守るのは、あの男の隣にいることなのですか?」


アルヴィンが自嘲気味に笑い、私の首筋に顔を埋めた。
その唇が、震えているのが分かる。


「……違う。……私のプライドは、貴方の隣にあるわ。……でも、それを世界に示すには、今のままじゃダメなの。……私が『捨てられた令嬢』ではなく、『全てを切り捨てた女王』として君臨しなければ、貴方を私の隣に迎えることはできない」


私の言葉に、アルヴィンの動きが止まった。
彼はゆっくりと顔を上げ、信じられないものを見るような瞳で私を見つめる。


「……お嬢様。今、なんとおっしゃいましたか?」


「……聞こえなかったの? 私が自由になる時は、貴方を『執事』としてではなく……私の唯一の男として、世界に認めさせる。……そのためには、エドワード殿下を徹底的に、再起不能なまでに叩き潰さなければならないのよ」


今度は、私からアルヴィンの頬に手を添えた。
彼の瞳に宿っていた狂気が、次第に深い慈しみへと溶けていく。


「……傲慢な、お嬢様だ。……執事を自分の伴侶にしようなどと。……それは復讐よりも、ずっと困難で、罪深い望みですよ」


「ええ。だから、貴方が手伝って。……私を、地獄の果てまで導いてくれるのでしょう?」


アルヴィンはしばらく私を見つめていたが、やがて敗北を認めるように深く溜息をつき、私の指先を優しく噛んだ。


「……仰せのままに。……その代わり、夜会が終わったその瞬間、その指輪は私が海に捨てさせていただきます。……よろしいですね?」


「……ええ。約束するわ」


私たちは、再び熱い接吻を交わした。
対立は、より深い共犯関係へと昇華される。
二人の愛は、復讐の炎を燃料にして、さらに激しく燃え上がっていく。
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