婚約破棄感謝致します!

桜井ことり

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馬車が国境を越え、隣国エルドラドの北部に位置する「見捨てられた地ロスト・フロンティア」へと足を踏み入れた瞬間、空気の質が劇的に変わった。

王国の、あの軟弱で洗練された空気とは違う。
肺の奥を刺すような、濃密で野性味溢れる魔力のかおり。
窓の外には、空を突き刺すような巨木の群れと、見たこともない色彩の極光が空を舞っている。

「……はぁ。やっぱり最高ね、この不穏な空気。性格の悪い私には、こっちの方がずっと肌に合うわ」

アンジェリカは、窓枠に肘をついてうっとりと外を眺めた。
隣で茶を淹れていたリセットが、無表情のまま頷く。

「アンジェリカ様。性格が悪い自覚があるのは素晴らしい美徳ですが、一応、表向きは『悲劇の令嬢』であることをお忘れなきよう。……まあ、この殺風景な荒野には、同情してくれる観客など一匹の魔物もおりませんが」

「いいのよ。観客なんて、後で金で雇えばいいんだから」

馬車が進むにつれ、道は険しさを増していく。
普通の貴族令嬢なら、馬車の揺れだけで卒倒してしまいそうな悪路だが、この馬車には特注の重力制御魔導具が組み込まれているため、中には振動一つ伝わらない。

アンジェリカがこの土地を手に入れたのは、今から五年前のことだ。
「エルドラドの死に地」と呼ばれ、狂暴な魔獣が跋扈し、作物は育たず、さらには数代前の領主が非業の死を遂げたという呪いの噂まである――そんな、誰もがタダでも欲しがらないゴミのような土地。

彼女はそれを、いくつものダミー会社を経由し、二束三文の端金で買い叩いた。
王国の王族たちが、彼女の魔力を搾取して贅沢な舞踏会に興じている間に、彼女はその「搾りかす」のような端金で、将来の帝国を築くための地盤を固めていたのだ。

「見えてきました。あちらが、本日よりアンジェリカ様の王宮となる『幽霊屋敷ゴースト・マナー』でございます」

リセットが指差した先。
小高い丘の上に、重厚すぎるほど重厚な、そしてボロボロに朽ち果てた古城がそびえ立っていた。
ツタが這い回り、屋根は一部崩落し、窓ガラスは一枚も残っていない。
おまけに、屋敷の周囲には「入るな」と言わんばかりに不気味な紫色の霧が漂っている。

「あら、素敵。予想以上にボロいわね。これはやりがいがあるわ」

「ポジティブですね。普通の人間なら絶望して王宮に泣きつくレベルですが」

「あんな無能の巣窟に戻るくらいなら、一生ここで幽霊とダンスを踊る方がマシよ。さあ、リセット。お掃除ジェノサイドの時間よ」

馬車が屋敷の正門前で止まる。
アンジェリカが足を踏み出すと、待ってましたと言わんばかりに、霧の中から数匹の影狼シャドウ・ウルフが姿を現した。
辺境の魔物は、王都周辺に生息する小動物のような魔物とは格が違う。
一噛みで牛の首を撥ね飛ばす、文字通りの人喰い獣だ。

「グルルッ……」

牙を剥き、襲いかかろうとする影狼たち。
アンジェリカはそれを一瞥もせず、ただ指先をパチンと鳴らした。

「――跪きなさい。私の土地よ」

その瞬間、アンジェリカの体から、黄金色の魔力が爆発的に放出された。
それは暴力的なまでの圧力となって、周囲数キロメートルの空間を支配する。
影狼たちは悲鳴を上げる暇もなく、大地に縫い付けられたように平伏した。
あまりの魔力の濃さに、呼吸すら許されない。

「いい、聞きなさい。私はこの土地の新しい主よ。私に従うなら命は助けてあげる。でも、私の昼寝を邪魔したり、庭を荒らしたりするなら……その時は、あなたたちの魔石を抽出して、夜会のシャンデリアの燃料にするから」

影狼たちは、文字通り脱糞せんばかりの勢いで尻尾を巻き、闇の中へと消えていった。
それを確認すると、アンジェリカは満足げに頷き、朽ち果てた屋敷へと歩を進めた。

玄関ホールに入ると、埃とカビの臭いが鼻をつく。
床板は腐り、豪華だったはずの絨毯はボロ雑巾のようだ。

「リセット。予算は無制限よ。一気にいくわ」

「承知いたしました。……『再構築型・大規模建築魔法』の展開準備。魔力供給をお願いします」

「ええ。溜め込んできた私の魔力、存分に使いなさい!」

アンジェリカが両手を広げると、彼女の背後に巨大な魔法陣が何重にも重なり合って展開された。
王国の結界を数百年維持できるほどの膨大な魔力が、たった一軒の屋敷を直すためだけに贅沢に注ぎ込まれる。

「――世界を書き換えテラフォーミングなさい。我が愛しき城マイ・ディア・キャッスル!」

轟音と共に、屋敷全体が眩い光に包まれた。
腐った木材が瞬時に強固な大理石へと姿を変え、破れたカーテンは最高級のシルクとして織り直される。
崩落していた天井は、星空を模した見事なフレスコ画で彩られ、窓には外敵を退ける特殊な強化ガラスが嵌め込まれていく。

わずか数分の出来事だった。
かつての「幽霊屋敷」は、王国でもお目にかかれないほどの、格式高くも最新鋭の機能を持った魔導宮殿へと変貌を遂げたのだ。

「……ふぅ。ちょっとやりすぎたかしら?」

「いいえ。アンジェリカ様の美学を体現するには、これでも地味なくらいです。照明の魔導回路を少し調整しましたので、夜には庭園が幻想的にライトアップされるようにしておきました」

「気が利くわね。さあ、今日からここが『アンジェ・商会』の本拠地よ」

アンジェリカは、新しくなったばかりの豪華な革張りの椅子に腰を下ろし、優雅に足を組んだ。
窓の外には、魔境の森が広がっている。
そこには無限の資源と、まだ誰も手をつけていない富が眠っているのだ。

「さて、カイル様。今頃は、空っぽになった金庫の前で、フェリシアさんと一緒に泣きべそをかいているのかしら? せいぜい頑張って『愛』でお腹を膨らませることね。私はここで、世界中の富を根こそぎ奪い取って、あなたたちが一生かかっても手に入れられない『本当の楽園』を築いてあげるから」

彼女の不敵な笑みが、鏡のように磨かれた床に映り込む。
婚約破棄された哀れな令嬢など、ここにはいない。
あるのは、ただ己の欲望と才能に従って、世界を塗り替えようとする一人の「女」の姿だけだった。

「リセット。まずは、あの森に眠っている『二日酔いに効く薬草』を全部回収してきなさい。酒好きの隣国の貴族たちを、まずは胃袋から支配してやるわ」

「かしこまりました、我が女帝」

アンジェリカの第二の人生は、こうして爆音と共に華々しく幕を開けたのである。
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