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本当に欲しいもの 〜火星に行くのは拗ねたからじゃない

思考回復…?

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 シャワー上がりの体内にミネラルウォーターが行き渡る。そうしてようやくショーティは大きな息を吐いた。そんな姿を認めた男は、ふわりと柔らかく笑う。

「なに?」
 気配を察して問いかけると、
「…もし、俺が男はダメな奴だったらどうするつもりだったんだろうなと思ってさ」と、どこか呆れたような口調で告げる。

「そんなの。結果が変わるだけでしょ。全然問題なし」
「なんだそりゃ」
「言ったよね、その身体にも興味があるって」

 嘘偽りない真実だよ、と告げるショーティに、男は肩を竦めた。そして軽い息を吐き、ゆっくりと口を開く。

「猿が、な。行方不明なんだと」
「猿?」
「ああ。火星での開拓の際、一緒に連れて行った猿はずっと火星で暮らしていた。が、内の一頭がウイルスに侵された。そのウイルスを調べるために月に運ばれる予定だった」
「そんなの、調べればすぐにわかるんじゃない?」
「火星は出た。その担当とそれらしき猿が出立したのは見ているし、記録も残っている。更に第二ステーションも出だ。が」
「月には来なかった」
「ああ。調べても埒があかない。死んだのか、誰かがどこかで隠しているのか。それが何のためなのか。ウイルスってとこがやっかいなもんだよ」
「むかーしそんな映画があったなぁ。謎のウイルスがアメリカに蔓延していく。結局はウイルス元を発見して解決、だったかな」
「そんな映画はごまんとあるだろう。実のところウイルスが一番の凶器なのかもしれないな」

 それほど危険なことだったのか、と思わずため息。
 危険度100%……確かに嘘はついていない。

 ショーティは、窓に近づくとブラインドを解除して、アトラスの灯をやや睨むようにみつめた。

 移民目的に開発されている火星での謎のウイルス騒動。
 そもそも、本当にウイルスがあるのか。
 なぜ、それが隠匿されなければならなかったのか。
 本当に、情報部は行き詰まっているのか。そして、軍。

「火星の独立は在り得る、んだよね」

 ぽそりと零すと、後方の男は怪訝な表情を見せた。その姿が窓ガラスにはっきりと映る。

 ジャーナリストの移送は、軍の状況を探る…ため?

「好き勝手やるよね、みんな」
「みんな?」

 復唱する男を振り返ったショーティは、窓ガラスにもたれ湿った前髪を軽くかきあげる。

「みんなは、みんな。地球のお偉いさんも、火星のお偉いさんも、月の情報部も軍も!」

 そして、自分自身に…アーネスト。

 アーネスト・レドモン。

 金茶の髪に茶金の瞳。洗練された優雅な物腰で敏腕振りを際限なく発揮するトップ企業の更なるトップにいる最愛の人。
 いつの間にか惚れていた。
 どうしようもなくどっぷりと。

【僕じゃなくても、いるだろう?】

 幾度となく肌を合わせていた。けれど、そう避けられた瞬間、切れた。
 誰でもいい、なんて。

【大切な友人だから】

 だから抱かない、など。

 確かに始まりは、秘密を共有するものだった。けれど、ショーティの中ではすぐに大切な友人で仕事仲間となった。そばにいれば楽しくて、考えたことなどなかった。……アーネストの中の自分の位置など。

 全てを一定の箱にしまわないと気がすまないのだろうか。
 友人で、仕事仲間で、セックスフレンド。
 それとも、やはり自分では足りないのか。

【大切な友人】

 そんな場所が欲しかったわけではない。

「ほら」
 窓にもたれたまま俯いていると、いつの間にか歩み寄った男がミネラルウォーターを差し出した。声につられて顔を上げるショーティであったが、

「……ワインを貰う」

 ぽつりとこぼすと、男の脇をすり抜けるようにして、テーブルへとワインを取りに歩き出す。

「軍では、シュワイゼル火星局長をマークしている。奴は情報部とも繋がりがあるし、身内に探らせても埒が明かないからジャーナリストを巻き込んだんじゃないかと俺たちは睨んでいる」

 男の言葉に思わず振り返ると、手にしたミネラルウォーターを一息に飲み干し、それからビールを口にする男が映る。

「ウイルスをばらまく、と脅していて火星の実権を握る。けれど、実際のところ火星の動力を抑えなければ意味はない。だから俺たちは動力を保護するために火星に行くんだ」
 火星にはまだ空気はない。それを作り出すテラフォーミングは莫大な年月を必要とする。その為、北半球と南半球の地下深くで広大な磁力を発生させ、火星の回転を上げていくという試みを行っていた。火星の回転を上げて、重力を作り出し、空気を定着させる。その磁力を発生させるための動力の保護。武力的介入も見越しているということだ。

「莫大な金額が動くよね。ほんと、秘密主義。軍も政府も、企業も」
「それが世の中だ。わかっているだろう」
「そりゃさ、わかってるけど、なんだかさぁ」

 ショーティはわざとらしいため息をつき、ワインを飲んだ。やや渋みのある芳醇な香りが口内を巡り、喉元を過ぎていく。
 さほど情報を持たない、が聞いて呆れる。十分に満足の行く結果だ。あとはどうやって裏付けをとるか。

「俺もなぁ。女には気ぃつけていたが、今度からはガキにも気をつけなきゃならねぇな」

 グラスを手にしたまま考え込んでいると、どこか明るい声音で男が告げた。顔を上げるショーティは、頭を抱えるようにしている男を認め、男もまた視線を感じたのか顔を上げると、
「が、お前のようなガキは滅多にいないだろ?」と続ける。

 朗らかな目元に短めの茶髪。初めて男の顔を見たような気がして、ショーティは思わず笑みを浮かべた。

「————褒め言葉として、受け取っとくよ」
「褒め言葉だろ?どう聞いても」

 グラスがことんと小さな音を立てテーブルへと戻される。それから、男に向き直るショーティは、
「帰るね」と、一言、身支度を始めた。

 その様をみつめながら、男はビールを口へと運ぶ。

「なんでこんなやばい事に首を突っ込む気になったんだ?」

 ちょうどシャツを羽織った瞬間と重なり、片手を突き出した格好のまま、ショーティはやや驚いたような表情を垣間見せ、それからすぐに、くすっ、と笑みを覗かせる。
 そして、若いのに、と続ける男に向き直り、
「若いから、だよ?早いとこ名前を売らなきゃ。それに好奇心も旺盛なんだよね」

【火星の独立】

 それはずっと前にショーティ自身が口にした言葉であった。まさかそれが現実になるとは思ってもいなかった。ならば、自身の言葉のためにも、今回の火星行きは譲れない。

 本当に、それだけ?
 自問するが、それもあるから、と言い聞かせる。

 それも、ある……。

「死ぬなよ」

 着替え終えたショーティに、窓から離れて歩み寄る男は、やや慎重な響きで告げてきた。その言葉からもわかる今回の仕事のやばさに、けれどショーティは軽く首を傾げて、笑みさえ覗かせる。

「あなたもね」

「ウォルターだ」
「え?」
「ウォルター・ブラウン軍曹。覚えといてくれ」

「……やばいんじゃないの?」
「さあな。俺は言われたことをやるだけのしがない軍人さ」

 名を明かしたことで、ショーティが手にする情報は一気に増える。その為に名は明かさないはずだった。なのに、明かされた名前と素性。

「生真面目、単純明快、粗野で野暮、ほんと、参謀には向かないタイプ…」

 伸ばされる男の腕が、頬を過ぎる。そして、寄せられる口元がゆっくりと重なった。
 侵入してくる舌が、触れ合う。苦味のある麦芽が甘酸っぱいワインと絡み合い、そして、離れた。

「初めて、応えたな」

 ふっ、と笑みを浮かべるウォルターに、ショーティは少しだけバツが悪そうに肩を竦めながらもまた笑みを見せるときびすを返すように部屋を後にするのだった。




「死ぬなよ…か」
 地球で、その仕事上でよく冗談で口にした言葉の、今回の重さを知り得た気がして、ショーティは深いため息をついた。

 微妙な身体の疼きと心の不安定さ。

 仕事になるのかと言い聞かすが、答えは作られた闇に吸い込まれていく。
 自然手にしていたのは通信用デバイスで、仕事仲間にはしばらく休養と告げてあるためコールはない。だが、唯一、1回線の為だけに電源は切れなかった。
 もちろん、相手はアーネスト・レドモン。
 喧嘩別れのように離れてしまい2週間以上が経っていた。
 連絡を絶ったのは2回目だが、相変わらず彼からの連絡はない。年始休暇などとっくに終わっているはずだ。世界情勢もそれほど変化はなく、特に事件があるわけでもない。
 連絡をしなければ、終わってしまうのだろうか。
 だが、毎回毎回こちらから連絡をするのも癪にさわる。

「大切な友人だと思うなら連絡くらいくれてもいいじゃないか!」

 人の往来の中、思わず叫んでしまうが、ふと思い、ピタリと足が止まった。

 作られた闇の中、ファンによる風がショーティの足元を吹き抜ける。
 月ドームには地球の北半球と同じ季節があった。1月の今は冬季。だからこその風は、冷たく乾いており、ショーティは軽く身震いをする。
 大切な友人と告げたのはあの場しのぎだったのだろうか?
 そう、別段、連絡がなくなってもいいくらいの…?
 アーネストの動向だけは読めなかった。昔からそうだった。そして最近では頓に。

 考え出すと深みにはまる。そうすると動けなくなる。それだけは嫌だった。だからこその火星行きじゃないか、ショーティは深く自分に言い聞かせ、ようやく重い一歩を繰り出すのだった。





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