白い夏に雪が降る【完結済】

安条序那

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第31話 偽刻

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 色とりどりの音をした旋律が響いている。
 小さな家の中で誰かがピアノを弾いている。
 綺麗な杢目の椅子に背中の大きな大好きな人が座っている。
 嫋やかに指をしならせて、誰かに捧げる曲を奏でている。
 そう、曲名は「月の光」だ。
 これを弾く時、この人は見たこともないほど悲しげな顔をする。
 蝶々が飛んでいる。満足に広げることができなかった不揃いな羽を必死に羽ばたかせて、小さな籠の外では決して生きられない鮮やかな羽が舞っている。
 醜い芋虫が蛹を経てその身を溶かし蝶々になって空を舞う。蛹の中で大人になる夢を見ているから。
 遠くの空へ飛び立って、自分の知らないたった半径3キロの世界を知るために。その翼を陽光にはためかせて、未来に繋がることを夢見て――。
 けれど、籠から離れた蝶々たちはみるみるうちに飛ぶ力を失っていく。壁に何度もぶつかっては小さく飛ぶのを繰り返し、やがて地面に横たわった不揃いな羽を力なくふるふると震わせて、もう二度と舞い上がれない空を夢見て冷たい地面に抱かれて眠り始める。たった一度、たった一度だけ感じた風の中の感触を思い出しながら。
 もう二度と目覚めることのない鮮やかな眠りの中に落ちていく。
 その人はそうして眠る蝶々の為に奏でていた。
 月の光、その旋律の先に何かがあると信じていたから。例えきっと通じ合えなくても、祈りはどこかで繋がっていると信じているから。
 私はただそれを見つめている。
 蝶々がどこかで再び舞い上がる夢を見ているから。旋律の祈りが通じて、神様がここに降りてくると信じているから。鍵盤の叩く音に呼応するように、やがて蝶々の羽はしっかりと伸びてもう一度空に向かう。そしてきっとどこまでも――どこまでも知らない世界まで飛んでいくのだ。
 蝶々が飛んでいく。月光はやがて力を失って暗闇が残った。
 その人は、眠ってしまったように動かなくなった。

「……」

 甘い香りが鼻孔をくすぐり、天井には格子模様のコンクリートが打たれている。
 ああ、ここはそういえばおじさんのラボだ。あたしはようやく数時間前、ここに辿りついたんだったな。

「くっ」

 軽く頭痛が走った。真っ白い――。
 世界には砂嵐がかかっている、もう既に残された時間は少ないらしい。

「も、ど、るさん――」

 どこにもいない。聞こえてないのだろうか。
 酷いノイズで視界がままならない、それでも体は動き始めた。
 あたしが行かねばならない。頼まれたことがある。
 おじさんに言われたことをやらないと……。

『悠里にお願いがあるんだ。ぼくの研究所に行って欲しい。理科室のぼくのデスクの下に鍵が一つ、貼り付けてある。それを窓際の本棚に置いてある仕掛け箱に使ってくれ。開けたら最後の錠前にナンバーロックがかかってる。ナンバーは86532。その中に、君の知りたい答えがある――』

 ほとんど脳は動いていない。もう既にあたしの気力は残されていないらしい
 でも、それでもいい。
 あたしはさっき神様に全てを捧げたんだ。
 全力だった。
 もう、それだけでいい。
 きっとびっくりしてくれるだろうなあ。
 理科室に侵入して、デスクの下を手探りに鍵を引き当てる。
 本棚の仕掛け箱――随分大きい。広辞苑くらいの大きさの辞書ケースに見えていたけれど、確かに鍵がかかっている。これが筺なんだ。
 鍵を回すと内側の機構が回り、カチャと音を立てて鍵は開いた。
 古錆びた錠前がまるで門番のように聳え、中身を守護しているように見える。

「8、6、5、3、2」

 指先に冷たい感触が走る。

「開いた……」

 この中が、あたしの知りたい答え――
 それを恐る恐る開く指は震えていた。
 何か運命の大きな大きな歯車が動いた音が耳に響いていたからだった。 
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