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第66話 業獄
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カリナは空に指を差す。
破れた教会の天井に幽玄の樹に連なったような比翼の連理が無数に宇宙の空を漂っている。
それを割り込むように、流星が落ちた。
一つ、二つではない。青く、透明で、燐光を放っているのに――眼が灼けるように紅く燃えている――?
流星は消えることがない。旋回するように頭上を飛び回り始めた。そして立体の回転によってその形を変えて、スポンジが大きくなるようにゆっくりと肥大し始めた。
「アレ、何――?」
声が出たのは悠里だった。
始め、指先の空にはギラギラと発光する小さな星があるだけだった。
しかし流星の肥大はもはや止まることがない。
連想する行為は食事だった。
貪欲な凶星が伴星を取り込んで渦を巻く。それが小さな銀河を成立させるように収縮、発散を繰り返して膨大な情報を空にばらまいていく。
摂取、増殖、生誕――生命の円環の上に立っているものだ、無空に蠢動する星の形は居振る舞いで理解を強要する。
紫色のたるんだ顎、歪んで発光する瞳、そこからは涙がこぼれ落ちている。笑っている。泣いている、こちらを見ている。泡立ったように白いフケが地上に剥がれて落ちる。
二人は理解した。
雪星、そんな美しい名前は決して付けてはならない。
名を冠するなら“産まれゆく悪夢”、今から大地を蹂躙する悪夢。
アレは人間を嘲笑しているようにさえ見える。
「アレは、空を喰うもの。ペトスーチの民や、或いは淵みに棲むものたち、その眷属の伝承にしか残されていないはずの災害――またの名を”邪神より産まれ百万の恵まれたる者”とさえ言われる。彼は長い眠りの間に無数の宇宙生物の卵を産み付けられている。その孵化に苦しんで目覚め、地上に降りてこようとしているんだ」
「う、うあああああああああああああああああああああああ――!!!!!」
「……あ、あぁ」
耐えきれなくなったように悠里としづるは蹲った。眼窩や鼻腔から脳に直接蟲が這い上がってくるような悪寒、或いはに、思わず眼を瞑って立っていられなくなったのだ。
震えと流れ落ちる滝の汗が止まらない。アレが落ちてくればどうなる……!? あんなものが降りてくれば――一瞬だ……!
あらゆる生命なんてくだらない、きっと蟻を踏み潰すよりも簡単に俺達なんて、いや、もっと酷いかも知れない。子供が罪なき虫を悪戯に捕まえて四肢を捥いで羽根を片方だけ千切って遊ぶみたいにきっとそれくらいだ。
「聞こえるかね、未来から来た子達。俺はね、アレを止めるために世界を閉じ込めたんだ。同じ時間を定期的に繰り返し、産卵を何度も何度も分けてアレの漂着を抑えた。不思議だろうが、アレはね普通の人間の眼には見えないんだ。カメラにも写らなければ、魔術的素養がない人間にも見えない。アレを見るためには、魔術的素養のある人間がその真下から観測しなければならない。わかるだろう、もし地面に着陸しその体表に映えた透明な卵達が孵ったなら――」
「ひっ……あうう……やだ、やだぁ、それ以上言わないでええええええっ……」
呻くように悠里はその髪を垂らして地面に伏せた。
「……世界は滅びる――か」
「ああ。何もしなければ、あと一時間内には大地に降りて、新しい命が地球に解き放たれる。その時人類は生き残るか? 俺の予想では不可能だ。彼らにとっては国覓程度の行為だろうと、それは人にとっては致命の衝撃だ」
しづるは膝から立ち上がり、悍ましい空に向かって視線を投げた。
わからなかった。今まで戦ってきたつもりだったのは、カリナだった。時間の再現を止められれば、それが勝利だと思っていた。
だからその為に戦ってきた。何度も何度もやり直しながら、おじさんはその為に――。
俺達は何ができた――? こんなの知らなかった。
だって、わからないじゃないか。おじさんにだってわからなかったんだ。
俺達が知りようがない。
俺達はもう……どうしようもない。
策がない、尽きた。
こんなの、どうすりゃあ。
どうしようも、ないか。
時間の遡行を止めれば、アレに全員が殺される。
破滅。
時間の遡行を止めなければ――全員が意識を失って人形になる。
破滅。
二つの道があった。
けれど、二つの道は潰れている。
破滅、破滅。
封鎖、閉塞――時間の破滅、これが……。
「収束……か……」
立ち上がった膝が崩れる。
目の前が真っ暗に消えていく。
ああ、終わった。
ごめん、おじさん――みんな。
折角、繋いでくれたのに。
俺の、力不足だ――。
「待ってください!」
レイカの声が静寂を断ち切った。
「お父さんは、なんで……知ってたんですか? アレが来るって。おかしくないですか? だって、お父さん、言いましたよね。魔術的な素養があって、真下から見ないとわからないって。だったら、どうしてここにアレが来るって知ってたんですか? 何かきっかけがあったはずです――!」
レイカの瞳には、倒れ込んだ二人の姿が映っていた。
希望を失って倒れるしづる、そして恐怖に肉体を縛られた悠里。
レイカは意外にも、空に浮かぶ魔星に畏怖を感じこそすれ、狂気に陥ることはなかった。それよりも謎の一点が浮き上がってきたことの方が気になっていた。ある種のぼんやりしたような、現実から問題を浮かせたような思考の形は、奇妙にも礼香の問題に立ち会っていた時のしづるの思考様式を連想させた。
「教えてください、それがわかれば対処が出来るかも知れません! ここまでしづるさんも悠里さんも、一緒にがんばってきたんです。ここで諦めたくありません。きっとどこかに突破法があるはずです、全部やってから、それがダメだったら抱き合って一緒に殺してやる!!! 私自ら!!!!! 介錯です!」
「礼香……!?」
「ええーい! だって何もしなくても終わりなんでしょ!? なら全部やらないとダメです! やだ! やだやだ! 一緒になんとかしてくれないとやだですぅ!」
困惑するカリナの元から手足をばたつかせて礼香は立ち上がると、仮死状態のように固まって動けなくなった悠里を前から抱っこしてしづるの前に立った。
そしてしづるの前に手を差し出した。
「立てますか? 手を取ってください。ここで諦めたりしたら赦しません!」
「でも、礼香……もう、取れる策なんて」
「策がないんじゃないです。今のしづるさんに足りないのは――」
細い指がしづるの顎を撫でた。そして引き上げるように顔を正面に覗かせると、唇を額にくっつけた。そして頬にもキスをして、擦りつけるように首筋に頬ずりした。
花のような、少し甘いような香りがしづるの瞳に火種を残した。
「勇気です。立ち上がる勇気。希望を無くしてもしづるさんは手を差し伸べてくれました。だから、絶望なんかに甘えないでください。希望に縋って、私と一緒に死にましょう。私があなたの灯火になりますから!」
しづるの手が震えて空に浮く。
「怖いんだ。目を開けて、上を見上げるのが怖い、耐えきれないんだ――」
「今度は私が護ってあげます。しづるさんの心を」
力なく垂れかけたその手を礼香はしっかりと握り込むと、その身体を抱きしめた。
心臓の音が聞こえる、吐息の鼓動が伝わってくる。
冷え込んだ肉体に、再び灯が点り始める。
氷が、ゆっくりと融け始めた。
「目覚めてください。あなたが、私のヒーローなんですよ」
「しづるさん……」
「う……ぐ……くそっ……ごめん……」
呻いたまましづるは動けない。動こうとする思考に肉体が追いつかないのだ。
無情に、時だけが過ぎていく。
「しづるさん……!」
見計らったようにカリナはカーテンが揺らぐように立ち上がると、レイカと向かい合った。
「レイカ。父さんはやることがある。君に会えてよかった。それでもやらなきゃならない。アレを漂着させてはならない。わかるはずだ」
父と子にとって、あるとすれば最後の会話だったろう。けれどカリナの口元はそれ以上を吐き出そうとして空を噛んで止まった。何も話せなかった。未来から来た彼らに持たせてやれるものがなにもない――。わかっている。彼らがここに辿り着くために長い長い旅路を歩んできたことは。もしくは、その後ろに彼らがここに来るために必死の努力をした功労者がいるだろうことが――。
「お父さん……待ってください。お父さんはこのまま進めば――」
「そうか、君は未来の俺を知っているのか」
深く肩を落とすとカリナはニヒルに口の端を歪ませた。鉄錆に浸食されるようにその笑顔はカリナの表情を慣れない歪に変化させ、それを悟ってカリナは顔を俯かせた。
「かまわない。繰り返し続ければ、悲しいという気持ちさえも消えていく。慣れてしまえば、その先に一縷でも希望がある。そこまで辿り着けたら、絶対にレイカやそこに倒れている君の友人達を助けに行く。だからそれまで待っていてくれないか――」
諭すようにカリナはレイカの肩に手を置いた。それ以上の言葉もなく、それがカリナにとって伝えられる最後のこと、遠すぎる娘への最後の宥めだった。
これ以上、踏み込んではならない。忌まわしい契約の扉に娘を近付けてはならない。ここから先は、俺と彼女だけの問題なんだから――
「みんなにとっては一緒でも、お父さんにとっては違うじゃん! お父さんだけ一人ぼっちになって何回も悲しい思いするんでしょ……! それでいいなんて言えない。もし本当に助けに来てくれたって、それはきっと、私が知らないくらい遠くに行っちゃったお父さんで、私が一緒に居たいのは今ここにいるお父さんなの」
「――!」
レイカはカリナの手を払うと、逆にカリナの襟を掴んで引き寄せた。
そして犬歯を覗かせて睨み付けると胴を抱き留めた。
「あのね、お父さんを助けに来たの。私はね、他の誰でもないお父さんを助けに来たの。だからそんなことは言わないで。お父さん、私ここで死んでもいいの」
「――」
娘の願いは黒い魔法使いを悍ましい空を見上げさせた。
墜ちる悪星を前に、できることはない。星の心臓が止まっていく。
それを救う手立てはどこにもない。
もう既に、それは失われたものなのだから。
「レイカ、君は未来に帰りなさい。お父さんが絶対に助けに戻ってくる。その時まで。君にとっては一瞬だろうから」
「でも……」
「……待ってくれ」
礼香の空白を切り裂いて、しづるは立ち上がる。
「っしづるさん……!」
――何か、引っかかる。
カリナはレイカを迎合する一方で、何かを隠している。
『お父さんは、なんで……知ってたんですか? アレが来るって。おかしくないですか? だって、お父さん、言いましたよね。魔術的な素養があって、真下から見ないとわからないって。だったら、どうしてここにアレが来るって知ってたんですか? 何かきっかけがあったはずです――!』
そうだ、レイカの指摘は正鵠を射ている。
けれどカリナは意図的に論点をずらしている。レイカが真実に至ろうとしていることを遠ざけようとしている――。
何かがあるんだ。
そしてそれは、カリナが語っていない場所。現在ではない、過去にあるはずだ。
「カリナさん。あんたはやっぱり何か隠してる。“産まれゆく悪夢”をあなたが知った経緯が不明瞭だ。あなたの話を信じるなら、あんたがその民族達の末裔ってことになるが、そうじゃない。だってあなたは孤児院に引き取られた孤児のはずだ。自分のルーツなんてわからないはずじゃないか」
「立ち上がったか……だが君には関係のない話だ」
「俺には関係ないかも知れないな。でも、レイカには関係がある話だろう」
「――」
――ここで逃げ道を潰さなくては逃げられる。
しづるにはカリナの心が一歩引いたのが見えた。
踏み込むのは当然、間合いを詰める。
無言は肯んじていると取る、しづるは更に詰問の射程を伸ばして狙いを付けた。語られていないことをブラフとして出すしかない。
ここで決める、ならば掴み取るのはカリナの誠実さだ。父親として、どの道が正しいのかそれを諭すべきだ。
「カリナさん。あなたは今、こう考えているんじゃないか? これはあなたの妻が亡くなったことに関わっていて、しかも後ろ暗い点があるから礼香には話すべきじゃないって。でも頼む、それを話して欲しいんだ。それが受け止められないかは、礼香が決めることで、礼香しか決められないことだ。そして――ここで話せなかったら、もう二度とその機会は回ってこない。礼香は自分のことを知りたがってた、あなたの言葉で語ってやって欲しいんだ」
動かない。
視線を動かさず、みじろがず、揺らがない。
当たっていると信じ込め、まだ初印象で植え付けた『お前のことは知っている』という煙幕は効いているはずだ。
礼香は父親に母親のことを妖精だと聞いたことがあると言っていたが、母親のことを知らないとも言っていた。
そしてさっき、カリナは確かに妻と娘はあの日に死んだと激昂していた。では間違えなく妻はそれまで生きていて、異端狩りの襲撃によって殺された存在のはずだ――
順列の思考では見えてこない、必要なのは逆説だ。何が関わっているのか、ではない。何が関わっていないとおかしいのか、だ。
それならやはり妻である妖精の存在が最も怪しい。彼女のことをカリナはひた隠しにしている。彼女の話題はできる限り遠くに置いておきたいのだ。
――なら、語らせねばならない。欠けた切片を埋めるのだ。それしかない。
しづるは震える体を必死に留めては、汗を垂らしてカリナの視線に耐えた。背後に映る深遠なる存在の吐き気に耐えながら、時計の針の音を脳裏に呼び出して耐えた。
青白く発光する塵芥が、腐ったような紫の肌からぐしゃぐしゃと音が聞こえてきそうなこぼれ方をしている。悍しい、それだけの言葉ではもはや形容し難い大いなる存在、認めざるを得ない非日常――その渦中に立ち出でてなおも、しづるは相対した。
「……十年、か。確かにそこまであれば、俺と妻があの場所で何を行ったのか研究する時間もあったのだろうな。だがどこまで知っているかは定かではないが……。俺が話さないと言ったらどうする、しづるという青年」
「――俺が、今ここで。あなたの目の前で俺が知っているあなたのことを礼香に話して伝えることになる」
「ふん。お前の勤勉さとその抜け目なさに折れてやる」
「……」
通った……。
しづるは胸の中で大きなため息をついていた。
そして礼香の背中に負われた悠里を抱きあげた。
小さな体躯は瞼を閉じたままふるふると震えていた。ノイローゼ気味の唇は少しは回復したのだろうか、しづるの胸に抱き付いて胸に頬を埋めた。
「しーちゃん……もう大丈夫゛でじゅ……」
「……お前は無理すんな、ただでさえ術の負荷がかかってるのに。悠里をありがとう。礼香のお陰でなんとか持ち直せた」
「ううんっ……いいんです。だってしづるさんにして貰ったことを返しただけですから。それより、知ってたんですか?」
「俺の口からはなんとも、それよりも父親からの方が正確だし礼香の為にもなる」
「はい……! お父さん、教えてください――私、もう子供じゃないです。だから教えてください」
カリナは手短にな、と話し始めに置くと視線を一つ地面に落として話し始めた。
――ようやく扉が開くかも知れない。しづるは息を呑み、その言葉の流れる先へ意識を傾けた。
破れた教会の天井に幽玄の樹に連なったような比翼の連理が無数に宇宙の空を漂っている。
それを割り込むように、流星が落ちた。
一つ、二つではない。青く、透明で、燐光を放っているのに――眼が灼けるように紅く燃えている――?
流星は消えることがない。旋回するように頭上を飛び回り始めた。そして立体の回転によってその形を変えて、スポンジが大きくなるようにゆっくりと肥大し始めた。
「アレ、何――?」
声が出たのは悠里だった。
始め、指先の空にはギラギラと発光する小さな星があるだけだった。
しかし流星の肥大はもはや止まることがない。
連想する行為は食事だった。
貪欲な凶星が伴星を取り込んで渦を巻く。それが小さな銀河を成立させるように収縮、発散を繰り返して膨大な情報を空にばらまいていく。
摂取、増殖、生誕――生命の円環の上に立っているものだ、無空に蠢動する星の形は居振る舞いで理解を強要する。
紫色のたるんだ顎、歪んで発光する瞳、そこからは涙がこぼれ落ちている。笑っている。泣いている、こちらを見ている。泡立ったように白いフケが地上に剥がれて落ちる。
二人は理解した。
雪星、そんな美しい名前は決して付けてはならない。
名を冠するなら“産まれゆく悪夢”、今から大地を蹂躙する悪夢。
アレは人間を嘲笑しているようにさえ見える。
「アレは、空を喰うもの。ペトスーチの民や、或いは淵みに棲むものたち、その眷属の伝承にしか残されていないはずの災害――またの名を”邪神より産まれ百万の恵まれたる者”とさえ言われる。彼は長い眠りの間に無数の宇宙生物の卵を産み付けられている。その孵化に苦しんで目覚め、地上に降りてこようとしているんだ」
「う、うあああああああああああああああああああああああ――!!!!!」
「……あ、あぁ」
耐えきれなくなったように悠里としづるは蹲った。眼窩や鼻腔から脳に直接蟲が這い上がってくるような悪寒、或いはに、思わず眼を瞑って立っていられなくなったのだ。
震えと流れ落ちる滝の汗が止まらない。アレが落ちてくればどうなる……!? あんなものが降りてくれば――一瞬だ……!
あらゆる生命なんてくだらない、きっと蟻を踏み潰すよりも簡単に俺達なんて、いや、もっと酷いかも知れない。子供が罪なき虫を悪戯に捕まえて四肢を捥いで羽根を片方だけ千切って遊ぶみたいにきっとそれくらいだ。
「聞こえるかね、未来から来た子達。俺はね、アレを止めるために世界を閉じ込めたんだ。同じ時間を定期的に繰り返し、産卵を何度も何度も分けてアレの漂着を抑えた。不思議だろうが、アレはね普通の人間の眼には見えないんだ。カメラにも写らなければ、魔術的素養がない人間にも見えない。アレを見るためには、魔術的素養のある人間がその真下から観測しなければならない。わかるだろう、もし地面に着陸しその体表に映えた透明な卵達が孵ったなら――」
「ひっ……あうう……やだ、やだぁ、それ以上言わないでええええええっ……」
呻くように悠里はその髪を垂らして地面に伏せた。
「……世界は滅びる――か」
「ああ。何もしなければ、あと一時間内には大地に降りて、新しい命が地球に解き放たれる。その時人類は生き残るか? 俺の予想では不可能だ。彼らにとっては国覓程度の行為だろうと、それは人にとっては致命の衝撃だ」
しづるは膝から立ち上がり、悍ましい空に向かって視線を投げた。
わからなかった。今まで戦ってきたつもりだったのは、カリナだった。時間の再現を止められれば、それが勝利だと思っていた。
だからその為に戦ってきた。何度も何度もやり直しながら、おじさんはその為に――。
俺達は何ができた――? こんなの知らなかった。
だって、わからないじゃないか。おじさんにだってわからなかったんだ。
俺達が知りようがない。
俺達はもう……どうしようもない。
策がない、尽きた。
こんなの、どうすりゃあ。
どうしようも、ないか。
時間の遡行を止めれば、アレに全員が殺される。
破滅。
時間の遡行を止めなければ――全員が意識を失って人形になる。
破滅。
二つの道があった。
けれど、二つの道は潰れている。
破滅、破滅。
封鎖、閉塞――時間の破滅、これが……。
「収束……か……」
立ち上がった膝が崩れる。
目の前が真っ暗に消えていく。
ああ、終わった。
ごめん、おじさん――みんな。
折角、繋いでくれたのに。
俺の、力不足だ――。
「待ってください!」
レイカの声が静寂を断ち切った。
「お父さんは、なんで……知ってたんですか? アレが来るって。おかしくないですか? だって、お父さん、言いましたよね。魔術的な素養があって、真下から見ないとわからないって。だったら、どうしてここにアレが来るって知ってたんですか? 何かきっかけがあったはずです――!」
レイカの瞳には、倒れ込んだ二人の姿が映っていた。
希望を失って倒れるしづる、そして恐怖に肉体を縛られた悠里。
レイカは意外にも、空に浮かぶ魔星に畏怖を感じこそすれ、狂気に陥ることはなかった。それよりも謎の一点が浮き上がってきたことの方が気になっていた。ある種のぼんやりしたような、現実から問題を浮かせたような思考の形は、奇妙にも礼香の問題に立ち会っていた時のしづるの思考様式を連想させた。
「教えてください、それがわかれば対処が出来るかも知れません! ここまでしづるさんも悠里さんも、一緒にがんばってきたんです。ここで諦めたくありません。きっとどこかに突破法があるはずです、全部やってから、それがダメだったら抱き合って一緒に殺してやる!!! 私自ら!!!!! 介錯です!」
「礼香……!?」
「ええーい! だって何もしなくても終わりなんでしょ!? なら全部やらないとダメです! やだ! やだやだ! 一緒になんとかしてくれないとやだですぅ!」
困惑するカリナの元から手足をばたつかせて礼香は立ち上がると、仮死状態のように固まって動けなくなった悠里を前から抱っこしてしづるの前に立った。
そしてしづるの前に手を差し出した。
「立てますか? 手を取ってください。ここで諦めたりしたら赦しません!」
「でも、礼香……もう、取れる策なんて」
「策がないんじゃないです。今のしづるさんに足りないのは――」
細い指がしづるの顎を撫でた。そして引き上げるように顔を正面に覗かせると、唇を額にくっつけた。そして頬にもキスをして、擦りつけるように首筋に頬ずりした。
花のような、少し甘いような香りがしづるの瞳に火種を残した。
「勇気です。立ち上がる勇気。希望を無くしてもしづるさんは手を差し伸べてくれました。だから、絶望なんかに甘えないでください。希望に縋って、私と一緒に死にましょう。私があなたの灯火になりますから!」
しづるの手が震えて空に浮く。
「怖いんだ。目を開けて、上を見上げるのが怖い、耐えきれないんだ――」
「今度は私が護ってあげます。しづるさんの心を」
力なく垂れかけたその手を礼香はしっかりと握り込むと、その身体を抱きしめた。
心臓の音が聞こえる、吐息の鼓動が伝わってくる。
冷え込んだ肉体に、再び灯が点り始める。
氷が、ゆっくりと融け始めた。
「目覚めてください。あなたが、私のヒーローなんですよ」
「しづるさん……」
「う……ぐ……くそっ……ごめん……」
呻いたまましづるは動けない。動こうとする思考に肉体が追いつかないのだ。
無情に、時だけが過ぎていく。
「しづるさん……!」
見計らったようにカリナはカーテンが揺らぐように立ち上がると、レイカと向かい合った。
「レイカ。父さんはやることがある。君に会えてよかった。それでもやらなきゃならない。アレを漂着させてはならない。わかるはずだ」
父と子にとって、あるとすれば最後の会話だったろう。けれどカリナの口元はそれ以上を吐き出そうとして空を噛んで止まった。何も話せなかった。未来から来た彼らに持たせてやれるものがなにもない――。わかっている。彼らがここに辿り着くために長い長い旅路を歩んできたことは。もしくは、その後ろに彼らがここに来るために必死の努力をした功労者がいるだろうことが――。
「お父さん……待ってください。お父さんはこのまま進めば――」
「そうか、君は未来の俺を知っているのか」
深く肩を落とすとカリナはニヒルに口の端を歪ませた。鉄錆に浸食されるようにその笑顔はカリナの表情を慣れない歪に変化させ、それを悟ってカリナは顔を俯かせた。
「かまわない。繰り返し続ければ、悲しいという気持ちさえも消えていく。慣れてしまえば、その先に一縷でも希望がある。そこまで辿り着けたら、絶対にレイカやそこに倒れている君の友人達を助けに行く。だからそれまで待っていてくれないか――」
諭すようにカリナはレイカの肩に手を置いた。それ以上の言葉もなく、それがカリナにとって伝えられる最後のこと、遠すぎる娘への最後の宥めだった。
これ以上、踏み込んではならない。忌まわしい契約の扉に娘を近付けてはならない。ここから先は、俺と彼女だけの問題なんだから――
「みんなにとっては一緒でも、お父さんにとっては違うじゃん! お父さんだけ一人ぼっちになって何回も悲しい思いするんでしょ……! それでいいなんて言えない。もし本当に助けに来てくれたって、それはきっと、私が知らないくらい遠くに行っちゃったお父さんで、私が一緒に居たいのは今ここにいるお父さんなの」
「――!」
レイカはカリナの手を払うと、逆にカリナの襟を掴んで引き寄せた。
そして犬歯を覗かせて睨み付けると胴を抱き留めた。
「あのね、お父さんを助けに来たの。私はね、他の誰でもないお父さんを助けに来たの。だからそんなことは言わないで。お父さん、私ここで死んでもいいの」
「――」
娘の願いは黒い魔法使いを悍ましい空を見上げさせた。
墜ちる悪星を前に、できることはない。星の心臓が止まっていく。
それを救う手立てはどこにもない。
もう既に、それは失われたものなのだから。
「レイカ、君は未来に帰りなさい。お父さんが絶対に助けに戻ってくる。その時まで。君にとっては一瞬だろうから」
「でも……」
「……待ってくれ」
礼香の空白を切り裂いて、しづるは立ち上がる。
「っしづるさん……!」
――何か、引っかかる。
カリナはレイカを迎合する一方で、何かを隠している。
『お父さんは、なんで……知ってたんですか? アレが来るって。おかしくないですか? だって、お父さん、言いましたよね。魔術的な素養があって、真下から見ないとわからないって。だったら、どうしてここにアレが来るって知ってたんですか? 何かきっかけがあったはずです――!』
そうだ、レイカの指摘は正鵠を射ている。
けれどカリナは意図的に論点をずらしている。レイカが真実に至ろうとしていることを遠ざけようとしている――。
何かがあるんだ。
そしてそれは、カリナが語っていない場所。現在ではない、過去にあるはずだ。
「カリナさん。あんたはやっぱり何か隠してる。“産まれゆく悪夢”をあなたが知った経緯が不明瞭だ。あなたの話を信じるなら、あんたがその民族達の末裔ってことになるが、そうじゃない。だってあなたは孤児院に引き取られた孤児のはずだ。自分のルーツなんてわからないはずじゃないか」
「立ち上がったか……だが君には関係のない話だ」
「俺には関係ないかも知れないな。でも、レイカには関係がある話だろう」
「――」
――ここで逃げ道を潰さなくては逃げられる。
しづるにはカリナの心が一歩引いたのが見えた。
踏み込むのは当然、間合いを詰める。
無言は肯んじていると取る、しづるは更に詰問の射程を伸ばして狙いを付けた。語られていないことをブラフとして出すしかない。
ここで決める、ならば掴み取るのはカリナの誠実さだ。父親として、どの道が正しいのかそれを諭すべきだ。
「カリナさん。あなたは今、こう考えているんじゃないか? これはあなたの妻が亡くなったことに関わっていて、しかも後ろ暗い点があるから礼香には話すべきじゃないって。でも頼む、それを話して欲しいんだ。それが受け止められないかは、礼香が決めることで、礼香しか決められないことだ。そして――ここで話せなかったら、もう二度とその機会は回ってこない。礼香は自分のことを知りたがってた、あなたの言葉で語ってやって欲しいんだ」
動かない。
視線を動かさず、みじろがず、揺らがない。
当たっていると信じ込め、まだ初印象で植え付けた『お前のことは知っている』という煙幕は効いているはずだ。
礼香は父親に母親のことを妖精だと聞いたことがあると言っていたが、母親のことを知らないとも言っていた。
そしてさっき、カリナは確かに妻と娘はあの日に死んだと激昂していた。では間違えなく妻はそれまで生きていて、異端狩りの襲撃によって殺された存在のはずだ――
順列の思考では見えてこない、必要なのは逆説だ。何が関わっているのか、ではない。何が関わっていないとおかしいのか、だ。
それならやはり妻である妖精の存在が最も怪しい。彼女のことをカリナはひた隠しにしている。彼女の話題はできる限り遠くに置いておきたいのだ。
――なら、語らせねばならない。欠けた切片を埋めるのだ。それしかない。
しづるは震える体を必死に留めては、汗を垂らしてカリナの視線に耐えた。背後に映る深遠なる存在の吐き気に耐えながら、時計の針の音を脳裏に呼び出して耐えた。
青白く発光する塵芥が、腐ったような紫の肌からぐしゃぐしゃと音が聞こえてきそうなこぼれ方をしている。悍しい、それだけの言葉ではもはや形容し難い大いなる存在、認めざるを得ない非日常――その渦中に立ち出でてなおも、しづるは相対した。
「……十年、か。確かにそこまであれば、俺と妻があの場所で何を行ったのか研究する時間もあったのだろうな。だがどこまで知っているかは定かではないが……。俺が話さないと言ったらどうする、しづるという青年」
「――俺が、今ここで。あなたの目の前で俺が知っているあなたのことを礼香に話して伝えることになる」
「ふん。お前の勤勉さとその抜け目なさに折れてやる」
「……」
通った……。
しづるは胸の中で大きなため息をついていた。
そして礼香の背中に負われた悠里を抱きあげた。
小さな体躯は瞼を閉じたままふるふると震えていた。ノイローゼ気味の唇は少しは回復したのだろうか、しづるの胸に抱き付いて胸に頬を埋めた。
「しーちゃん……もう大丈夫゛でじゅ……」
「……お前は無理すんな、ただでさえ術の負荷がかかってるのに。悠里をありがとう。礼香のお陰でなんとか持ち直せた」
「ううんっ……いいんです。だってしづるさんにして貰ったことを返しただけですから。それより、知ってたんですか?」
「俺の口からはなんとも、それよりも父親からの方が正確だし礼香の為にもなる」
「はい……! お父さん、教えてください――私、もう子供じゃないです。だから教えてください」
カリナは手短にな、と話し始めに置くと視線を一つ地面に落として話し始めた。
――ようやく扉が開くかも知れない。しづるは息を呑み、その言葉の流れる先へ意識を傾けた。
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