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第80話 友軍

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 カリナは一つ、この十年以上にわたって拭えなかった疑念があった。
 青い世界の中心を滑るように走り抜けながら、その疑念が現実にならないことを祈っていた。
 それはカリナの中で答えとしては最悪で、ひょっとするなら自分のせいでこの事件はより混迷の色を濃くしたのではないかという明確な直感でもあった。
 だが――それはカリナにとって最も幸福な幻想が形になった証左でもあった。
 青い世界に炎はまるで立ち昇る影だ。烈火を遡り、熱風を遡っていけば必ずその起点に辿り着く。
 かつてここには深い雪があった。
 閉ざされた氷の楽園があった。
 その先には廃屋がある。そしてその廃屋は、かつて孤児院の仲間たちと森の中に逃げ込むと仮定した場合に設定した候補地だった。
 地層調査のために建てられた小屋だ。それほどの大きさではない。詰所として最低限の広さと装備、何よりも湖の水源となる最上流がこの場所にあたる。厳冬の折、水源地なら水はあるかもしれない――青年達が持つ最期の希望的観測だった。
 孤児院の中でも大人である何人かの青年が、生き残るべき一人を選別する前に生存戦略を練った。公平を期すために誰が生き残るかを決める前の話し合いだった。長く滞在しなければならないことを考えると、村人から近寄りがたく、更に必須たる水や食べ物に困らないように――勿論吹雪が明けてからのことだが――細心を払って滞在場所を決める必要があった。誰からも忘れられた、ほんの一枚の地図に記されていないこの小屋を選んだのはカリナ自身だった。
 もし村人であったならば、この場所を知るはずがない。忘れ去られた小屋を起点にすることなど考えるはずもないのだ。
 であれば、であれば。  
――もし本当だったなら、どのような顔をすればいいのだろう。
 遂に、小屋の前に黒い外套を纏う男は辿り着いていた。
 ドアは破れていた。
 足音は中に一つ。
 小さな灯りが見えたのは中に火が灯されていたからだった。
 熱気ではない、穏やかにさえ感じる程半固形となった親しみ深さが空気として支配していた。
 カリナが足音を立てたのは、その後ろ姿に友人の影を見たからだろうか、いや、その男が足音に反応して動かしていた両手を挙げて、両膝を丸めて座り込んだからだった。

「……ここに誰かが来るとは」

 カリナは一振りの槍を手に携えていた。
 空気を含んだ足音が芥だらけの灰色の地面に跡をつける。

「何を持っていた。この場で、何をしようとしていた」

 しゃがれた声で男は嗤った。鼻にかかった息は気道が悪いのだろうか、鼻道の奥がぶるぶると震えて不快な音を辺りへまき散らしていた。すぐに気が付いたのは耳たぶと指が欠けていることだった。右小指と薬指、そして左小指が欠けている。肉が盛り上がっているところを見ると、随分古い傷であるらしい。

「懐かしい声だなぁ。やっぱり、やっぱり生きていたんだ。カリナ」
「――お前は」

 男の背後をとって、声を聴いてなおカリナにはその声の主がわからなかった。
 薄情だろうか、しかし肌が赤がかって老人のように背中の曲がった男など知らない、頭骨の半分が露出するほど毛髪が剥げ落ちて、指の欠けた男など、孤児院のどこにいただろうか。
 いやしかし――そこまで思考を進めてカリナは気が付く。
 そんな男はいなかったのだ。村中に。
 冷たい汗が額に流れていた。

「お前は、お前は、まさか」
「嬉しい、嬉しいよ。カリナ。お前がいなくなって、寂しかったんだ。カリナ。お前がここに来てくれたってことはさ。きっと、俺たちの無念を晴らすのに手伝ってくれるってことだよな、なぁ。カリナ」

 男が手を下ろし、振り向いた。
 醜い身体と、顔だった。悍ましい絶望の彫りと顔の半分から骨が露出して、そこから生きているのに腐臭が漂ってくる。生きながらに腐っているのが一目でわかった。

「カリナ、覚えてるよな。ハンスだ。俺だよ。こんなにバラバラになったけどさ。俺なんだ。カリナ。俺なんだよ。あの日、お前に全てを託したハンスだ。兄弟!」
「ハンス、お前が。どうして――」

 生きていた。友人は生きていたのだ。
 あの日別れた友人は、今この目の前にいる。
 だのにカリナに吹き上がった感情は焦りと苦しさ、言いようもなく湧き上がってくる吐き気に支配されて胸は詰まったように停滞していた。

「カリナ。聞いてくれ。あの後、村の連中にみんな食われちまった。でもな、信じてた。お前なら生きていてくれるって! 助けに来てくれるって。俺も生きたまま食われた。でも、生き残った! 見てくれ!」
「そんな、ハンス」
「この身体を。死んでいたっておかしくなかった。でも、死にたくないって、お前を残して死ぬなんて、そう思った! 生き残ったんだ! 地下に幽閉された、病気をしても治して貰えなかった! でも生きている! 素晴らしいことだろう!? あの地獄から俺は生還したんだ! 聞いてくれよ……」

 ハンスと名乗った男はカリナに抱き付いて、カリナの肌にはその男の触感があった
。幽閉されていたせいだろうか、触れる骨格はぐにゃぐにゃと折れ曲がって丸くなっており、まるで安楽椅子に寄りかかって死を待つ老婆のようになっていた。もう既に死がそこにあることが手に取るようにわかった。

「正直に言わせてくれ! カリナ。お前のことを恨んだ! 誰よりも恨んだと言っていい! 妹が新鮮さを失わない為に生きたまま少しずつ食われていくのを目の前で見ていた時! 俺は狂わんばかりにお前を呪った! お前でなくてミルユが選ばれていたなら! あんなに最期、最期の一時まで痛みと恐怖に怯えながら、自分から切り離された肉が親だと思っていた人間の口に運ばれ、まるでこの世の天上のご馳走を振る舞われたようにうまそうに咀嚼されていく様に震えて、口からどこから出たのかわからないような真っ黄色の泡を吹いてそれに溺れて死んでいくところなんてきっと存在しなかったのだから! あの敬虔なマリアが! ほんの少し色ついてきたマリアが、その柔い肉を少しずつ奪われながら、最期は神へ罵倒を浴びせかけ、呪詛の中に渦巻いた怨恨で、幼い兄弟達のおしめしか洗ったことのないような手で老父と差し違えるところなど、そんなもの! 存在するはずがなかったのだから! 最期まで愛するお前の名を呟いてその身体を凍えさせて動かなくなるまで看取る必要なんてどこにもなかったのだから!」

 吐き潰すようにハンスは涙ぐんでカリナの肩を抱いた。
 失意の脱力に見舞われて、カリナは立つも危うくなりながらその曲がった肩を抱いた。

「ハンス、辛い、想いをさせたな――すまない」
「いいんだ。カリナ。お前を選ぶ票を最後に入れたのは、覚えているか? 俺だったんだ」

 ハンスは腐臭のする顔をしわくちゃにさせて笑う。その表情筋の動きは錆び付いた機械のように不誠実で、およそ何も知らない人間なら威嚇しているのかとさえ見違えるだろう。

「俺は、なんとでも生き残ると誓った。妹に、マリアに、みんなにだ。あの地獄の中から生還し、必ずや復讐を叶えると! その為に不穏な噂を流すことも、家畜を殺すこともした! 零れ残った仲間の血肉を喰らって繋ぐことに比べれば、地下室に閉じ込められて死にかけながら生きることなんて、楽なことだった。本当さ! でもこうして救われた! ありがとうカリナァ、生きていてくれて! ありがとう! これからは不幸な思い出なんて今に押し流して、あの頃のように自由に生きよう! そうだろう、なあ! 俺がこの起爆装置を押しこめば、辛かった過去も、今も! 全部終わるんだ」

 カリナはぴくり、と表情を曇らせて、ひしと優しくハンスを抱きあげた。

「眼は、まだ見えているか?」
「あ、ああ。残しといたんだ。一個だけは。全部終わった後に、最高の景色を見るために」
「行こう、全部が終わる前の景色を見に」
「カリナ、ありがとう……」

 二人の男は高台の崖際に立ち、村の方向を見渡した。
 燃え盛る火焔が全てを燃やし尽くし、あったはずの命が砕けて消えていく。
 憎しみ、悲しみ、喜び、哀愁、憧憬、慕情、逡巡、全てを燃やし尽くす炎だ。
 
「なんていい景色だ。カリナ」

 恍惚にハンスは語る。
 その景色を熱望していたのは言うまでもないのだろう。
 どこまでも幸福そうに和やかに、まるで誇らしげに笑う小さくなった旧友にカリナは浮かべるに儚げな笑いを花が散るように満遍なく与えていた。

「ああ。全くだ。ハンス、君が色々積もる話をしてくれて良かった。本当に、心配していたんだ。君たちを。救ってやれなくって、すまなかった。本当に」
 
 炎の中で、涙が光った。
 小さな死にかけの男の涙だった。 
 
「歌を、歌おう。虹の向こうへ、を」
「どれだったかな……もう、覚えてなくってな」
「昔、よくマリアが歌ってくれた曲だ、今に思い出すよ。俺が歌い始めよう」
「歌、か。もう、十年は聞いてなかったかも、な」

 真っ赤な世界に、不釣り合いな旋律が響きだした。
 カリナが口ずさみ、それを追いすがるようにハンスの声が乗り、二人の声が足りない和音となって、一つの音楽を雄弁に、不揃いに奏で始めていた。

「虹の向こうに、青い鳥は飛び――」
「その虹の向こうに楽園がある」
「まるでいつか聞いた子守歌のように」
「空は、青く。そこには夢を見た楽園がある」

 ハンスの濁った瞳が、音に惹かれて過去を夢見ていた。
 青い森に包まれた故郷の風景。白い雪に閉ざされた故郷の風景。
 赤いのは暖炉の火だ。
 周りには、皆がいる。
 冷たい瞳の優しいカリナ、忙しそうに子供達をあやすマリアにお菓子を探して入り回るミルユ、人形を隠して怒られるレヴ、机に囓りつくビーツ……暖炉の一番前に居るのは、ああ――俺だった。
 
「あ、あ――楽園には、いつか、届く。星に、願いをかけるなら」

 ハンスの振り返った先にいたのは、マリアだった。
 目を見開いて驚く様子を尻目に、マリアは口を開くと歌い出す。

『降りかかった災いは、レモンの滴のように融けてゆき、その高い場所へ私はゆくの』
「どこか、虹を超えた場所へ――」
「どこか、虹を超えた場所へ」

 カリナの声にハンスの声が併さり、マリアの声が重なった。
 欠けた和音が満ちて、円を描いて拡がっていく。炎など世界から消えて、思い出の中に魂が浮かんでいた。
 瞼の裏に星が浮かび、眠たそうな皆の顔が浮かぶ。
 暖かいベッドの上で、或いは二段ベッドの下の段で年少達がぐずり、マリアが歌い出した声に自らの声が、カリナの声が、他の声が混じり、消えていく。
 安らかに眠りについただろうか、悪い夢は見ていないだろうか。
 ずっと歌い続ける。
 それが日課だった。
 最後に残るのは三人だった。

「あの青い鳥達はゆくのに」
『どうして、私たちは、虹の向こうへ』
「いくことができない――」
「どうして、私たちは、虹の向こうへ」
「いくことができないの――」

 歌い終わっても、旋律は続く。
 皆が歌っていた。眠ったはずの皆が自分たちの為に歌い始めた。
 ハンスはカリナの表情を仰ぐ。
 そこには冷たい瞳のカリナがいた。
 怖がられてばかりの、優しい男がいた。

「カリナ、座ろう。下ろしてくれ」

 崖際に二人は座って、隣に並んだ。その辺の石を拾って、手癖に揉んだり放り投げたりして、カリナが切り出した。

「ああ。ハンス、こっちからも、伝えたいことがあったんだ」
「なんだ?」
「俺、結婚したんだ。丁度娘も産まれてて。名前はレイカっていう」
「そうか、可愛いか?」
「誰よりも、誰よりも可愛いんだ。妻と同じくらい、いや、選べない」
「そうか、そりゃあ良かった。悪いこと、したな」
「いや、いや――すまない」

 カリナの瞳から涙が零れた。
 贖えない罪だった。
 全てを賭けても、もう贖えない罪。
 時を戻ろうと、どこまでも戻っても、消えない罪がここにあった。

「救えなくて、ごめん。みんな、救いに行くって誓ったのに、俺は――」
「カリナ――」
「そうすれば、お前がこんな風になることだってなかったのに。俺は、都合良く諦めて、お前を、ハンスだけでも、救えたはずなのに――二人なら、二人ならきっと生きられたのに! そうすれば、お前にこんな思いをさせる必要なんて――!」
「気にするな。痛かった。悲しかったさ。でも、良かった。お前が生きていてくれて。それが俺にとって何よりも救いなんだ。それに今は、聞こえるんだ。お前も、聞こえるだろう」
「ああ、皆の声が。聞こえるよ――」
「カリナ、頼んでもいいか?」
「ああ――」
「みんなの声が聞こえる内に、頼む。眠たくなってきちまった」
「あ。あ、あ……」

 ハンスが腕から離れて、真っ直ぐとカリナを見据えて立った。
 燃える故郷を背に、覚悟ある男が和やかに微笑んだ。

「カリナ、マリアはお前のこと、好きだったんだぜ」
「ああ――知ってるよ」
「でも、俺もあいつのことが好きだった」
「ああ、それも、知ってる」
「俺、アイツの隣にいるよ。最期まで寂しそうだったんだ」
「頼んでも、いいか。ハンス」
「ああ。またな」
「マリアを、頼む」
「請け負った」
「ありがとう――」

 音もなく、時もなく、カリナの手が死を誘った。
 
「どうして、私たちは、虹の向こうへ――」
『行けるさ。だから、待ってるぜ、カリナ――』

 ハンスの身体が落ちて消えていく。
 小屋で装置を破壊したカリナは、再び崖際にやってくると村を見下ろした。
 もはや火災が止まることはない。
 全てが燃え落ちるだろうこの森の中で、記憶ではもう爆発が起こっているはずだった。

「成功、か」

 自らの手が青く濁り始め、その手に涙が落ちていることに気が付いたのは、なぜだろうか。

「戻りたくない……戻りたく、ないよ。みんな……俺を、一人に、しないで、くれよ――」

 望んだ未来がある場所だ。わかっているのに、カリナは膝をついた。
 孤児院が燃えていく。思い出が、始まりの場所が、終わりの場所が、消えていく。
 どこにもなくなっていく。
 あそこには、いたはずなのだ。
 親友が、守るべきだった子供達が、愛してくれた人が。
 燃えていく。
 燃えて、消えてなくなっていく。

「うわあああああああっ!!! 返してくれ! 皆の命を、笑顔を、泣き顔を、恨みを、愛情を! 全部、全部! バカヤロウ、バカヤロオ!!! 皆が俺の恩人なんだ! あの日俺が生きていられたのは! 今日まで俺が生きていられたのは、皆のお陰なんだ! 返せ!!! 返せよおおおおおおおっ!!! 全部、全部くそっくそおおおおおおおおおおお!!!!!!!!! 神様の、ばかやろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!! 神様の、ばかやろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!」

『カリナ、行って』
『じゃあね、カリナ』
『幸せでな。カリナ』
『生きてくれ。カリナ』
『お前が生きていてくれて、本当に、良かった。達者でな』
『後は任せて。カリナ。大丈夫、ハンスもいるから』

 なりふり構わずに崖に手を伸ばすカリナを、抱き留めた声達が円環を為して包み込む。
 やがて眠るように肉体は引かれて行き、かつて少年だった魔法使いは、あるべき場所へ還っていく。
 青い鳥の飛ぶ未来へ、望まれた未来へ、勝ち取った未来へと。
 友人達に生きることを望まれたから。
 呪いの向こう側へ、青い鳥達がカリナを連れていったから。
 さようなら、魔法使いは最後に故郷へそう呟いた。


 天上より差し伸ばされた白くとおき指先は天使の様相を以てただ一人の人間に延ばされた。
 見遣るにそれは合歓の誘いにも、或いは奴隷の首に輪をかける主にも見えた。
 慈悲か、それとも絶望か。
 それは奴隷の瞳にしか語れない。
 薄ら笑みを浮かべた奴隷は、瞳に星の光を映し、幻想を射る為に神にさえ盾突いた。
 この奴隷はその鎖錠が下ろされる瞬間まで諦めてはいない。
 そしてそれに応えたのは――奇しくも毛玉であった。
 足音も咆哮もなく、しかし一木の前に現れて不浄なる神の手を振り払ったのは。
 肩に乗った毛艶の良い夜の色を映した、一抱えしかない小さな黒猫であった。

「――」

 呆気に取られるように目を瞬かせた一木を尻目に、優雅に振り向いた黒猫はお辞儀でもするように前足を舐め頭を垂れて、一木を庇う様に立って見せる。

「一木くん、加勢に来た」
「あなたは――」

 背後からの声に振り向いてみれば、そこには分厚い外套を纏った瑪瑙色の男、そして空から降り立つ種々様々な猫達がまさに今毛布の雪崩と言わんばかりに若草の大地に流れ込む様子であった。
 彼らは革や或いは見たこともないような艶で光る金属製の装い、金銀翡翠に孔雀石といった飾り物でその燦然たる毛並みを際立たせ、足の長い長毛の猫などは古い傷痕により断ち切れたのであろう右耳の失った部分を金のメンコで継いで、更に荘厳な容貌を辺りに響かせて凛としていた。
 一際小さな猫たちはその大きな白き猫に付いて回り、遊撃手めいてジプシーの隈取りを施した猫たちはみな耳を垂らしており、そこには規律や明確な社会的特性が鑑みられた。
 そして正に軍の長たる白い毛並みが夜闇を切り裂いた時、猫たちは赤子の泣き声にも取れるような愛らしくも豪奢な声で一斉に吠え立てた。
 瑪瑙の男は猫に囲まれながら一木に歩みを進め、ひたりと随行したその猫たちは恭しく鼻先を一木の膝や体のあちこちにこすりつけて挨拶をすると、空に浮かぶ神に向かって一様に毛を逆立てた。

「友人ラヴァンとの盟約により、幻夢郷の『ウルタール』より至った。
 人の身にあってよくぞここまで耐え抜いた! 正直に言うと、君をそこまで信用していなかった。
 彼の弟子の中でもいっとう出来が悪いと聞いていたからね!」
「そんな、そんな……ハハ。なんとか、なんとかなってしまうだなんて」

 膝が笑ってへたりこんだ一木は、その男のヴェールの下を見て血相を変えた。
 とても人の貌ではない。土気色のトカゲの肌、そして滑って煌めいている。
 顔色を無くす一木に、男は緩やかに手を差し伸べて口を開いた。

「大昔に、人の世界にあった私は眠りに落ちてしまってね。これは借りものなんだ。仮初だから不信を感じるかもしれないが、安心してくれ。ラヴァン博士にも聞いているだろう?」
「え、ええ。てっきり、あの人だからあなたのような縁もあるのでしょう。失礼を」
「脅かすつもりはなかったのだが、こういうこともあるだろう。それに君には感謝しているんだ」
「……感謝?」
「……一度は現世の世界を夢で埋めたぼくでも、夢にあると気が付くんだ。もしここが現世なら、とね。夢見人は夢から現世を夢見るんだ。こんな身にあってもいつか人の世界に一度は戻ってみたい、そんな夢を持っているんだよ。だから君がいてくれて良かった。ぼくの夢を繋いでくれている。君とは不思議な縁がある、彼に頼まれた時そう感じたんだ。近しい夢追い人だ、会ったことのない親友だ、とね。だからぼくも全力を出した。見ていてくれたまえ、現世を夢が救う時を」

――そして、君の願いが叶う時を!

 咆哮は一層大きく、今度は慟哭の色を強めた猫の軍勢たちは空へ向かって駆け上がり始めた。
 危機感を持ったのは一木だった。
 相手はまして神である。猫たちがいくらこの世のモノではないといえ、そうだってこうして正面から行くというのは分が悪すぎる。
 それに『あれ』は触れれば”飛ばされる”ものだ。攻撃ではない以上、そんなものは防御できようがない。
 一木は焦りから視線を男に飛ばすと、男の視線は柔らかに感ぜられた。

「君の眼で見たことがあったろう」
「は……」

 そこまで思考して辿り着く。一木の目の前でさっき神の手を振り払ったではないか、あの黒猫は。
 埒外の思考とこちらの常識を大きく外れた世界に意表を突かれたのは、一木だった。

「君も話くらいは聞いたことがあるのではないかね。地球や、その近郊の星々に住まう猫たち皆に畏れられ、また足恭な程にまで崇められる一柱の神の話を。
 彼らの胸元に飾られた首飾りを見てくれたまえ、或いは鎧に纏われた意匠を見れば一目だろう。
 あの五芒星の導きによって猫たちが集ったのであれば、それはもう彼女が指揮を取ったに違いない、さあ、ほら! あの空を見たまえ!」

 降り注いだ言葉の雨を切り裂いて、猫たちが空を駆ける。
 遡って不浄の神を断つその牙が爪が、或いは咥えた剣が不条理を斬り放つと、たちまち輝線と共に悍ましい因果は断たれていった。
 正面から切り込んだ将軍猫達の働きによって幾何学の神もこれには動揺したのか、無造作に投げかける意味の羅列を停止して、その身体を不可思議な構成物質に移相させ、拒絶するかのように大小に変化して見せた。
 しかし怯まないのは遊撃手達であった。その模様のある猫たちはどこから現れたのか始めに見たころよりも頭数が増えており、彼らは守りに入った神を揺さぶるように虚実交えて飛び回ったり引っかいたりと正面部隊へ攻撃が集中しないように細心を払って立ち回っていた。それは神にとってはさぞ癇に障る行為であったのだろう、ほとんどもう正面にはかかることができなくなっており、心のままに飛び回る猫たちの足なり身体なりを掴み飛ばそうと藻掻く姿には、威厳や畏れよりも白痴の面影を感じさせた。

「邪神と相対しているのに、彼らはまるで狩りを行う様だ……」

 感心したように、一木は呆然と空を眺める。

「ああ。月や幻夢郷の猫たちでもなかんずく戦いに長けているものがここに集ってくれた。
 あの子達はある女神の子供たちであり、代々誇りとともに受け継がれてきた臣下の兵達であり、同時にウルタールに住み着く愛らしい主たちでもあるのだよ」
「神にも比肩し得る程の強大な存在なのですか、彼らは」
「いいや。基本的にはそこいら中で見かける柔らかな毛玉達となんの変わりはない存在だよ。ただ、短い生命の時間を何世代も何世代も積み重ね、戦いを引継ぎ、何度も何度も死線を超えてきた。言うなれば猫の世界の異端狩り、とでも言おうか。それにあの神"ヴェールを剥ぎ取るもの”が本気ではないのも明白だ。神々が本気で侵略しに来たのならば、被害はもっと積み重なっているだろうから」
「それほどの知識を持ち、幻夢郷と現実を又にかけ、そして剰え異種族の猫たちと交友を結んでいるなんて。ありえない……あなたは、一体――?」

 ぎこちなく指先を奮って、男が困ったというジェスチャーをする。

「さァてな……ヒトの頃の名前なんて、いつぞやぶりだ、忘れてしまったかも。それよりも、ほら、見たまえ、空の向こうより来る異形の影たちを。ほら、猫の形に見えないかい? 虹色に光っては収縮と肥大を繰り返している。彼らは少しこちらとはルールが違うが、僕たちやウルタールの猫たちは『土星の友達』と呼んでいる。彼らも大いなる我らの神の頼みに応えて、遥か土星から飛んで来てくれたんだよ」

 空には子供が安い色粘土で作ったような歪な四つ足が、周りの空間を熱した飴のように折れ曲がりながら今まさに不浄の神の繰り出した障壁にべちゃりと張り付いて溶けて現れてを繰り返して、およそ攻撃に違いない行動を取っていた。
 印籠を込めるように障壁に溶け込んだ土星の猫たちは、その障壁を侵すようにどろどろとその水飴状の身体をよりくっ付けて押し付けて、ほんの少しだけ空いた穴を押し広げては延ばしを繰り返しておよそ一匹の猫が通れるようにすると、幻夢郷の猫の将軍たちは単縦陣を組んでその中に飛び入って、縦横に障壁を裂いて回った。
 将軍達の武器である金細工の表面が削れて、夜空に金の雨が降ったその時だった。
 合図のようだった。障壁が音を立てて崩れ、攻撃を一手に集めていた避けに徹していた遊撃手達が一斉に攻撃に転じた。
 邪神の告げる言葉は紙一重に爆発するように膨大な密度となり、地上で本隊の帰りを待つ演奏部隊の猫は思わず耳を塞ぎそうになって若草の地面に転がった。
 激しい稲妻のような拒絶が脳を割るほどの空間の断裂を生んでも、最前線にいる猫達は怯まず、何匹かの猫が地上に墜落したがより奮い立って応戦していた。

「一木君、まだ術は保つかね。ヴェールを剥ぎ取るものは今追い詰められている。だからより戦いも情報の圧も激しくなるだろう。彼がより深い次元の圧を放ってきた時、術は壊れたりしないだろうかね」
「……大丈夫です。きっと、この術式は壊れない」

 即答した一木に、男は振り向いた。

「ほう、いい返事だ。根拠は?」
「カリナの術は地球側の神性が持つ権能を引き出したものです。親和性のある力なら容易に干渉されるかもしれない。でもあの神は――」
「外宇宙からきたる神、だから安心できる、か」
「ええ。それに、これは僕の最大の敵が作ったものだ。きっと本当に全能たる神が目の前にいるのなら――これは壊れているに違いない。だが、今現実に、っている」

 男は歪な音を切れ目の端から奏でた。それは笑っていることなのだと、一木にはすぐ理解できた。

「愉快な人間だ。君は本当に面白い。肉体が借り物でなければな。もっと長い間話したかったのだが」

 猫と神の争いが空を割るほどの大きな衝撃となって夏の夜空に宇宙の色を振り撒いていた。瑠璃、瑪瑙、或いは伽羅に光を放ち未だ解明されぬ反応を見せ、空が光り輝いていく。
 勇者たちは果敢にも挑み倒れる中、それでも泡沫の神はじくじくとその増大させた虚空の体を小さく、弱く縮こまらせるかのように夜の闇の中に押しやられていく。
 最も勇敢な将軍は今だと号令をかけるように砂を掻き、それを真似るかのように後援の猫たちが砂を、空を掻き、増大した情報の体を切り裂いていく。

「……一木くん。一つ、問いたいことがある。この争いが終る前に」
「なんでしょう。もう死に体の私などに、こなせるようなことはないかと思いますが――」
「肉体を捨てて、幻夢郷に来ないかね。そうすれば必定ひつじょうの死は肉体にのみ抑えられる。君のような人間を、就中なかんずく不死の権能に肉薄した人間などは、ただ運命の悪戯で死ぬには惜しい。君の意思さえあれば、私が猫たちの主にして幻夢郷の境界におわすバースト様に掛け合うこともできる。悪くない反応だった。彼女にもう一度頼めば……。そうだ、幻夢郷にさえ魂が行ってしまえば、現世に絡んだ因果線の束も幻夢郷に吸収されて現実世界に君が残したものも消えていくだろう。そうすれば君の思い描く新しい未来も現実の路線に乗って進む。君は消滅を免れ、現実は君の思い描いた通り再編されて新しい未来を描いていく、それがいいと思わないか、一木くん」
「いえ……」

 一木は首を横に静かに振ると草の香りを一杯に吸い込んだ。それはまるで決まっていたように一木の胸の中に来訪した答えで、ただ自然に、それが当たり前だというようにそこにあったものを一木は拾い上げていた。

「夢の人、あなたのような人に憧れます。でもぼくは行きません」
「どうしてだね! 君は死ぬべきじゃない。それに、生きていれば君の大切な友人や子供、まだ叶えたい夢もあっただろう。その為に地球の神までが君に興味を示しているんだよ。君はその好機を、無下に手放すというのかい?」

 宇宙を漂流したような鈍色の焔が将軍の一刀にて切り払われ、遂に灼け尽きて、猫たちが勝鬨の咆哮をあげる。
 次元の狭間の内側に、異次元の彩色を纏った極彩の重力が織り込まれて消え去っていく。それを見て猫たちが一層の歓喜を轟かせる。
 その声が耳朶を打ったとき、一木に去来していたのは、あくびにも似た緩やかに沈んでいくような気持ちだった。

「何年、何十年、いや。精確じゃないしわからない。見てください。夢の人」
「……何を」
「ぼくは、置いてきてしまったものがあるんです。この護り切った世界に」

 真っ赤に染まったガノイド鱗、燃え盛る森に消える最愛の妻、僕の為に、亡くなった妻の為に命と全ての時間を掛けて一緒にいてくれた一人の女性。ラヴァン博士、そして、小さなヒーローたち。一人ひとりが、向こう側に向かって歩き始めていた。
 
「その運命が、今、夜明けを迎えようとしている」
「……」

 長い長い夜が、開け始めていた。
 青い青い夜明けが、始まろうとしていた。
 猫たちが太陽を引き込むように大きな大きな声を上げる。
 それに引き込まれるように、太陽と風と、そして決して迎えることのなかった八月の終わりが、やって来ようとしていた。

「そうだ、まだもうほんの少し、星がある……体が動くうちにいかないと」
「……どこに行くんだね」

 血を流しながら歩き始めた一木の隣を、猫たちが庇うように歩いて、男は肩を抱えた。

「姪たちと、最後の約束を」

 三人の眠る光の棺を猫たちが抱えあげ、地表に上げる。そして二つの遺体も猫たちに運ばれ、空を見上げて安置されていた。
 朝焼け前の青く染まった空の下に晒すと、ほんのすこし残った星が見えた。
 どこからともなく猫たちが一木の持ち物を拾ってきて集めて、ほんの少しでも彼を元気づけようと寄り添った。その内の一匹が、一枚のカンバスを持っていることに気が付いて、一木はそれを大事そうに拾い上げた。

「ありがとう、これだけは、持っていきたかったんだ」
 
 カンバスの夜空を抱きしめて、一木は胸が一杯になった。それで、もう十分だった。

「これで、大丈夫です。ぼくのやりたいことは、これで終わった……」
「本当に、行かないのかね、一木くん。猫たちも、もう地表にいられる時間が短い。現実と虚構の入り交じりが段々と薄くなって、この場所が現実に近くなって来ているんだ。君は勝利したのに、君だけがあちら側の運命にたどり着けない。君だけがここに残される。それで、いいのかね」
「構いません。僕の最期の望みは、今叶っています。悠里に、しづるくん、そしてレイカ。今、ようやく、星を見ることができた。久しぶりに、知らない星空を見ることができた。人為に汚染された星空じゃない、僕の見たかった明日の空。それが、ここにあって、死ねるなら」
「それが、君の望みかね」

 一木はただ頷いた。
 歩き始めたのは、猫たちと、男だった。

「生を全うした一人の勇者へ祝福を、安らぎのあらんことを。死を服す智者に、永遠の眠りを」

 薄くなっていく夜空の方向へ、銀の鍵にて開かれた幻夢郷への上り階段である。
 一木は動かなくなっていく体で一つだけ会釈をし、彼らが消えていくのを見守った。

「眠いな……」
『おじさんが眠いなんて珍しいね』
『そろそろ歳か? いや、まだまだそんなことないか。こんなに元気でやってんのに歳なんて言われたらこっちがなんだか立つ瀬ないぜ』
『や~いしーちゃんの若年おじさ~ん!』
『なんだと!? 最近コイツ酷いんだよ、言ってやってくれ!』
「はは、仲良しだねえ、君たちはいつも」

 目を閉じれば、聞き慣れた声が聞こえてくる。
 風と、星と、空と、声と。
 鈴、と。聞き慣れない音が聞こえた。
 一木がふと目を開くと、温かく湿ったざらつくものが頬を撫でた。

「黒猫……」

 目の前にいたのは、胸に五芒星の飾り物を付けた、正に一木の危機を救ったあの黒猫であった。

「お前は、帰らなくていいのかい」

 一言も鳴かず、猫はただ佇んで待っていた。何かを見つめて待っていた。
 一木は訝しんでその視線の先を見て、息を呑んだ。
 最愛の妻と、もう声すら朧気だった、傷一つない妹がそこに居たからだった。 

『おにーちゃん!』
「……扇ちゃん!」
『一木!』
「いず……く?」
『……わかるだろ。さァ、一木ィ行くぜ』

 いつの間にか傷は消え、二人の間に手を繋がれた一木は、ゆっくりと明けていく夜空の碧玉の雲の下を歩き始めていた。
 痛みはどこにもなく、悲しい気持ちはゆっくりと向こう側へ、その歩みはふわりと浮き上がり、遂に暗い坂の一番てっぺんに上り詰めていた。
 てっぺんの向こう側には、真っ直ぐな道が広がっていた。暖かく、ようやくたどり着いた達成感で一杯になって、一木はある手の感触に気が付いた。

『わあ~! たかいよおにーちゃん!』
『はしゃぐな、静かにしてな。一木は疲れてんだ』
「構わないよ、それより、指輪、付けててくれたんだ」
『……ああ。あの日、付けていっていいか聞いて、お前がいいって、言ったからさ』

 照れくさそうにいずくがそっぽを向く。

『あ、そうだ! お兄ちゃん。お誕生日、おめでとう。いっぱいくれたの、覚えてるから、扇もいっぱい溜めてたんだ』
「ありがとう、扇ちゃん。……見てもいいかい?」
『うん!』

 一木が扇を抱きしめると、少女は嬉しそうに目を細め、体を預けていた。
 温かい肌と肌がようやく触れ合い、それは筆舌に尽くされることのない、誰にも知り得ない心の交換であった。

『一木、良かったな。お前がそんなに笑顔なんて、見たことなかった』
「……ありがとう、ありがとう。扇ちゃん、いずく」
『これからはずっといっしょだよ。おにーちゃん』
『さあ、行こう。もう近いンだ。さっさと行こうぜ、すぐそこだぞ』
「せっかちだな、いずくは……うん、でもそっか、行こう。うん、一緒に、一緒に行こう。ずっと、ずっと……一緒に」
『ありがとな、一木』
『おにーちゃん、ありがとー』
「ぼくは、本当に幸福だった。ありがとう、みんな」


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