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第3話① すんません……

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 丁子を見送ったゴッ太郎は、すっかり遅くなってしまったなあと思いつつ、ぼんやりと電車の揺れに体を預けた。最寄りまではまだ三駅ある。今日の収穫は大きかったが――同時にいくつもの問題が立ち上った一日でもあった。

 眼の前には淀んだ川がゆったりとした調子で流れている。河川敷にはいくつもの家のなりそこないが建って並んでいた。

『少々ユレァス……停止までダァシャリエス……』

 考え事をしながらだと、三駅というのは絶妙な距離だ。電車を降りたゴッ太郎は、どこからともなく屋台の醤油ダレの匂いを嗅ぎ取った。草臥れたサラリーマンと並んで駅前を通ったゴッ太郎はマンションの前まで来て、足を止めた。

 これほど遅くなってしまったのだ、おそらく御鈴波には怒られるだろう――ゴッ太郎は眉間をしかめた。階段を登って、部屋の鍵を開けてドアノブを引いた。するとドアは微妙に開いたまま途中で止まる。チェーンが掛かっているのだ。

「……」

 これは、怒っている。大分怒っている。
 ゴッ太郎は察した。御鈴波がチェーンを付けて締め出している時は、かなり怒り度が高い。そんな時にゴッ太郎ができることは一つ、そっとドアを閉めた後、インターフォンを鳴らす。

 気の抜けた電子音が鳴り響き、ややあって応答音が聞こえた。

「なにかしら、ゴッ太郎」
「わかってたんだァ御鈴波ぁ……お家入れてくれないかな」
「今、何時?」
「時計は見ない主義で」
「そう、じゃあずっとそこにいてても気にならないわね」

「すんません……開けてください」
 おどけた口調で敗北宣言も、今の御鈴波の冷たさは一向に収まらない。
「何してたの? こんな時間まで」
「それがですね。色々ありまして……話すと長いから、家、入れてくんないかな……ご近所さんに怒られちまうよ」

「……次はないと思いなさい。上海、開けてあげて」
「はーい」

 ドアチェーンが外れる音と共に、家のドアは開いた。出会い頭に飛びかかってきた上海を抱きかかえると、奥にはエプロン姿の御鈴波が見えた。

「ゴッ太郎、おかえりー! 待ってたから、遊ぼ!」
「上海、ゴッ太郎はまずわたしと話すことがあるからダメよ」
「む……」
「そういうことだ。上海、ちょっと部屋に居といてくれ」
「もー!」

 上海を下ろしたゴッ太郎は、リビングに向かう。この後怒られることはわかっているが、話さないわけにもいかない。

「来なさい。ゴッ太郎」
「勿論です、お嬢様」

 リビングには、既に食事が用意されていた。ゴッ太郎は申し訳のない気持ちになりながら食卓について、手を合わせた。正面にはにこにこと微笑む御鈴波がいる。頬杖をついて、ゴッ太郎の目をじっと嬉しそうに見つめている。怒っている。

「ところで、今日はどんな言い訳を用意してきたの? こんな他の女の匂いをさせて――」
「え」

 意表を突かれたゴッ太郎は、思わず御鈴波の顔を見つめたまま呆けてしまった。御鈴波の手に握られた湯呑は、ミシミシと音を立てて、笑顔はとどまることを知らない。

「あの、御鈴波さん」
「わたしが家でゴッ太郎を待ってるって知りながら、他の女と遊んでたの?」
「え、その、あの。これはですね。遊んでたわけじゃないんです。ご機嫌取りというか、責任払いというか……」
「そう。認めるの。わたし以外の女に媚び売ってたって」

 御鈴波の握りしめた湯呑に、小さなヒビが入る。ゴッ太郎は言葉を失った。駄目だ。今日の御鈴波には無理かも知れない。でも、まだ本題を伝えきれていない。板挟みになったゴッ太郎は、悩んだ挙げ句、とりあえず伝えるべきことを全て伝えることに決めた。たとえそれでめちゃくちゃな大目玉を食らったとしても、それが忠義立てというものだ。

「で、あの……それでですね……その、今日、勘解由小路丁子に負けまして。というか――このままじゃ勝てないくらいにボコボコにされまして……。それでこっちが場所も指定して、急に仕掛けて、その上で負けたとなれば謝りでも一つ入れておくのが人間の情ってもんじゃありませんか? それで、まあ、ちょっとお出かけしてたわけでして」
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