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第1話:ミライース、深淵へ
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「……申し訳ありません、刻賀(ときが)さん。これ以上、教習を継続するのは……その、お互いにとって不幸なことかと思います」
春休み。冷たい風が吹き抜ける浜松の合宿免許教習所。そこは、多くの若者が「自由の翼」を手に入れる聖地であるはずだった。しかし、十八歳の刻賀 逢魔(ときが おうま)にとって、そこはただの処刑場に過ぎなかった。
高校を卒業したばかりの彼の左足は、クラッチペダルという名の重しに耐えきれず、常に痙攣していた。
半クラッチの感覚を掴もうとするたびに、教習車のエンジンは断末魔のような音を立てて停止する。背後から聞こえる教官の溜息、隣のコースを軽やかに駆け抜けていく同世代の少年たちの視線。
幼い頃、深夜のテレビで見た『頭文字D』のハチロク。
ゲームセンターの筐体で、ギアを叩き込みながらコーナーを抜けた『湾岸ミッドナイト』。
その幻想は、現実の金属と摩擦熱の前で、無残にも砕け散った。
「……わかりました……オートマ限定に、切り替えます」
震える声で告げた時、逢魔の「走り屋」としてのプライドは死んだ。
いや、死んだと思っていた。
数ヶ月後。
長久手市にあるA学院大学の広大な駐車場。
後期授業の開始を告げるチャイムが遠くで響く中、逢魔は一台の車を停めた。
ダイハツ、ミライース。
逢魔の両親が「買い物に便利だから」という理由で買い、その後同じ理由でタントに乗り換えた後、息子に与えた究極のエコカーだ。
「……フン。燃費リッター25キロ。最高出力は……笑えるよな、たったの49馬力か」
逢魔は自嘲気味に笑い、ドアを閉めた。
大学には、親に買ってもらったであろうBMWやスカイラインが誇らしげに並んでいる。彼らにとって、このミライースは「動くパイロン」程度にしか見えないだろう。
だが、逢魔は知っていた。
この車には、クラッチがない。
シフトミスという概念がない。
無段変速(CVT)という、淀みなき加速の旋律が、この小さなエンジンの中に潜んでいることを。
大学の講義が終わる年明けの夕暮れ時。
逢魔は、吸い寄せられるように国道を東へと走らせた。
目的地は、瀬戸市から豊田市へと抜ける「戸越峠」。
名古屋周辺の走り屋たちが、夜な夜な火花を散らすテクニカルコース。
「……お前だけは、俺を裏切らないよな」
逢魔がアクセルを静かに踏み込む。
ミライースのCVTが、エンジンの回転数を最も効率の良い帯域へと「固定」する。
ググッ、と、背中を押されるような感覚。
そこには、マニュアル車がシフトチェンジの瞬間に見せる「断絶」はない。
戸越峠の入り口、その前方を走るのは、派手なウィングを背負ったシルビアだった。
バックミラー越しに、シルビアのドライバーが鼻で笑うのが見えた気がした。
「軽自動車が、走り屋の聖地に何の用だ」
――そんな幻聴が聞こえる。
コーナーが迫る。
シルビアがブレーキランプを点灯させ、派手なエンジンブレーキの音とともにシフトダウンを行う。
一瞬、シルビアの挙動が乱れる。
「……今だ」
逢魔はブレーキを踏まない。
ミライースの軽量な車体は、慣性だけでコーナーを曲がりきる。
CVTが、アクセル開度に合わせて最適なプーリー比を瞬時に選択する。
ターボのような爆発力はない。
だが、そこには「淀みなき流体」のような加速があった。
シルビアのインサイドに、ミライースのフロントが潜り込む。
「なっ……!? 軽だと!?」
シルビアのドライバーが驚愕に目を見開く。
立ち上がり。
シルビアがクラッチを繋ぎ、再加速に移るそのコンマ数秒の間。
ミライースは、既に「最高効率」の加速を開始していた。
「……これが、俺の選んだ『深淵』だ」
ミラーの中から、シルビアのライトが遠ざかっていく。
逢魔の瞳には、かつての挫折の影はない。
あるのは、ただ、電子制御と物理法則が支配する冷徹な快感。
だが、頂上の展望台付近まで差し掛かった時、背後から、異様なプレッシャーが逢魔を襲った。
エンジン音がない。
タイヤの鳴く音すら、聞こえない。
ただ、漆黒の巨大な影が、音もなくミライースの背後に張り付いていた。
「……なんだ、あいつ」
バックミラーに映ったのは、威圧的なグリル。
日本が誇る最高級車、トヨタ・センチュリーだった。
しかも、ただのセンチュリーではない。
闇に溶け込むようなマットブラックの塗装、そして足元に覗く巨大なキャリパー。
そのセンチュリーが、次のヘアピンで、信じられない挙動を見せた。
重厚な巨体が、まるで物理法則を無視するように、インコースの縁石ギリギリを滑るように抜けていく。
ミライースの「軽さ」を、圧倒的な「トルク」と「制御」でねじ伏せる走り。
逢魔が必死にアクセルを踏み込むが、センチュリーはあざ笑うかのように、滑らかに、静かに、ミライースを抜き去っていった。
……一瞬だった。
抜き去り際、センチュリーの窓がわずかに開いたように見えた。
そこには、夜の闇よりも深い瞳をした一人の男がいた。
センチュリーは、そのまま戸越峠の深淵へと消えていく。
後に残されたのは、ミライースの微かな排気音と、逢魔の激しい鼓動だけだった。
「……負けた。……今、俺は、同じオートマ車に……」
逢魔の指が、震えていた。
だが、それは恐怖ではなく、歓喜だった。
自分が捨てたはずの「速さ」が、オートマチックという、かつて馬鹿にしていたシステムの中に、これほどまでの深淵を持って存在していたことへの。
これが、刻賀 逢魔が『オートマタ』という呪われた絆に足を踏み入れる、最初の夜だった。
春休み。冷たい風が吹き抜ける浜松の合宿免許教習所。そこは、多くの若者が「自由の翼」を手に入れる聖地であるはずだった。しかし、十八歳の刻賀 逢魔(ときが おうま)にとって、そこはただの処刑場に過ぎなかった。
高校を卒業したばかりの彼の左足は、クラッチペダルという名の重しに耐えきれず、常に痙攣していた。
半クラッチの感覚を掴もうとするたびに、教習車のエンジンは断末魔のような音を立てて停止する。背後から聞こえる教官の溜息、隣のコースを軽やかに駆け抜けていく同世代の少年たちの視線。
幼い頃、深夜のテレビで見た『頭文字D』のハチロク。
ゲームセンターの筐体で、ギアを叩き込みながらコーナーを抜けた『湾岸ミッドナイト』。
その幻想は、現実の金属と摩擦熱の前で、無残にも砕け散った。
「……わかりました……オートマ限定に、切り替えます」
震える声で告げた時、逢魔の「走り屋」としてのプライドは死んだ。
いや、死んだと思っていた。
数ヶ月後。
長久手市にあるA学院大学の広大な駐車場。
後期授業の開始を告げるチャイムが遠くで響く中、逢魔は一台の車を停めた。
ダイハツ、ミライース。
逢魔の両親が「買い物に便利だから」という理由で買い、その後同じ理由でタントに乗り換えた後、息子に与えた究極のエコカーだ。
「……フン。燃費リッター25キロ。最高出力は……笑えるよな、たったの49馬力か」
逢魔は自嘲気味に笑い、ドアを閉めた。
大学には、親に買ってもらったであろうBMWやスカイラインが誇らしげに並んでいる。彼らにとって、このミライースは「動くパイロン」程度にしか見えないだろう。
だが、逢魔は知っていた。
この車には、クラッチがない。
シフトミスという概念がない。
無段変速(CVT)という、淀みなき加速の旋律が、この小さなエンジンの中に潜んでいることを。
大学の講義が終わる年明けの夕暮れ時。
逢魔は、吸い寄せられるように国道を東へと走らせた。
目的地は、瀬戸市から豊田市へと抜ける「戸越峠」。
名古屋周辺の走り屋たちが、夜な夜な火花を散らすテクニカルコース。
「……お前だけは、俺を裏切らないよな」
逢魔がアクセルを静かに踏み込む。
ミライースのCVTが、エンジンの回転数を最も効率の良い帯域へと「固定」する。
ググッ、と、背中を押されるような感覚。
そこには、マニュアル車がシフトチェンジの瞬間に見せる「断絶」はない。
戸越峠の入り口、その前方を走るのは、派手なウィングを背負ったシルビアだった。
バックミラー越しに、シルビアのドライバーが鼻で笑うのが見えた気がした。
「軽自動車が、走り屋の聖地に何の用だ」
――そんな幻聴が聞こえる。
コーナーが迫る。
シルビアがブレーキランプを点灯させ、派手なエンジンブレーキの音とともにシフトダウンを行う。
一瞬、シルビアの挙動が乱れる。
「……今だ」
逢魔はブレーキを踏まない。
ミライースの軽量な車体は、慣性だけでコーナーを曲がりきる。
CVTが、アクセル開度に合わせて最適なプーリー比を瞬時に選択する。
ターボのような爆発力はない。
だが、そこには「淀みなき流体」のような加速があった。
シルビアのインサイドに、ミライースのフロントが潜り込む。
「なっ……!? 軽だと!?」
シルビアのドライバーが驚愕に目を見開く。
立ち上がり。
シルビアがクラッチを繋ぎ、再加速に移るそのコンマ数秒の間。
ミライースは、既に「最高効率」の加速を開始していた。
「……これが、俺の選んだ『深淵』だ」
ミラーの中から、シルビアのライトが遠ざかっていく。
逢魔の瞳には、かつての挫折の影はない。
あるのは、ただ、電子制御と物理法則が支配する冷徹な快感。
だが、頂上の展望台付近まで差し掛かった時、背後から、異様なプレッシャーが逢魔を襲った。
エンジン音がない。
タイヤの鳴く音すら、聞こえない。
ただ、漆黒の巨大な影が、音もなくミライースの背後に張り付いていた。
「……なんだ、あいつ」
バックミラーに映ったのは、威圧的なグリル。
日本が誇る最高級車、トヨタ・センチュリーだった。
しかも、ただのセンチュリーではない。
闇に溶け込むようなマットブラックの塗装、そして足元に覗く巨大なキャリパー。
そのセンチュリーが、次のヘアピンで、信じられない挙動を見せた。
重厚な巨体が、まるで物理法則を無視するように、インコースの縁石ギリギリを滑るように抜けていく。
ミライースの「軽さ」を、圧倒的な「トルク」と「制御」でねじ伏せる走り。
逢魔が必死にアクセルを踏み込むが、センチュリーはあざ笑うかのように、滑らかに、静かに、ミライースを抜き去っていった。
……一瞬だった。
抜き去り際、センチュリーの窓がわずかに開いたように見えた。
そこには、夜の闇よりも深い瞳をした一人の男がいた。
センチュリーは、そのまま戸越峠の深淵へと消えていく。
後に残されたのは、ミライースの微かな排気音と、逢魔の激しい鼓動だけだった。
「……負けた。……今、俺は、同じオートマ車に……」
逢魔の指が、震えていた。
だが、それは恐怖ではなく、歓喜だった。
自分が捨てたはずの「速さ」が、オートマチックという、かつて馬鹿にしていたシステムの中に、これほどまでの深淵を持って存在していたことへの。
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