その殺人鬼、『星喰いの凶星(ステラ・ディヴォアラー)』につき。

あめの みかな

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​第6.6話:『慈悲の毒杯 ―仏の微笑みの裏側―』

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​ 陽光が斜めに差し込む、古びた寺院の縁側。
 庭園に広がる枯山水は、計算され尽くした砂の紋様が静寂を強調し、外界の喧騒を拒絶していた。その中心で、一人の老人が静かに座している。

 元・捜査一課警部、安達慈照(あだち じしょう)。

 現役時代、彼は「仏の安達」と称えられた。どんなに口の堅い凶悪犯も、彼の穏やかな眼差しと、魂の深淵に優しく触れるような説得の前には、涙を流して罪を自白したという。引退後の今も、彼は私設の保護司として、行き場を失った少年少女たちに手を差し伸べる「聖者」として、市民や警察上層部から絶対的な信頼を集めていた。
​ だが、その「慈愛」の正体を知る者は、今やこの世に数えるほどしかいない。

​「……おや。武御くん。こんな老いぼれの隠居所へ、何か相談かな?」

​ 安達がゆっくりと振り返る。そこには、夕闇を背負うようにして立つ武御雷(たけみ らい)の姿があった。
 雷の瞳には、かつて宿っていた「迷い」の光はない。ただ、天城星哉の冷たさと、布津誠一の無機質さを溶かし込んだような、底知れぬ虚無が横たわっている。

​「安達さん。あんたの淹れる茶は、今も人の心を解(ほど)くのか?」

​ 雷の声は、風に舞う落ち葉よりも軽く、そして鋭かった。安達は細めた眼の奥で雷を観察し、穏やかに笑みを深める。

​「心とは、解くものではなく、寄り添うものだよ。……どうした、ひどく毛羽立っているね。その肩に乗っている重荷を、少し下ろしてはいかがかな。……二十年前の『あの男』のように」

​ 空気が凍りついた。枯山水の紋様が、血の流れる溝に見えるほどの殺気が雷から溢れ出す。

​「……安達さん。あんたは二十年前、一人の誠実な男――天城の父親に、『家族のために死ね』と説いたそうだな。それが、あんたが彼に寄り添った結果か」

​ 安達は茶碗を置き、枯山水の白砂を愛おしそうに見つめた。

「ふむ、天城くんのことか。……彼は実に見事だったよ。正義感という名の傲慢を捨て、自分の信念よりも、愛する者の安寧を選んだ。私はただ、出口を失い彷徨う彼に、唯一の『正しい選択肢』を示してあげただけだ。……自らの死をもって家族の安全を買う。これほど美しい自己犠牲があるかな?」

​「選択肢だと? ……あんたは、彼の逃げ道をすべて塞ぎ、社会的に抹殺すると脅し、自死という出口だけを光り輝く福音のように見せかけた。……その汚れた口で、今も未来ある子供たちに『正義』を説いているのか」

​ 雷の言葉に、耳元の超小型通信機から織葉紬(おりは つむぎ)の、吐き気を催すような嘲笑が届く。

『あははっ! 聞いてよ雷さん、この仏様の裏帳簿。保護施設に入れた女の子たちを、政財界の変態どもに“浄化”と称して献上してるよ。その見返りに、施設の運営費と自分の名声を維持してる。……ねえ、聖職者のフリした、ただの女衒(ぜげん)じゃん! しかも、その子たちが絶望して泣くと、「これも修行だ」って優しく囁いて、さらに心を壊してる。最高に胸糞悪いね!』

​ 雷は、安達の足元に広がる白砂が、犠牲になった者たちの骨の粉のように見えた。

​「武御くん。君も疲れているようだ。……君が今、天城星哉という殺人鬼に囚われているのは、君自身の心の弱さが原因だ。……彼は君の魂を侵食する毒だよ。……だが、安心しなさい。私が君を救ってあげよう。……天城を殺しなさい。そうすれば、君はまた『光』の世界に戻れる。……私が、君の新しい父になってあげよう」

​ 安達の言葉。それは単なる発話ではない。相手の最も柔らかい精神の隙間に、甘い麻薬を流し込むような、洗練された「呪い」だった。
 だが、安達は誤算をしていた。今の雷の血管には、布津が用意した『感覚遮断剤(アパシー)』が流れている。感情を揺さぶる言葉の毒を、無機質なノイズとして処理する、科学の防壁。

​「……残念だが、安達さん。あんたの言葉はもう、俺の心には届かない。……布津さんが言っていたよ。あんたのような『精神の毒』には、物理的な『沈黙』こそがふさわしい、とな」

​ 雷は懐から、一滴の無色透明な液体が入った小瓶を取り出した。そして、安達の目の前に置かれたままの茶碗へ、音もなくそれを落とした。

​「それは……?」

​「布津さんの最新作だ。名前は『忘却の睡蓮(ロータス・イーター)』。……脳の言語中枢と、高次思考を司る領域だけを、選択的に、かつ永久に破壊する。……心臓は止まらない。肺も動き続ける。だが、二度と言葉を紡ぐことはできず、思考という光を失い、ただ『存在』するだけの肉の塊に変わる」

​ 安達の瞳が、初めて微かに揺れた。

​「……言葉を奪うのか。私から」

​「あんたは言葉を使って、人の魂を食い物にしてきた。……なら、これからは言葉のない、永遠の静寂の中で生きていくがいい。……自分が踏みにじってきた子供たちが、絶望の中で味わった『叫びたくても叫べない沈黙』を、今度はあんたが味わう番だ」

​ 安達は、しばらく茶碗を見つめていたが、やがて悟ったように……あるいは、その瞬間すら自分の「死の美学」として演じるように、静かに茶を飲み干した。

​「……あ、……あぁ……」

​ 数秒後、安達の口から漏れたのは、言葉ではなかった。それは、壊れた蓄音機から漏れるような、空虚な摩擦音。
 慈愛に満ちていた瞳から知性が急速に抜け落ち、焦点が定まらなくなる。枯山水の紋様を理解する力も、人を操る術も、すべてが脳の海に溶けて消えていく。

​ 伝説の刑事「仏の安達」は、ここに消えた。

 残されたのは、夕闇の中で、ただ口を半開きにして空を仰ぐ、老いた抜け殻だけだった。

​「……仏の座からは、もう降りてもらうよ。あんたには、地獄の最下層がお似合いだ」

​ 雷は、立ち上がり、一度も振り返ることなく境内の階段を降りていった。
 背後で、紬が熱狂する闇の信者たちのコメントを歌うように読み上げている。
 夕日は沈み、街は不吉な予感を孕んだ夜へと塗り替えられていく。

​「……次は、現場の『死神』だね、雷さん」

​ 雷は、天城から授かった紅い勾玉を強く握りしめた。
 戦場に至るまでの犠牲は、まだ足りない。


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