アジル・イマの晩餐 ―偽神の解剖録―

あめの みかな

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​『アジル・イマの溢出 ―逆位置の次女―』

​第2話:『氾濫する夜』

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『カイン記:外典・神の死角』

​第一節:孤独なる追放

​アダムとイヴの長子カインは、弟アベルの血を大地に吸わせた罪により、エデンの東、ノド(さ迷い)の地へと追放されたり。

カインは震えながら神に問う。

「私が出会う人々は、皆私を殺そうとするでしょう」と。

神は答えず、ただカインの額に「刻印」を刻み、彼を害する者には七倍の復讐があると告げたり。


​第二節:エデンの外の真実

​カインは荒野を彷徨い、世界の果てに到達せり。

そこには、神(エホバ)が語りし「唯一の家族」以外の、無数の民が蠢(うごめ)く巨大な都市がありき。

カインは驚愕し、膝を屈して天を仰げり。

「主よ、あなたは全知全能ではなかったのか。この名もなき民、土から作られし我らとは異なる血を持つ者たちは、一体何処より来たりしか」と。


​第三節:絶対者の不在

​カインは悟れり。自分を追放した神は、この広い世界の「一画」を支配する小びとの王に過ぎなかったことを。

神が禁断の知恵の実を恐れたのは、外の世界に自分と同等の、あるいは自分を凌駕する「別の神々」の被造物が存在することを知られたくなかったためなり。

エデンという名の温室の外には、神の手の届かぬ、広大無辺なる混沌(カオス)が広がっていたり。


​第四節:呪われし不死の王

​神がカインに刻みし「印」は、追放の標(しるし)にあらず、永遠に死を遠ざける「呪われた完全体」への変異なりき。

カインの肉体は朽ちることなく、歳月は彼を通り過ぎ、病も刃もその肌を傷つける能わず。

彼はノドの地に住まう「別の民」を武力と知略で屈服させ、エノクという名の巨大な城塞都市を築けり。

神の顔を避けて生きるカインは、やがて自らを「死を超越せし神」と名乗り、かつて自分を捨てた神への復讐を誓えり。


​第五節:鋼鉄の時代

​カインは民に、エデンでは禁じられていた「火の扱い」と「鉄の鍛造」を教えり。

彼が支配する地では、祈りは無価値であり、ただ力と知識のみが崇められたり。

不老不死の王カインの瞳は、数千年の時を経てもなお、弟を殺したあの日の赤き熱を失わず、天上の神をいつの日か引きずり下ろすための「神殺しの牙」を研ぎ続けり。

ーーアジル・イマ神話『カイン記:外典・神の死角』より



​ 新宿の夜は、色を失った泥のように濁っていた。
 佐伯は亜美の手を引いて、路地裏の湿ったコンクリートを駆け抜けていた。いや、「手を引く」という表現はもはや正しくなかった。亜美と接触した彼の右腕は、手首から先が彼女の左手とドロドロに溶け合い、赤黒い肉の粘膜と黄金の構文が混ざり合った「一本の結合部位」へと変貌していた。
 痛みはとうに消えていた。あるのは、彼女の心臓の鼓動が、自分の血管を通じて直接流れ込んでくるような、悍ましくも甘美な一体感だけだった。

​「……佐伯さん、あっちから……何か、怖い音がする」

​ 亜美が指し示した先、ビルの屋上から数人の影が音もなく飛び降りてきた。
 カインの執行部、第十四隠密班。彼らは所謂『騎士団』のような重装甲を纏ってはいなかった。その代わりに、身体の各所に「内骨格の強度」を極限まで高めるための、銀色のボルトが打ち込まれていた。彼らは、アジル・イマの溢出を食い止めるために、自らを「動かない檻」へと作り変えた番人たちだった。

​「個体識別、加藤亜美。……及び、カインの末裔の反逆者、佐伯某(なにがし)」

​ 先頭に立つ男が、銀色に光る特殊なワイヤーを射出した。それは殻の概念を物理的に固定し、対象の変異を強制停止させるための拘束具だ。
 ワイヤーが亜美の肩に食い込む。本来なら、そこから彼女の神経は麻痺し、力は封じられるはずだった。
​ だが、逆位置の次女イマは、もはや「止める」ことなど不可能な領域に達していた。

​「……無駄だ。彼女に触れるということは、……世界を定義している『型』を捨てるということなんだよ」

​ 佐伯が、溶け合った右腕を番人たちの方へ向けた。
 亜美の瞳が黄金色に明滅する。次の瞬間、彼女の肩に食い込んでいた銀色のワイヤーが、ジチ、ジチと音を立てて「溶け」始めた。いや、金属としての性質を失い、それは無数の細長い「人間の指」へと変異し、のたうち回りながら地面へと落ちていった。

​「なっ……!? ワイヤーの構造が……崩壊している!?」

​「崩壊じゃない。……本来の中身が、溢れ出しているだけだ」

​ 亜美が足元のマンホールを軽く踏みつけた。
 すると、地底を流れる汚水という名の「中身」が、マンホールの蓋という「殻」を内側から突き破り、爆発的な勢いで噴出した。噴き出したのはただの水ではない。それは亜美の神性に呼応し、意思を持った「原形質の触手」となって、番人たちを次々と絡め取っていった。

​「が、あぁぁあ!!」

​ 一人の番人が、その触手に飲み込まれた。
 彼が纏っていた銀色の装備が、そして彼が誇っていた屈強な筋肉が、瞬時に輪郭を失っていく。触手と混ざり合い、彼の顔は「目」が「口」の位置へ、「鼻」が「耳」の中へと溶け込み、一塊の、脈動する肉の塊へと還元されていく。

​ それは死ではない。

 形を奪われ、アジル・イマの次女という巨大な「命」の一部へと統合される、究極の再誕。

​「亜美さん、……これが君の本当の力だ。……君が望めば、この醜い鉄とコンクリートの街を、……すべてひとつの『温かな海』に還すことができる」

​「……私、……恐ろしいよ。……でも、……佐伯さんの声だけは、……混ざらずに聞こえるの」

​ 亜美は、佐伯と溶け合った腕を強く握りしめた。
 彼女の指が、佐伯の腕の中に沈み込んでいく。もはやどこまでが彼で、どこからが彼女なのか、肉眼では判別できない。二人の神経系は混じり合い、佐伯の脳内には、太古の昔に宇宙から降ってきた「命の種」が見た光景が、黄金のノイズとなって溢れ出していた。

​ 番人たちは、自分たちの「形」を維持しようと必死に祈りを捧げ、特殊な鎮静剤を自らに注射した。だが、亜美が歩くたびに、周囲の重力すらもが「中身」を欲して歪んでいく。
 駐車されていた乗用車は巨大な果実のように爆ぜて赤い種を撒き散らし、コンビニのガラス窓は液状化して地面を這い回り始めた。
​ 新宿という巨大な「殻」が、内側から溢れ出す命の重圧に耐えかね、悲鳴を上げている。

​「――逃がすな! 予備班を投入しろ! 街が、街が消滅するぞ!」

​ 遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。だが、その音さえもが、亜美の近くでは「誰かの笑い声」や「赤ん坊の泣き声」へと変質し、意味を失っていく。

​「行きましょう、佐伯さん。……誰も知らない、……みんながひとつになれる場所へ」

​ 亜美の背中から、半透明の、胎盤のような膜を纏った「肢」が幾本も伸び、佐伯の身体を優しく包み込んだ。
 二人は、溶け合う夜の街へと消えていく。
 その後に残されたのは、建物としての機能を失い、ドロドロの肉の宮殿へと変わり果てた、かつての不夜城の残骸だけだった。

​ 次女イマ。その逆位置の女神が紡ぐのは、救済ではない。
 すべてが溶け合い、個という檻が消滅する、孤独なき地獄だった。

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