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第一部 夏雲(なつぐも)

第5話

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 凛と秋葉原に出かけたその日のお客さんは、名古屋から横浜に遊びにきたという19歳の男の人だった。

 秋葉原で見かけたひどい格好の人たちよりかは幾分ましだけれど、ファッションに無頓着でお母さんが買ってきた服を着てるって感じだった。

 散髪したての髪型も美容院じゃなくて床屋さんで切ってもらっているみたいだった。

 彼はシュウと名乗った。
 それが彼のハンドルネームだそうだ。

 レンニン様といい、彼といい、今日はなんだかハンドルネームとかっていうのに縁がある日だなとアタシは思った。

 彼はこれまでアタシが相手にしてきたお客さんと少し違っていた。

 これまでの男の人たちはみんなラブホテルの部屋に入った途端、アタシをベッドに押し倒してキスをしたり胸やあそこを触ったりした。

 だけど彼はファミレスで待ち合わせたときから今にも泣きそうな顔をしていて、部屋に入ってもリュックを床に置くとベッドに腰かけて、うつむいたまま何も喋らなかった。

 アタシはどうしてあげたらいいのかわからなくて、とりあえず彼の隣に座った。

 すると彼はそのまま体を倒してベッドに身をまかせたので、アタシも同じようにベッドに寝転んだ。

 彼は天井をぼんやりと眺めていた。

「チャットってしたことある?」

 彼はアタシにそう聞いた。

「小学校のとき、パソコンの授業中に、暇潰しに何度か」

 アタシは答えた。

 ふうん、とだけ彼は言って、

「ぼくは小学校三年から塾がよいをさせられて、他にも習字とかスイミングとかそろばんとか剣道とかいろいろ習わされててね、毎日習い事で友達ができなくて、太ってたからずっといじめられていたんだ。

 父さんや母さんが勉強でクラスで一番になればいじめられなくなるからって言ったから、まだこどもだったぼくは必死で勉強したんだ」

 アタシに身の上話を始めた。

「中学に入ってからもいじめは続いた。
 小学校のときはいつも一番だったけど、中学になるとそういうわけにもいかなくて、でもそれでも必ず学年で十位以内には入ってたから、学級委員をしたり生徒会で議長をつとめたりしてたんだ。

 いじめられてるのに、いじめ撲滅なんていう演説をみんなの前でさせられたりしてた。
 中学二年のおわりに、ぼくの内申点や学級委員や生徒会の経験とかを考えると、このままの成績を保てば愛知県で一番頭のいい県立高校に入れるだろうって先生に言われたんだ。

 父さんも母さんもとても喜んでくれたけど、中学三年になったときにね、ぼくはきづいちゃったんだ。
 ぼくがどれだけ勉強をがんばってもいじめは終わらないって。
 父さんや母さんが言ってることは間違ってるって。

 そしたら途端に勉強をするのが馬鹿らしくなって、成績はどんどん落ちて、気付いたら中の中くらいの高校にしか行けなくなってたんだ。
 受験が近付いて、志望校を決めないといけなくなって、ぼくはもうどこの高校に行ったって同じだと思ったから、父さんと母さんに決めてもらうことにしたんだ。

 愛知県には名西高校っていう学校があるんだけど、父さんはその学校より上ならどこでもいいって言ったんだ。
 ぼくはどうして? って聞いた。

 そしたら、父さんは、名西は父さんが働いてる小さな会社の社長の孫が通ってるところだから、それより上の高校にぼくを通わせて社長を見返してやりたいって、そう言ったんだ。

 頑張って勉強すればいじめられなくなると思って頑張ってきたのに、親の見栄のためにぼくは一生懸命勉強してきたのかって、ぼく馬鹿らしくなっちゃってさ、ますます勉強をしなくなったんだ。

 母さんはそれでもぼくをいい高校いい大学に通わせたかったみたいで、愛知県で有名な進学校を受験するように言った。母さんは世間体ばかり気にする人だったからね。

 だけどもうぼくにはそのレベルの高校に受験できる学力がなかった。
 結局ぼくは、名西より下の、父さんが名前も知らないようなできたばかりの高校に入学することになったんだ。
 それから父さんはぼくに対して興味を一切失った」

 そこまで聞いた後で、

「ねぇ、しないの?」

 アタシは尋ねた。



「話を聞いてもらえたらいいんだ。お金ならちゃんと払うから」

 シュウはアタシの手を握って懇願するような顔でそう言った。

 アタシは、彼がたぶん女の子とセックスしたことがないということや、アタシを抱くつもりもないことを、彼の話を聞きながら何となくだけど気付いていた。

「高校はぼくの家からすごく遠くて、ぼくの中学から入学したのはぼくだけだった。
 だからいじめられることはなくなったんだ。

 だけどぼくは長くいじめられすぎて、友達の作り方がわからなくなっていた。
 クラスメイトたちが楽しそうに笑っていても、いっしょに笑うことができなくなっていた。

 だからぼくは小説を読むことにした。
 ぼくは休み時間も授業中も小説を読み続けた。

 三年間で学校の図書室の本をすべて読み終えた。
 友達はひとりもできなかった。
 成績は一番下から十番目くらいになっていた。

 担任の教師はぼくが行ける大学なんてどこにもないと言った。
 それでも母さんは大学進学に固執して、ぼくは名前さえ書ければ誰でも合格できるような大学に入学したんだ。

 大学の入学祝に入学式で着るスーツとパソコンを買ってもらったんだ。

 パソコンの中でなら、ぼくはうまく人と話すことができるかもしれないと思った。
 こんなぼくにも友達や恋人ができるかもしれないって思ったんだ。
 だからぼくはチャットをはじめた」

 だからさっき、彼はアタシにチャットをしたことがあるかどうか聞いたのだ。

「毎日チャットに顔を出していたら友達はすぐにたくさん出来た。
 好きな女の子も、できた。

 アリスっていう名前で、東京のお嬢様学校に通う中学三年生で、両親は離婚しててお母さんとふたりで暮らしてるんだって言ってた。

 お父さんは日本人だけど外国の大学で教授をしていて、アリスも幼い頃は外国に住んでいて、だから英語がとても得意で、英検一級を持っているって言ってた。

 メールでケータイ番号を交換して毎日のように電話したんだ。
 春から三ヶ月、ケータイは通話料金だけで毎月五、六万飛んでいった。

 アリスもまだ顔も知らないぼくのことを好きだと言ってくれた。
 アリスに早く会いたかった。アリスもぼくに会いたがってくれていた。

 だけどぼくは不細工だし、背も低いし、女の子と直接話をしたことなんてなかったから、会ったらきっと一言もまともに話せないだろうし、顔も満足に見れそうになかった。

 一日中アリスのことばかり考えて、大学に行っても講義にはほとんど出ずに、ベンチに座ってアリスから来るメールを待ってるだけで、前期の単位はふたつしかとれなかった。

 母さんに泣きながら死んでくれって頼まれたよ。
 ぼくはできそこないだと父さんは言った。

 だから、ぼくはアリスに会うのがすごく怖かった」

 シュウは生きることがとても無器用な人だった。
 とてもかわいそうな人だとアタシは思った。

「チャット仲間の間でオフ会をしようって話になって、アリスも参加するって聞いたんだ。
 みんなでディズニーランドで遊ぼうって。

 シュウにも来てほしい、シュウに会いたいって言われて、ぼくは覚悟を決めたんだ。
 アリスに会いに行こうと思った。

 新幹線のチケットを買って、昨日東京に来たんだ。はじめての東京だったけれど、頑張って浦安まで電車を乗り継いだ。

 アリスは背が148センチしかなくて、小さくて、とてもかわいかった。
 とても恥ずかしがりやで、ぼくに会ってもずっとチャット仲間の女の子の後ろに隠れてた。

 ぼくたちはいろんなアトラクションでいっしょに遊んだけど、ほとんど一言も言葉をかわせないまま夜になってしまったんだ。

 オフ会のあとで、ぼくはアリスと明日はふたりきりで会おうと約束して、それじゃあまたチャットで、と言って別れた。

 ぼくはそのまま近くの漫画喫茶に入って、チャットにアリスがやってくるのを待ったんだ。
 一時間くらいしてアリスがチャットに顔を出した。

 もう電話してこないで。メールもしないで。
 アリスはそう言って、チャットから出て行った。

 意味がわからなかった。
 ぼくはアリスに電話したんだ。
 出てもらえなかった。
 しばらくしてケータイに一通だけメールが届いたんだ」

 シュウはケータイを取り出すと、そのメールを見せてくれた。

「あんたみたいな気持ち悪い男と付き合うなんてありえない」

 メールにはそう書かれていた。



「アリスが恥ずかしがってるように見えたのはぼくの勘違いだったんだ。
 ぼくはずっと気持ち悪がられてたんだ」

 シュウは泣いていた。

「アリスにもう二度と会えない。アリスの声がもう二度と聞けない」

 はじめて人を好きになったんだ、アリスだけがぼくがここにいてもいいんだって言ってくれてる気がしてたんだ、アリスがもういないなんてぼくはこれからどうやって生きていったらいいかもうわからない。

 彼はそう言って泣きじゃくった。

 アタシは体を起こして、シュウの唇にキスをした。

 着ていたセーラー服のスカーフをはずして、シュウの顔に巻いて目隠しをした。

「アタシのことアリスちゃんだって思っていいよ」

 アタシはシュウの耳たぶに囁きかけた。

 シュウは泣きながら、こどものように、うんうんと何度もうなづいた。

 アタシは、彼が着ていたシャツのボタンをひとつずつはずして、ベルトをはずして、ジーンズのチャックを下ろした。

 トランクスから彼の小さなペニスを取り出すと、口に含んだ。



 シュウは誰かに話を聞いてほしくて、漫画喫茶からツーショットダイアルに電話をかけたのだと言った。

 そして、そんな彼の電話の相手をしたのが美嘉だった。

 彼女はファミレスで、

「今日のお客さん、なんかちょっとキテる感じの人なんだけど、別にいいよね」

 と、アタシに言った。

 アタシは別に構わないと言った。

 どんな男の人が相手でも、美嘉が連れてきた相手なら、アタシに断る権利なんてなかった。

 セックスしなくちゃいけないのだ。
 お金をもらって、それを全部美嘉に渡さなければいけないのだ。

 それに、昼間凛とツムギからスタンガンを渡されていたから、どんな男の人が相手でも恐くはなかった。
 それはインスタントカメラを違法改造したものだったけれど、

「本物のスタンガンと威力は変わらないよ」

 ツムギはメイドカフェでそう言った。

「10人の人間がこれを見て、10人ともインスタントカメラだと思う。
 誰もこれがスタンガンだとは思わない。
 時代はデジカメやケータイのカメラだけど、別にいつも鞄の中に入れていても不思議じゃないし、誰かに見られてもわからないから、本物を持つよりずっといい」

 君は美嘉ちゃんて子にウリをさせられてるんだろ、凛から聞いてる、やるだけやってお金を払おうとしない奴がいるかもしれないし、外国の有名な殺人鬼の切り裂きジャックってやつは娼婦しか殺さなかった、これから君のところにどんな男が来るかわからない。

 だから護身用に常に鞄の中に入れておきなさい、とツムギは言った。



 美嘉たちが作った料金表には、フェラチオは追加料金が発生することになっていた。

 アタシが口の中に出された精液をはきだしてもいいなら、+3千円。
 アタシがそれを飲み込むなら、+6千円。

 だけどそんなことはどうでもよかった。

 アタシはシュウにセックスの楽しさを教えてあげたかった。

 だから彼が望むことはなんでもしてあげた。

 アタシはその日、はじめて男の子の精液を飲み込んだ。

 yoshiにもしてあげたことがなかったことだった。

 安全日だったから、生でさせてあげた。中出しもさせてあげた。

 妊娠するかもしれないなんてアタシの頭にはなかった。

 ほんの数時間だけだけれど、アタシはシュウが望む恋人になってあげたかった。



 セックスのあとで、昨日の夜から何も食べていないと言うシュウと、ルームサービスを頼んで夕ご飯を食べた。

 シュウは食べながら、今度はアタシの話を聞いてくれた。

 アタシが冗談を言うと、楽しそうに笑っていた。

 シュウは今日、新幹線で名古屋に帰るのだという。

 チケットをとってあった新幹線の時間が近付いていたので、アタシたちは帰り支度を始めた。

「君、名前はなんて言うんだっけ」

 麻衣だよ、とアタシは答えた。

「ありがとう、君に会えてよかった」

 食べ終えると、アタシたちはラブホテルの出入り口で笑顔で手を振って別れた。



 その夜、シュウが横浜駅のホームに滑り込んできた新幹線の前に飛び込んで死んだのを、アタシは翌朝のテレビのニュースで知った。


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