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第三部 冬晴(ふゆばれ)

第17話

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 山汐凛の山汐という苗字は母親の旧姓であり、本名は夏目凛という。

 その話をわたしはアリスから聞いたのだったろうか。
 加藤学からだったろうか。


 夏目凛は、広域指定暴力団「夏目組」の組長、夏目蔵人(くらうど)の孫にあたる。

 夏目凛には5つ年上の兄、紡(つむぎ)がいたが、凛が5歳の誕生日に他界していた。

 紡は落ち着きのない子どもだった。
 10歳の男の子なんて、みんなそんなものかもしれないが。

 紡は、凛の誕生日会を、まるで自分の誕生日のように喜び、はしゃぎ、そして祖父が大切にしていた、数億円もする花瓶を割ってしまった。

 普段は温厚で優しかった祖父は激昂し、紡はその場にあった日本刀で斬られたという。

 大好きだった祖父が、大好きだった兄を、自分の誕生日に斬殺した。


 凛はまだ、死というものを理解してはいなかった。

 だから、身体を真っ二つに斬り裂かれ、血飛沫が舞い、動かなくなった兄を見て、喋らなくなった兄を見て、冷たくなっていく兄に触れ、それが兄だったのかどうかすらわからなくなったという。


 祖父はきっと兄といっしょになって、自分を驚かせようと、兄に似た人形か何かを使って、手品を見せてくれたのだ。

 凛はそんな風に解釈した。

 しかし、手品の間どこかに隠れていただけのはずの兄は、隠れたまま出てこなかった。


 それを機に、凛の両親は別居をすることになり、母親に引き取られた凛は、山汐の姓を名乗るようになった。

 お兄ちゃんはいつまで隠れているつもりなんだろう?

 お母さんと引っ越すことになったのに、まだ出てこないなんて。

 凛には不思議でしょうがなかった。

 だから、凛は、出てこれない理由があるのだと思った。


 母親は、凛の妹を妊娠していたが、目の前で息子を殺されたショックから、流産していた。


 凛は、お母さんはもうすぐ凛の妹が産まれると言っていたのに、いつになったら、妹は産まれてくるんだろう、と思った。

 芽衣(めい)という名前まで決まっていたのに。


 いつまで待っても兄は出てこず、妹も産まれてこない。

 凛は妹はとっくに産まれているのではないかと考えた。

 理由はわからないが、母親がどこかに隠してしまったにちがいないと。


 母親は酒浸りで、遊んでくれない。

 祖父や父親は会いに来てくれない。

 兄は隠れたまま出てこず、妹は母親が隠してしまった。


 凛の中に、最初に産まれたのは、内藤美嘉だった。

 夢見がちなこどもが作る、空想のお友達の延長線上に内藤美嘉は産まれた。


 そして、山汐紡が産まれ、山汐芽衣が産まれた。


 山汐凛は、祖父や両親に代わる新たな人格をも産み出し、その後も多くの人格を産み出していった。

 凛ですら把握できないほどに。

 人格が増えるたびに、凛は少しずつ、段々と、言動がおかしくなっていった。

 そこで紡は、人格をデジタル化したプログラムとして、携帯電話を利用して管理することを考えた。

 凛を守るために。

 凛の他には、自分と妹と、友達の美嘉がいればいい。


 紡の計画はうまくいった。

 芽衣も、その手伝いをかって出た。


 けれど、紡の計画は、一見うまくいっているように見えたが、それぞれの人格の最も強い欲望が、凛の中に自我がない状態で残りカスのように漂っていた。

 そのことに芽衣だけが気づいた。

 その残りカスを、もし凛が取り込んでしまったら。

 凛は凛でなくなってしまう。


 芽衣は、紡には何も話さず、その残りカスをすべて自分が請け負うことにした。

 自分が芽衣でいられなくなることはわかっていた。

 けれど、きっと紡がどうにかしてくれるだろうと考えた。


 しかし、芽衣は芽衣でなくなるだけではなく、紡ではもはやどうにもできないほどになってしまった。


 そうして、山汐芽衣は、夏目メイを名乗るようになった。
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