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第三部 冬晴(ふゆばれ)

最終話(第20話)

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 わたしは彼が目覚めるまで、彼を待つことにした。

 誰とも付き合わず、誰とも結婚せず、ただ彼を待つだけではなく、彼が目覚めたときに、彼の隣にいさせてもらう自分を恥ずかしいとかみじめだとか思わないでいられるような女の子にならなければいけないと思った。

 彼がわたしの恋人や夫であることで、自分の自己顕示欲や承認欲求を満たすような女にだけはなりたくなかった。


 なるべく彼のそばにいたくて、高校を卒業したわたしは、東京の大学に進学した。

 2011年のことだった。


 精神科医になりたいと思った。

 山汐凛のように、解離性同一性障害で悩み苦しむ人の助けになれれば、と思った。

 自殺した兄や残されたアリスのような人の助けになれればと思った。

 けれど医学部に行けるだけのお金がうちにはなかった。

 アリスは、それくらいのお金、わたしが出してあげるよ、と言ってくれた。

 だけど、わたしは丁重にお断りをして、心理学部のある大学を選んだ。

 けれど、一緒にあの家で住まわせてほしいとお願いした。

 だから、大学に進学してからは、わたしはずっとアリスといっしょに暮らしていた。


 人の心というものについて知りたかった。

 大学を卒業したあとは、そのまま大学院に進んだ。

 2015年のことだった。


 彼は七年間、一度も目を覚ますことはなかった。

 それでも、わたしはいつか必ず帰ってきてくれると信じていた。



 彼がシノバズというハッカーに依頼した、山汐凛や山汐紡、山汐芽衣(≠夏目メイ)らのデジタル化されたプログラムをパソコン上で起動させるソフトは、2009年の春には完成していた。

 しかし、シノバズはそれだけでは満足せず、山汐紡が作った技術をより高度なものへと進化させようとした。

 それは、もはや医療の分野の最先端の研究に等しいといっても過言ではないものだった。

 わたしが大学生になる頃には、山汐凛のような解離性同一性障害の患者が、スマートフォン一台の中のアプリケーションで人格の管理を可能としていた。

 夏目メイが残りカスと呼んでいたものは、ブレインデブリと呼ばれるようになった。

 ブレインデブリを残すことなく、完全に人格をデジタルプログラム化する方法も確立していた。

 シノバズは、それを一番に山汐凛に渡した。

 それを、医学界がどうするかまでは、彼にはどうすることもできない問題であったから、医学界にすべてのデータとアプリケーションが入ったスマートフォンのサンプルを提供するだけにとどめた。


 シノバズはさらに、人格のデジタルプログラム化を応用することによって、彼と同じようにいつ目覚めるかもわからない脳死状態にある患者を救う方法を考えた。

 患者の人格を一度スマートフォンにデジタルデータとして移し、患者の人格を再インストールさせることで、デジタル化された人格の受け皿を作り、患者を目覚めさせる技術を産み出した。

 脳死状態の患者に、医師でもない彼が勝手にその技術を試すことは、犯罪にあたる。

 これには医学界の協力が必要不可欠であり、すでにスマートフォンのアプリでの人格管理の治験を終え、精神医療の現場に導入していた医学界は、その技術に飛び付いた。

 いつ目覚めるかすらわからなかった脳死状態の患者たちは次々と目を覚ましていった。

 わたしが大学を卒業し、大学院に進学した年のことだった。

 しかし、その技術でも、彼を目覚させることはできなかった。

 夏目メイが彼の脳内に作った、彼女の人格を迎え入れるための器が、彼が目覚めるのを邪魔していた。

 シノバズは今度はそれをどうにかする方法を考えてくれた。


「どうして彼のためにそこまでしてくれるの?」

 と、尋ねたわたしに、

「ぼくも君に負けないくらいに、彼のことが好きだからだよ」

 と、シノバズは言った。

「あと、君や麻衣ちゃんが心から笑う顔が見てみたいからね」

 とも言った。


 人の心は、何年学んだところで、理解できるものではなかった。

 フロイトやユングの時代から研究され続けているものなのだ。

 わたしは一生を、彼と心理学に捧げるつもりでいた。

 わたしは大学で研究を続けるうちに、論文が認められ、准教授になった。

 教壇に立ち、学生たちに講義をするのは、不思議な気持ちだった。

 わたしは仕事を終えると、毎日のように彼を見舞った。



 2020年10月28日の夜、彼は目を覚まし、

「お帰りなさい」

 と言ったわたしに、

「ただいま」

 と彼は言った。
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